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のぞむところにございます。

 黄昏の炎が消え、夕闇の藍に染まりはじめた空。


 夜の気配を横目で感じながら、綺羅は長い廊下を歩く。

 軒下に垂れさがる濃い影が、満月の明るさを印象付けた。


 楓雅が起きたので、食事を取りに行くのだ。

 本当は浅野家の侍従か自分の侍女に頼めばいいが、綺羅は自分で取りに行くと言って押し切った。


 先ほどまでのことを思い出して、綺羅は頬を朱に染める。

 火照った顔を両手で押さえながら、首をブンブン横に振るが、少しも思考がおさまらない。

 恥ずかしい隠し事が全部バレてしまったからと言って、いきなりあんなことをするなんて。

 抱きしめられた感覚が今でも身体にしみついていて、何だか居心地が悪い。

 今更のように心臓が乱れた律動を刻んで脈打ってきた。

 胡蝶といるときは、もっと楽しい気分になって、妄想も爆発的に弾んだ。

 こんなに恥ずかしくて思考が停止してしまうなんて、理由が少しもわからない。

 あまりに嫌だから、頭が拒否反応でも起こしているのだろうか。


 二人でいる空気に耐えられなくて、つい部屋を出る口実を作ってしまった。

 だが、よく考えれば、楓雅が起きた時点で自分の屋敷に帰った方が良かった気もしてきた。

 失敗してしまったと頭を抱えながら、綺羅はゆっくり廊下を進んだ。


「綺羅さん。よかった、無事だったのですね」

 唐突に声をかけられ、綺羅は肩を震わせる。

 別に悪いことはしていないが、いきなり声をかけられると驚いてしまう。

 綺羅は火照った顔の熱を抑えようと努めながら、声の方を振り返った。

「あら、鶴子会長」

 そこに立っていた胡蝶親衛隊の会長、長谷川鶴子だった。

「また騒ぎがあったみたいですけれど、大丈夫でしたか?」

 心配そうな顔で問われて、綺羅は鶴子を安心させようと笑みを作った。

「前は馬車に細工で、今回はお菓子に毒でしょう? いったい、誰がそんなことを……」

「今、胡蝶様がお調べになっているそうです」

 綺羅は一瞬、眉を寄せながらも、何食わぬ顔で鶴子の視線に応えた。

 そして、自分の中に感じた違和感の正体を探る。


「あの、会長……胡蝶様に会われたのですか?」

「え、どうして? あの後から、お会いしていませんけれど」

 やっぱり、おかしい。

 綺羅は一気に強まった違和感に急きたてられるように、鶴子から距離を取ろうと後すさりした。

 けれども、綺羅の様子に気づき、鶴子が細い腕をつかんだ。


 まっすぐに綺羅を見据える視線は、どこか思いつめたように重くて、息が詰まりそうだった。

 その様相に耐えかねて、綺羅は首を振る。

「胡蝶様は二件目の詳細を、まだ公表していないと仰っていました。どうして、会長がご存じなのでしょうか?」

 思わず息を呑む鶴子。

「それは、――綺羅さん、聞いてください」

「まさか、あなたがあの人を……」


 ――おまけに、決まりかけていた結婚を破談にして、別の娘と結婚出来ないか私に泣きついてきたときは、どうしてくれようかと思ったな。


 もしかして、楓雅との婚約が破談になった娘は鶴子で、その逆恨みに綺羅を?

