こんなの詐欺にございます。
胡蝶様が一緒でなければ、誰がこんな人と……。
馬車で向かい合うように座った男を憎々しげに睨みながら、綺羅は抗議した。
籠よりは多少広くてマシだが、西方の「お洒落」で「珍しい」乗り物に乗せられたところで、この怒りは鎮まらない。
「詐欺にございます」
綺羅はあからさまに窓に張り付いて、馬車の外を見る。すると、馬車の隣を寄り添うように走る胡蝶の馬が見えた。
ああ、馬上の胡蝶様も凛々しくて素敵にございます。
「何故、胡蝶様も一緒に乗らないのですか。詐欺ではありませぬかっ」
「虎姫はこの後、用事があるから自分の馬を連れていきたいって言っていたでしょう?」
「あなたが外で馬に乗ればよろしいではありませぬか!」
「でも、これは俺の馬車ですし」
涙目になりながら叫んだ抗議をあっさりとかわされ、綺羅はますます憤りを覚える。
この男は、いつもそうだ。
許嫁(仮)として紹介された日以来、何か理由をつけては綺羅を誘おうとする。
綺羅がどんなにキツイ文句や嫌味を言っても、少しも動じないのだ。先ほど、自分で公言していた通り、性根から腐った変態だ。
今日は西方の茶を飲もうと言い出したり、馬車なんてものを持ち出したりして……。
そんなことをして、異文化趣味の父親を持つ綺羅の興味が引けると思うのか。
綺羅も少しは嗜むが、父ほどではない。舐めてもらっては困るのだ。
しかし、用意された馬車は籠や、最近流行りの人力車よりも多少広くて乗り心地が良いのは認めるが。あと、内部の装飾がとても繊細で美しい。
興味は惹かれるが、断じて、釣られてなどいない。断じて!
だいたい、胡蝶の指南役と言っているが、剣術は胡蝶だって負けていない。
帝国に胡蝶と並べるほどの剣豪は、楓雅の他には、第二皇子の暁貴くらいしかいないのだ。
もっとも、暁貴は、いつもフラフラ女遊びをしているだけで、帝位継承争いには興味がなく、皇族としての務めを果たす気はないようなので論外だ。
弓術は残念だが、楓雅より優れた者が帝国にいないとまで言われているらしい。馬術の腕もあり、総合的には瑞穂が誇る武人の筆頭だと言わしめる者もいる。
しかしである。皇女である胡蝶に対して無礼としか思えない言動を繰り返しているのが気に食わない。
あれは間違いなくセクハラだと、親衛隊の間でも批難を口にする者もいる。
悲恋をおかずに妄想している者ばかりではないのだ。
いくら昔から従者として幼馴染のように育ったとはいえ、あんまりだ。
そうかと思えば、許嫁(仮)である綺羅に対しては他人行儀な敬語を使う。馬鹿にしているとしか思えない。
――あの方、胡蝶殿下に対してだけは態度を変えていらっしゃいますものね。
綺羅は鮮やかな赤い打掛をつかんで、キュッと唇を噛みしめる。
想い人がいるくせに、他の娘と結婚しようだなんて。
綺羅が好んで読む本では、身分違いの恋で男は愛する姫のために生涯独身を貫いて命を捧げる。
もしくは、大波乱の末に姫との結婚を勝ち取ったり、一緒に駆け落ちしたりするのだ。結ばれずに悲恋の死を選ぶこともあるが……。
実際には、そうはいかないことはよくわかっている。
浅野家には、先の戦で楓雅以外に家督を継げる人間がいなくなっている。身勝手に駆け落ちでもすれば、家の没落は目に見えていた。
鳳凰院家なら、浅野と家柄も釣り合うし、綺羅も適齢期なので何の問題もなかった。
客観的に見て、楓雅の妻に選ばれても不思議ではない。
しかし、これでは……まるで綺羅が胡蝶と楓雅二人の仲を裂く悪役ではないか。
勿論、大好きな胡蝶が他の男のものになるなんて許せない。
それでも、自分が胡蝶を不幸にしてしまうかもしれないと思うと、それも嫌だった。
「綺羅嬢は俺より、虎姫の方が好きなんですね」
「当然にございましょう。胡蝶様は、あなたなどゴミに見えるくらい素晴らしいお方であらせられます!」
「それは否定しませんねぇ。あの意地っ張りで素直じゃなくて、何とも言えない表情で照れるところが本当に可愛くて、つい弄りたくなるんですよね」
