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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

小指の先には何もない

作者: 新海莉子

「まずい、成久。結構降ってきたぞ」

「あの神社で雨宿りさせてもらおう、忠道」

 五月のゴールデンウィーク直後のことだった。お天気お姉さんは笑顔で今日一日快晴だと言っていたのに、下校している最中に突然大粒の雫が空から降った。無論傘は持っていない。仕方がないので、僕は同じく帰路についてた男、忠道と共に古びた神社の軒下で休ませてもらうことにした。恐らく神主が来ることはないだろうが、不必要に叱られるのも嫌なので裏手に回る。


「すげえ雨。成久、お前傘持ってる?」

「持っていたらとっくに一人で帰っているよ」

 黒いハンカチで制服と眼鏡を拭きながら、僕はそう答えた。チェッ、俺と相合傘してくれないのかよと隣で文句を言う声が上がるが、気にしない。忠道は生来のお喋り好きだ。軽口を叩く様は、さながらポップコーン製造機のようである。一つ一つはあまりにも軽く、意味もない。

「雨あめ降れふれ、っていうのも子どものうちだけだよな。流石に母さんが迎えに来てくれる年じゃなくなっちまったもん」

「母親が迎えに来なくても、電話すれば飯沼さんは来てくれるだろう。商店街に行けば公衆電話があるぞ」

 飯沼さんとは忠道の家の運転手である。

「はは、やだよ。行くまでに濡れるって」

 そう言って、腰ほどまである神殿裏の縁側に難なく尻を置いた。すぐに板の色が濃い茶色になる。

「座るなら服の水を払ってからにしろよ」

 そう言って新たに青いハンカチを差し出すと、忠道は驚きの表情で受け取った。

「何だよ」

「お前、ハンカチ二枚持ってんの? すげえなあ、一人暮らしでそんなとこまで気が利くかね、普通」

「偶々だ」

 僕も彼の左隣に腰掛ける。木材のすえた臭いが、ぷんと鼻に届いた。

「俺なんか一枚も持ってきてねぇよ」

「それもどうかと思うけどな」

「いやあ、成久はいい嫁さんになるよ。別嬪だし」

 肩に付いていた雫を払いながら、忠道はしみじみと言う。その隣で、自分の眉根が自然に寄るのがわかった。

 僕は自分の女顔が嫌いだ。食べても食べても薄い腹や、病気かと疑われるほど青白い肌も。忠道は明朗な好青年だが、時々口が過ぎることがある。

「私が美しいのと、ハンカチーフを持っていることに、一体何の関係性があって?」

 だから、わざと高慢そうな女言葉でそう言う。

すぐに地雷を踏んだと悟ったのか、彼はすまん、と素直に頭を下げた。忠道は口の過ぎる青年だが、自分の非を認める純粋さを持ち合わせている。それは彼の誇るべき美点だ。

「許してあげてよくってよ」

 僕が頷くと、忠道はうへえとうめき声を洩らした。続けて言う。悪かったから止めてくれ、と。

「その口調、ほんとに登喜子お嬢さんに似てんだよ」

「だったらそんな声出すなよ。婚約者だろう」

 登喜子嬢は僕たちと同じ高校三年生。由緒正しい家柄の長女として生まれあそばしただけあって、かなり自尊心が強めらしい。小さいころから忠道の許婚として選ばれていたそうな。