 わざわざ綺羅が乗っている馬車に細工をしたのも、菓子に毒を盛ったのも……。

 菓子は綺羅たちの足元に置かれていた。誰が触っても、気がつかない状況だったのだ。

 綺羅に疑いがかかれば、婚約は破棄される。

 そんな小細工までして、楓雅と結婚したいというのか。


 何とか鶴子の手を払い除けて、後ろへ走る。

 すると、ちょうど武官の装いをした男がこちらへ歩いていた。恐らく、身回りの者だろう。

 綺羅は助けを求めようと、男に駆け寄る。


 だが、様子がおかしい。

 男は綺羅を見ると、腰に帯びた長刀を抜き、構えた。


 状況を把握して鶴子を威嚇しているのだろうか。

 いや、違う。

 銀の一閃は間違いなく綺羅に向けて振りあげられている。


「綺羅さん!」


 鶴子が叫び、綺羅の手を引いて走る。

 衣が足元にまとわりつくわずらわしさに阻まれながら、綺羅は引きずられるように鶴子について走った。


「ど、どういう……」

「申し訳ありません。あれは、父の手の者だと思います」

 鶴子は早口で告げる。

 二人は親衛隊が胡蝶を過剰追跡(ストーカー)、ではなく、観賞するために使っていた秘密の小部屋に滑り込み、なんとか追手を撒く。


「どうして、会長のお父様が?」

 問うと、鶴子は眼を伏せながら事の顛末を説明した。

 楓雅と元々結婚するはずだったのは、長谷川家の一人娘である鶴子だったこと。

 彼女の両親は婚約が破棄されたことに納得がいっておらず、綺羅を陥れようとしたこと。

 楓雅の暗殺未遂の罪をなすりつけて、綺羅を殺してしまえば、再び縁談の話を戻すことが出来るかもしれない。

 そのために、長谷川は刺客を放ったのだ。

 恐らく、綺羅が楓雅を殺害しようとした現場を押さえて捕えようとしたが、抵抗したのでその場で斬り殺したことにでもするのだろう。


「わたくしは、浅野家になど嫁ぎたくないのに……巻き込んで申し訳ありません」

 鶴子の声が重く沈む。

 それは追手から逃げるために走ったからではない。

 隠しきれない感情の渦のようなものを感じ取って、綺羅は鶴子を覗き込む。

「お慕いしている方が、いらっしゃるのですか?」

 綺羅は人の感情に敏くはない。それは今回の楓雅の件で痛いほど自分でわかってしまった。

 しかし、なんとなく、そう感じてしまう。

 先ほど見せた胡蝶の表情と、今の鶴子の表情は、どこか近しい気がしたのだ。

 鶴子は綺羅の問いに眼を丸めたが、やがて、頬をほのかに染めながら頷いた。

「はい……だから、浅野様からの破談の申し出も受けました」

「そうですか。どのような殿方なのですか? 胡蝶様に近しい方なのでしょうか?」

「別に胡蝶様が目当てでお慕いしているわけでは……でも、とても、真面目な方です。真面目すぎて、まだ手も握ってくださらないの」

「胡蝶様に近しくて、真面目。秀明殿下は、違っていそう……わかりました。影連秋栄(かげつらしゅうえい)様にございましょう? 胡蝶様の側近の中で、絵に描いたような真面目なお人ですもの」