「それに関しては同意いたします。先日なんて、熟れた果実のように頬を染めていらっしゃって、その様子がなんとも言えずに、わたくし悶絶しておりました……ああ、今思い出すだけでも、白ご飯三杯くらいは進みます」
「ああ、あのときは確かに最高でしたよ。今でも、踏まれたときに出来た痣を見てニヤニヤ出来るレベルですね。袴の中を覗けなかったのは、一生ものの後悔ですが」
「ちょっと、踏まれたなどと、そんな羨ましい自慢話なさらないで……って、わたくしは何故、こんな男と胡蝶様談義に花を咲かせてしまっているのですか!? 正気の沙汰ではございませんわ!」
胡蝶の話になると、つい我を忘れてしまっていた。
綺羅は全身で敵意を示して、揺れる馬車の中で睨みを利かせた。だが、楓雅は涼しい顔のまま綺羅を見据えている。
「綺羅嬢も可愛らしいですよ。意地っ張りだけど、笑顔が明るくて。そういうところが、虎姫と似ていて、ますます可愛く見えるんですよね」
楓雅が本当に楽しそうに言うので、綺羅は少し目線を伏せた。
「本当に、胡蝶様をお慕いしているのですね……」
「ええ、好きですね。でも、――」
平然とした言葉に、綺羅は腸が煮えくりかえるほど熱くなる。
許嫁(仮)の前で平然と他の女性を好きだと言い放った。
自分で綺羅を誘っておきながら、普通はそんなことなどしない。しかも、わざわざ綺羅に似ているという言い方をして。
まるで、無理やり綺羅と胡蝶を重ねようとしているみたいではないか。
当てつけのように思えて、綺羅は楓雅の言葉の続きを遮って立ち上がる。
「わたくしは、あなたなんて大嫌いです! わたくしがあなたなら、胡蝶様は誰にも渡しませんのに、この根性無し! わたくしは、誰かの身代わりにされるなんて絶対に御免です!」
馬車の揺れも気にせず物凄い剣幕でまくしたてる。
「そんな結婚、受けるくらいなら今ここで飛び降りて死んでやります!」
綺羅は何も考えずに、勢いで馬車の扉に手をかける。
だが、すぐに楓雅に阻まれてしまう。屈強な男性の腕が綺羅を掴んで放さない。
「何を勘違いしているのか知りませんが」
「放して。飛び降りてやりますッ。結婚なんて、絶対に嫌――」
だが、不意に馬車が大きく揺れ、綺羅の身体は宙に浮くような感覚に陥る。
視界が反転して何が起こったのかわからない。
気がついたときには、全身に強い痛みを感じて、座席の上に横たわっていた。
綺羅は朦朧とする意識を振り払うように、薄く目を開ける。
しかし、すぐそこに楓雅の顔が迫っていたことに気づいて、目を丸めた。
綺羅をしっかりと守るように抱きとめた肩は逞しく、しなやかな腕が腰に添えられている。
着物越しに体温が溶けるように伝わって、身体が妙に熱い気がした。
綺羅の柔肌とは違って、鍛えられた男の腕に支えられるのは、思いのほか頼もしいと感じてしまう。
「大丈夫ですか?」
息がかかるほど近くで顔を覗かれ、綺羅は身動ぎする。
顔が妙に火照って爆発してしまいそうだ。
今まで、こんなに近くで父や兄以外の男の顔など見たことがない。
灰色の瞳が綺羅を捕えて放さない気がして、心臓が不自然な律動を奏ではじめる。
「おい、二人とも大丈夫か!」
静止する刻を破ったのは、胡蝶の声だった。
「ああ、大丈夫。綺羅嬢、起きられますか?」
楓雅に抱えられるように起こされて、綺羅は我に返る。そして、急いで楓雅の腕を振り払った。
「わ、わたくしから離れてくださいませッ。それより、いったい、何があったのです?」
大きく傾いたままの馬車を見て、綺羅は眉を寄せた。
すると、胡蝶が複雑な面持ちで、外を見る。
「馬車の車輪に細工がしてあった。誰かの嫌がらせか、あるいは……」
微妙に濁された言葉の意味を理解して、綺羅は目を丸めた。
外を確認すると、馬車の車輪が片方もげて、全体が大きく傾いている。
いったい、誰がそんなことをする必要があるのだろう。
皇族の胡蝶を狙うなら、もっと他の手段を使うはず。
綺羅が馬車に乗ったのも偶発的なことだし、これは浅野家ではなく、楓雅個人が所有する馬車らしい。
ということは、狙われているのは、楓雅?
しかし、いったい、誰が何のために?
楓雅は難しい表情で腕を組むばかりだった。