1(持ち逃げ)
素敵な悪事のはじめかた(12+)
スーツケースの中身を見せられ、デンバーは唸った。「なんで持ち逃げしようとしたんだ?」
「だってぇ」と対面に坐るアリゾナは、舌足らずの甘ったるい声で、「神さまが余所見してくれたみたいに目の前にぽいって出てきたのよ? それで持って逃げなきゃいつ逃げる?」口元に大きな笑みを浮かべて云った。
デンバーは再び唸った。くそっ。このバカ女。面倒事ならテメェひとりで抱え込め。おれを巻き添えにするな。
アリゾナは両手を合わせて、「ごめーん、ねっ」かわいく小首を傾げて見せた。
謝罪になってねぇ。デンバーはまた唸った。このバカは何も分かっちゃいねぇ。
「巻き込んじゃって、ごめーん、ねっ」
「詫び入れるのはおれじゃねぇだろ」
するとアリゾナは、「あらやだ」一転、真顔になった。「謝り損じゃん」
「バカ野郎」
「野郎はアンタよ」
「うるせぇ、売女」
電光石火の一閃。デンバーは頬にまともにビンタを喰らった。
「ブッ」変な音が口と鼻から飛び出た。
「誰もアタシをそんな風に呼ばせない」アリゾナは身を乗り出し、デンバーの前髪を掴むと、乱暴に揺さぶった。「分かった? このハゲ」
「ハゲてねぇ」我ながら情けない返しだと思った。「まだハゲてねぇ」
「予定が早まることは、ままあるのよ」
アリゾナは前髪を掴んだまま、がっくんがっくん、頭を右に左に、前に後ろにと振り廻す。この細腕のどこにそんな力があるのか不思議でならない。
オーケー、オーケー。身の危険を感じ、デンバーは観念した。「分かったからやめろ」
わぁかぁったぁからぁやめぇえろぉお。
揺すぶられて母音を伸ばす南部訛りのような声になったが、髪を掴んだ手が止まった。
「なんだ」どうして手を離さない?
「本当に?」アリゾナが訊ねる。
「本当だ」デンバーが応える。
「何が分かったって?」
「お前さんが清廉潔白で、神さまも跪くほどの純白の乙女だってことだ」
さっきよりひどく頭を揺すぶられてデンバーは目を廻した。
「やめやめやめ」
うぇっぷ。酸っぱいおくび出た。
「ハッ」バカにしたように、アリゾナはぐいと強く引っ張った。ブチブチと嫌な音を立てて前髪が持っていかれた。
「汚ったな」アリゾナは手を払うと、デンバーのシャツの裾になすりつけた。「ワックス、付け過ぎ」
頭皮の痛みと情けなさで視界が滲む。「ほんとにお前はヤな女だ」
「アンタはダメな男だよ」
デンバーは唸った。なんでそんなケチョンケチョンに云われにゃいけんのか。
「でもさぁ」アリゾナが笑った。「つまりそれってアタシたち、お似合いってこと?」
「ノーサンキュー」
ふんっ、とアリゾナは鼻を鳴らした。「こっちだってお断りよ」
「そのお断り相手のところにブツを持って転がり込んできたのはどちらさんですかね」嫌味の一つも云いたくなるってなもんだ。
しかしアリゾナは首を傾げ、「アンタが第一候補だって、どんだけ自惚れてンの?」
「おいおい」デンバーはぐるりと目を廻した。「なお悪い」
「まぁそうね。アンタなら迷惑も迷惑じゃないかなって思ったのは事実」
「褒められたのか?」
「ンなワケあるか」アリゾナはにべもなく否定した。「アンタなら、例えばアタシが脅されて殺されかけて、でも返り討ちにしたって話になっても、特に問題にならないかなっと」
「おいおい」デンバーは恐怖で引きつった。「マジで悪魔のような女だな。冗談だろ?」
「まぁ半分くらいは」
「本当は?」
「まぁ八割方」
「殆どじゃねぇか」
「ごめん。九分九厘」
「待て待て」デンバーは身の危険を今一度はっきりと感じた。「お前、最初からそのつもりだったんだな?」
「いや別に?」
「なら、どうしておれは縛り上げられてるんだ?」