「…………」

 思いついた男性の名をあげると、鶴子は黙ってしまい、顔を真っ赤にして俯いた。当たったようだ。

 鶴子はその殿方と結婚したいのだ。

 それなのに、長谷川は娘を無理に楓雅と結婚させようとしている。

 公家の結婚など幸せなものばかりではない。けれども、このような手段まで使うなんて、あんまりだ。


「綺羅さんは、浅野様がお好きですか?」

「大嫌いです」

 即答すると、鶴子は何故かおかしそうに唇を綻ばせた。

「でも、浅野様はあなたのことをお慕いしていましてよ」

「……知っていたのですか?」

「ええ、なんとなく。すぐに、浅野様が結婚したいとおっしゃった方が綺羅さんだとわかりました」

「知っていらしたのでしたら、教えてくださってもよろしゅうございましょう。胡蝶様の恋人や悲恋などと、他の方々と楽しそうにお喋りされていたではありませぬかっ」

「それは、それ。これは、これです。妄想はお菓子のようなものでしょう?」

 綺羅は全く気がつかなかったというのに……鶴子が本当に楽しそうなので、綺羅はばつが悪くなってしまう。


「わたくし、あの方が大嫌いです。今後、愛せるかどうか自信もありません。でも、――」


 神のような存在の胡蝶にセクハラを繰り返す不届き者で、罵られて喜ぶ超変態。

 綺羅と結婚しようと裏工作までしたくせに、なかなか手が出せない根性無し。

 しかし、全部バレてしまったら開き直って恥ずかしい言動も平気でするダメ男。

 それでも……胸の奥から浮かんできた答えを掬い取るように、綺羅は小さな唇を開いた。


「でも、そう出来るようになる努力をしてもいいとは、思っております」


 今の綺羅に出せる素直な答えだ。

 これ以上でも、これ以下でもない。

 等身大の想いを声に出して、綺羅は鶴子を見据えた。


 刹那。

 小部屋の扉が跳ね飛ばされる。

 見つかってしまったようだ。

 綺羅は素早く身をひるがえし、鶴子の前に立った。

 追手の狙いは綺羅だ。鶴子には怪我などさせたくない。

「綺羅さん!」

 鶴子の叫びを背に、綺羅は懐に手を滑らせる。

 そして、扉を潜ろうとする男の顔めがけて雅な柄の描かれた扇子を飛ばした。

 広がった扇子は鳥のように滑空し、面白いくらい綺麗に男の顔に吸い込まれた。

 それを合図に、綺羅は鶴子の手を引いて、男に体当たりした。


「こっちですわ!」

 相手が不意を突かれて怯んだ隙に、綺羅は部屋の外へと出る。

 けれど、すぐに追いつかれてしまった。

 鞘から抜かれた刀が煌めき、まっすぐに刃が綺羅へと落とされる。

 綺羅は銀の光を避けることが出来ず、呆然と軌道を視線で追った。


 瞬間、金属と金属が触れ合う甲高い音が刃の軌道を阻む。

 同時に、綺羅は身体を後ろから誰かにつかまれた。


「危なかった。間一髪と言ったところか」

「……胡蝶、様?」


 見上げると、胡蝶が綺羅の肩を抱いて笑っていた。

 状況が読めないうちに、再び刀の重なる音が響く。

 顧みると、見覚えのある背中が綺羅を守るように立っていた。


「君が戻って来ないから、勝手に出歩いていたんだ。馬鹿だろう?」

 刀を構えて相手を見据える楓雅の背に、胡蝶が軽く言った。

 綺羅はその光景をぼんやりと眺めて立ち尽くした。


 自棄になった男が声を上げて突進する。

 だが、楓雅は不調など感じさせない動作でそれを受け流し、あっと言う間に男の腕をつかんでねじ伏せてしまう。

 一瞬で終わった一連の動作があまりに華麗で、綺羅は瞬きするのも忘れてしまった。無駄が一切なく、舞踊かなにかのようにも感じる。


「浅野風雅以上の武人を、私は見たことがない。私を武官にしてくれた男だ」

 胡蝶は補足するように付け加える。

 そう評されるに値するほど、彼の動きは鮮やかの一言だった。

 相手を斬るつもりで戦っていれば、一瞬で決着がついたかもしれない。


 胡蝶は綺羅の背中をそっと押した。

「あ、あの」

 綺羅は恐る恐る口を開いた。

 だが、何かを言葉にする前に、楓雅が綺羅の正面に踏み出す。


 次の刹那、綺羅は楓雅の腕の中で眼を見開いていた。


「心配したんですから!」

 叱咤するような、困っているような、しかし、安心しているような、喜んでいるような。

 そんな複雑な想いを込めた声が降る。

 綺羅は、また抱きしめられた恥ずかしさで顔を赤くしながらも、その行為が決して嫌だとは感じない自分に気づいた。


 胡蝶といるときとは違う。

 胸が苦しいほど強く脈打ち、全身が熱くなる感覚。

 熱に侵されたような感覚が身体を蝕み、呑み込んでいく。

 その波に呑まれまいと、綺羅はとっさに、楓雅の厚い胸板を押し戻した。


「あ、あなたこそ、寝ていなくて平気なのですか!? わたくしのせいで無理をさせたなんて、そんなの許しませんからッ」

「心配してくださるんですか?」

「当たり前ですッ……あ、いや、その。別に深い意味はありませぬ! 勘違いなさらないで。純粋に体調を心配しているだけです!」

「綺羅嬢を守るためなら、体調の一つや二つ崩しても構いませんよ」

「馬鹿なことをおっしゃらないでください。あ、あなたがいなくても、胡蝶様がきっと守ってくださいましたもの。その方が、わたくしも嬉しいのですから!」

「そんなことがあったら、俺はそのまま病に伏せって死んでしまいます」

「そ、それも困りますッ!」

 綺羅のために無理をさせて、何かあったら心地が悪い。

 だが、そんな気持ちなど少しも理解していないのか、楓雅は綺羅を抱きしめたまま放してくれない。


「俺、あなたに必ず好かれてみせますから」


 間近で顔を見つめられ、綺羅は息をするのも忘れてしまう。

 優しい灰色の視線が綺羅を包むように見据え、柔らかな笑みを描いている。


 綺羅は恥ずかしさで顔が熱くなったが、無意識のうちに唇を動かしていた。


「のぞむところにございます」



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