「婚約者だからこそ、だろうが。お前、一遍あの女に会ってみろよ。傲慢と虚栄と俗物の塊で、それ以外はスッカスカ。俺のことも多少は哀れに思えるだろうさ」

 はあ、と溜め息を吐く忠道に、今度は僕が悪いと声をかけた。

「いいんだけどさ。いや、よくないけど仕方ないしさ」

 忠道の家はある種、特殊な能力を持った一族だ。僕たちの学校で「お守り一族」と言ってわからない奴はいない。

「姉さんが結婚してから随分経つし、俺の縁談に周りが口出すのもしゃーないからなあ」

「お姉さんって、いくつ」

「俺の二つ上。四年前に嫁いだ。姪っ子もいるよ」

 ということは、十六歳で結婚した計算になる。流石、というべきか。忠道の家と縁を結びたがる人間は多い。

「七緒――妹はまだ小さいし、俺に集中砲火なんだよ」

 忠道はぶらりぶらりと足を揺らしながら、僕のハンカチを自身の眼前に広げた。


「割と厚いんだな。透けねえや」

「水を吸ったときに濡れるのが嫌だからな。結構気に入ってるんだ、使いやすいだろ」

「俺は薄いやつがいいなあ。軽いし」

 そう言って、ふうふうとハンカチに息を吹きあてる。べろりべろりと捲れる布を見ていると、寿司屋の暖簾が脳裏によぎった。

「持ってないんだったら意味ないだろうが」

「それもそうだ」

 はは、と笑うと、忠道は丁寧にそれを畳んだ。僕のとは違い、太くて、厚くて、頼りがいのありそうな男の手が繊細な動きをしている。彼を見ていると、時々、自分が本当に男であるのか曖昧な気持ちになる。所謂劣等感だ。

 それを振り払うように言葉を紡いだ。

「雨、止まないな」


 ざあざあと降る滝のような雨水は、僕たちがここまで来た足跡さえも消すように、強い力で地面を打っていた。水たまりというにはあまりに大きいものが、目の前に出来上がっていく。もしかしたら今頃、学校の二十五メートルプールも雨水で溢れかえっているのかもしれない。いや、それはないか。

「昔はさ、池で身投げをする人も、多かったんだよなあ」

 隣の男が不意に物騒なことを言い出したので、僕はぎくりと身を引いた。

「何だよ、急に」

「水たまりが池みたいだなあ、と思ってさ」

 どうやら同じものを見ていたらしい。考えたことは全く違っていたようだが。

「したら、昔は両想いでも家の反対にあって、来世で会おうってことで身投げする人がいたことを思い出したんだよ」

 来世で会おう。そうして命を絶つことができるほどに、相手を愛したのか。少し考えるそぶりをするが、答えはもう出ている。

「無理だな。それほどの覚悟はない」

 きっと僕なら、親の定めた好きでもない人と結婚する。いくら好きな人がいたとしても、命を落としてまで一緒にいたいとは思わない。

「はは、俺もだ。きっと現代人の感覚なんだろうなあ」

 そこに少し悲しげな響きが含まれていたことに、僕は気付かぬ振りをした。思考を彼の発言だけに集中させる。

 彼の言葉の「現代人」というのは、「僕たちの世界に住む人間」と変えた方がしっくりくる気がする。家の名前が大きいほど、それなりに義務や面倒や不自由もある。俗に言う、ノブレスオブリージュといったところか。


「愛を百パーセント出し切って、死ぬんだろうなあ」

「は?」

「俺はさ、人の愛情量って決まってると思うんだよ。俺もお前も、みんな百の愛情しか持ってなくって、それを遣り繰りしていかなきゃいけないんだ」

「まるで小遣いみたいだな」

 快活な男は、やはりははと口を開けて豪快に笑う。だが、それは今までにない空虚さが滲んでいた。

「そうだな、小遣いみたいなもんだ。両親に二十あげて、道行く人に一ぐらいずつはあげて、友達にもってやってたらさ、あっという間にすっからかんよ」

 面白い考え方だと思う。

 もし忠道の論を当てはめるなら。僕は父に、そして今は亡き母に、どれほどの愛を渡せるだろうか。そして養母には――僕を妾の子と蔑み、極めつけに家から追い出した彼女に、愛を渡すことはできるのだろうか。

