身代わりなど、御免被りとうございます
どうして、こんなことになったのか。
綺羅は自問したが、答えは見つからなかった。
「少量の毒が盛られていたらしいが、命には別条ないそうだ」
塞ぎ込む綺羅の肩に胡蝶が手を置く。
意識を失った楓雅は、後宮にある胡蝶の自室へと運ばれ、医師の処置を受けている。
綺羅は隣の続き間で待たされる間、何も考えることが出来なかった。
襖の向こうにいる楓雅を想像すると、なんだかとても怖いのだ。
「綺羅が心配することではない。この件は、私が責任を持って片づける。まだ詳細は公開していないから、人に話すのは控えてくれないか」
余計なことは考えるな。
そう言われている気がして、綺羅は胡蝶から目を逸らす。
「わたくしのせいなのでしょう?」
やっとのことで絞り出した言葉。
綺羅は楓雅が寝かされる部屋を見て、瞳を揺らす。
「一件目も、二件目も、わたくしがいるときに起こりました。しかも、あの人はわたくしの持参したお菓子をお召しになりました。普通はわたくしが疑われるのが道理にございます」
「そんなことは」
「だって、わたくしは結婚なんてしたくありませんもの。わたくしがやっても、おかしくありませぬ……」
「君がやったわけではない」
押さえつけるような視線を向けられて、綺羅は唇を震わせる。
綺羅はやっていない。
しかし、何処かで、「もしかすると、自分がしていたかもしれない」という思いがあることに気づく。
誰もやらなければ、自分がやっていたかもしれない。
実際、綺羅は勢いで馬車から飛び降りようとしたではないか。
結婚をしないために、綺羅は自分を見失っていた。
あのときの感情が殺意に変わらなかったとも限らない。
綺羅の中で、こうなることを望んでいた気持ちがあるのは確かだ。
「わたくしがやったようなものですわ……だって、わたくしは、そう望んでいたから……!」
望んでいた。
確かに、結婚したくはない。
今の状況を喜ぶ自分もいるはずだ。
それなのに、こんなに心が痛い理由がわからない。
喜ぶことが出来なかった。
それどころか、目の周りがどんどん熱くなって、視界が揺れはじめる。
涙で霞んだ世界を手で覆い隠しながら、綺羅はその場に崩れた。
「わたくしは、わがままにございます……公家の姫として生まれたからには、愛のない結婚くらい覚悟しております。どんなお相手でも、我慢してみせます。でも」
嗚咽と共に唇から洩れる言葉は歪に震え、時々裏返りながら紡がれていく。
傍らで胡蝶が膝をついている。
綺羅は胡蝶を見据えると、すがるように、叫ぶように、求めるように声を上げた。
「わたくしには、胡蝶様の代わりなど出来ませぬ。わたくしが愛されないのは構わないのです。でも……誰かの代わりにされるなんて、そんなの絶対に耐えられません。わたくしは、胡蝶様になんて、なれませんッ!」
きっと、楓雅は綺羅をぞんざいに扱ったりしない。
彼が誠意を持って綺羅に接してくれているのは感じていた。
それでも、胡蝶の代わりにされるのは嫌だった。
大好きな胡蝶と常に重ねられ、身代わりとして愛情を受けることなど出来ない。
綺羅は胡蝶にはなれない。
そう在ろうとも思わない。
大切な人の代わりを自分が引き受けるなど、絶対に無理だ。
「綺羅、聞け」
「胡蝶様のことをお慕いしております。だからこそ、無理にございます……わたくしは」
胡蝶の制止も聞かず、綺羅は言葉を続けようとする。
「黙って聞け!」
そんな綺羅を正面から見て、胡蝶は声を張り上げる。
凛とした声は冷静だが、何処か熱を持っており、燻る怒気をかすかに感じさせた。
綺羅は思わず口を閉ざし、胡蝶を見据える。
胡蝶は大人しくなった綺羅を宥めるように、優しく黒蜜色の髪を撫でた。
「君は楓雅のことを何も見てくれていないんだな。残念だよ」
首を傾げると、胡蝶は綺羅の肩を優しく抱きしめる。
その感覚が温かくて、優しくて、綺羅は頬を伝う涙を止めることが出来なかった。
「青い髪飾りを拾った。確か、三年ほど前だったか」
綺羅が胡蝶を初めて見た日だ。
あのときのことを胡蝶も覚えていてくれたのか。
綺羅が目を見開くと、胡蝶は優しく微笑んだ。
「そのあと、楓雅が言ったんだ。『虎姫、それを俺に預けてくれないか』とな」
――君は忙しいだろ。俺が持ち主に戻してやるよ。
落としたのは絹の髪帯だ。
拾った位置から、持ち主は鳳凰院邸の人間だということは、胡蝶にもわかっていた。
それでも、楓雅は執拗に胡蝶に強請って、髪飾りを自分で返したがった。
胡蝶は渋々、髪飾りを楓雅に預けた。
「でも、三日後にはあいつ、この世の終わりのように落ち込んでいたんだよ。理由は言わないが、一週間ほど、私に喧嘩を吹っかけてきて迷惑したな……それで、結局、髪飾りは今でも楓雅が持ったままだ。返しにも行けずにな」
行進の三日後……綺羅が胡蝶親衛隊の存在を知って、会員になった頃だ。
綺羅は何も考えずに胡蝶の話を聞いていたが、やがて、信じられずに目を見開く。
「おまけに、決まりかけていた結婚を破談にして、別の女と結婚出来ないか私に泣きついてきたときは、どうしてくれようかと思ったな。そこまでしたくせに、まだ口説けないとは本当に情けない。最上級のダメ男だな」
綺羅は何も言えないまま俯いた。
胡蝶は綺羅の頭をポンポンと撫でる。
「内緒にしてやるつもりだったが、気が変わった。もたもたしているのが悪いんだ」
胡蝶は少し悪戯っぽい笑みを浮かべると、視線で隣の部屋へ行くよう綺羅に促した。
「で、でも……皆、噂しております。胡蝶様たちは陰では恋人同士なのだと」
「阿呆を抜かせ。そんな相手に四六時中付き纏われるくらいなら、私は他の者を従者に選ぶ。仕事にならん。向こうだって、その気はないから、あんな風に私をからかおうとするんだろう? それに」
胡蝶は少し恥ずかしそうに目を逸らし、コホンと咳払いする。
「それに、私には……再会すべき者がいる。あまり覚えてはいないがな」
小声で呟く胡蝶の顔は、今まで見たこともない表情だった。
確かに、胡蝶は楓雅と話しているときは楽しそうで、生き生きとしている。
だが、今のように頬を染め、嬉しそうな、それでいて寂しさもはらんだ眼を見るのは初めてだった。
きっと、胡蝶はその相手に恋をしているのだろう。そう確信した。
「私にあまり喋らせるな。早く行ってこい」
綺羅は困惑したが、胡蝶はそんな彼女の背を軽く押す。
「馬鹿で変態だが、私の親友なんだ。ちゃんと見てやってくれ。気に入らなかったら、まあ、それはあいつが悪い。私で良ければ、茶でもたてながら愚痴を聞こう」
綺羅はしばらく俯いたまま、足を踏み出せずにいた。
だが、やがて、頬の涙を袖で擦るように拭う。
「胡蝶様のお茶が飲めるのは、とても魅力的でございます」
綺羅はまだ涙が溢れそうになるのを我慢しながら、精一杯の笑みを顔に浮かべた。
「でも、あまり愚痴を聞かせてご迷惑をおかけしないよう、わたくしも努力してみようと思います」