「それじゃあお前の中にはもう、登喜子嬢にくれてやる愛は残ってないってことか」

「そういうことになるな」

「それで良い訳がないことは、わかってるんだろう」

「わかってるさ、でも仕方がないだろ」

「俺のような子が生まれることになっても?」

「……」

「それは、たぶん不幸の始まりだ」

 忠道は答えない。ただただ、足跡の消えかかったぬかるんだ地面を見つめている。痛いところを突いた。誰よりも僕の口から聞かされるのが、彼にとって最も酷だということは分かりきっている。でも、だからこそ僕の手で引導を渡さなくてはいけない。例え心臓を抉られるような痛みを伴ったとしても。

「努力は必要だよ。お前の小遣い論で言うなら、うまく遣り繰りするための努力が」

 限られた分しかないのなら、ある程度の知恵や我慢が必要なのだろう。僕はそう育てられた。忠道も同じく。しかし、返ってきた言葉はやはり反抗的なものだった。

「それは、いま好きな人を嫌いになる努力か?」

 ゆっくりと彼の顔を見遣ると、黒炭のような静けさを持った瞳が僕を見つめていた。忠道は再び口を開く。


「それは、俺の心を殺す努力になるんじゃないのか?」

 恐らく、忠道は正しいのだ。今の恋情を捨て去り、その分を登喜子嬢に宛がうなんて、心を殺す以外の何物でもない。でも、彼の恋は成就しない。俺の想いが実らないのと時を同じくして、死んでいく。

「忠道だって言っていただろう。身を投げる覚悟なんてないって」

 どうにも彼を納得させることを言えなくて、僕は残酷にも、彼の言葉の揚げ足を取った。きっと本意ではない彼の言葉の。

「それが、僕たちの生き方だ」

 これでこの話はもう終わり、そういう意味を込めて、わざと大袈裟に口角を上げた。引きつっているのはわかっているが。しかし、忠道も引いてはくれなかった。なおも言葉を重ねる。

「俺は、本当は」

「……忠道」

 これ以上言ってはいけない。僕たちには担うべき義務がある。

「本当は、お前となら」

「忠道」

 それを受け入れることしかできない。背くことなど許されないのだ。だから。

「逃げることだって」

「言うなっ!」

僕のその勢いに、続く科白は殺されたらしい。

「お、俺は――」

「言うな……」

「俺は――」

「……」

「――ごめん」


 雨はざあざあと降り続ける。僕たちの足跡を消して。人が溺れそうなほどの水たまりを作って。隣から小さくしゃくりあげる声が聞こえる。しくしくと。けれど、僕は――僕たちは何もできない。このまま逃げてもどうにもならないことを、生まれた時から理解しているのだから。身投げをする勇気もないのだから。


 不意に、小指にぬくもりを感じた。人柄を感じる、柔らかな暖かさだった。視線を向ければきっと離れて行ってしまう。そのことを直感的に悟って、だから僕は目を閉ざした。神経がすべてそこに集まればいいと思いながら。

 体はどんどん冷えていくが、不思議と満ち足りたような気分になったのは、どうしてだろう。

「ごめん……ごめんな」

 優しい声が耳朶を震わせる。謝るのは僕の方だ、いや、誰も謝るべきではないのだろう。でも、純粋な彼は僕に許しを請う。

「ごめんな」

 いいや、なんて、野暮なことは言わない。どんなに求め合ったって、僕たちには越えられない壁がある。どちらかの性が違えば未来は変わったのだろうかと、そう幾度も考えたが、それこそ今さらどうにもならないことだ。


 小指を伸ばせば、きっともっと彼を感じることができる。

 でも、僕はそうしない。そんな勇気はないのだ。

 だから、自分に言い聞かせる。


 小指の先には何もないのだ、と。


本来は美術室シリーズの派生作品として作ったものですが、同性愛描写があるため別枠の短編で掲載します。

こちらの登場人物はほとんど本筋には関係ないため、独立した作品としてお楽しみいただければ幸いです。

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