これは幸せな話なのでしょうか?
綺羅が「恋」というものを知ったのは、三年前だった。
それまで、何にも興味を示せず、鳳凰院の屋敷に引きこもっていた綺羅の生活は灰色だった。
このまま恋も知らず、何処かの家に嫁いで色褪せた生活を送るのだろうと思いながら過ごす日々。
しかし、そんなとき、綺羅の心を初めて動かした者がいた。
「見て見て、胡蝶様がおいでになりました!」
「相変わらず、惚れ惚れします。あ、こっちを見てくださりました!」
「なんですって!? ずるいわよ!」
宮中で黄色い悲鳴を上げる乙女たちに混じって、綺羅も白い頬を紅潮させた。
そして、押し寄せる令嬢たちをかき分け、注目の人物へと声を張り上げる。
「胡蝶様、お慕い申しておりますー!!」
瑞穂帝国第三皇女胡蝶殿下。
「さっさと立て、来い!」
男相手に木刀を振りおろし、勇ましい声をあげる皇女だ。
振りおろした木刀が風を切り、唸りをあげている。滴る汗を物ともせずに構えを取る姿が凛々しかった。
綺羅はうっとりと恍惚の眼差しを浮かべる。
瑞穂の皇族には、皇子、皇女たちは分け隔てなく継承権が与えられている。
そして、功績に応じて宮での地位や帝位継承候補が決められていた。
胡蝶は女でありながら武官の道を選び、瑞穂帝国で百年ぶりの女帝候補だと周囲から騒がれている。
女でありながら、武勲をあげる彼女を勇猛果敢な「虎姫」と呼ぶ者も多い。
同時に、宮でも男装の麗人として、女官たちから圧倒的な人気を誇っていた。
「皆さま、『月間皇室総選挙』で、胡蝶様は宿敵暁貴殿下に十二票差で惜敗いたしております。ご長男の秀明殿下も、すぐ下につけています……何としてでも、首位を取り戻さなくてはなりません。おわかりですね?」
『胡蝶殿下親衛隊』の会長である長谷川鶴子が高らかな声を上げる。
もう毎月恒例となっている人気投票だ。
目見麗しい皇族の面々は公家の子女のみならず、帝都の庶民からの人気も厚く、いつの間にか、新聞屋がこんな企画をはじめてしまったのだ。中間結果の速報を報じる瓦版も、毎回ある。
頭の堅い大臣は不敬罪に抵触するなどと言っているが、これも娯楽の一つと黙認されていた。
勿論、綺羅も会員に課せられた受け持ちを毎月守って胡蝶に百票投じていた。
特に今月は女遊びばかり派手な第二皇子に首位を奪われてしまったので、五〇票追加するつもりだ。妾に産ませたと噂の皇子などに、これ以上負けてはいられない。
意気込んでいると、胡蝶の稽古が終わっていた。
女官たちは、一斉に覗いていた窓から、胡蝶が振り向いてくれるように声をかけはじめる。
木の格子にベッタリと顔を押しつけている者までいた。勿論、綺羅もその一人だ。
「胡蝶様、素敵でございます!」
「殿下、こっちを向いてくださいまし!」
「殿下、殿下、殿下ぁぁぁあああ! ――もうっ、あと少しだったのに。また浅野様が邪魔を!」
黄色い声援に気づいて胡蝶がこちらを振り向こうとした瞬間、武術の指南役を務める浅野楓雅が声をかけたのだ。
胡蝶は、そちらに呼ばれて親衛隊が待ち受けるのとは逆方向へ歩いていってしまった。
そのことに落胆して、親衛隊一同は肩を大きく落としていた。
綺羅も落ち込みながら、はあっと大きなため息をつく。
また邪魔が入った。
「でも、あの二人って妙にお似合いなんですのよね。昔からのお付き合いなのでしょう?」
「柔らかな茶褐色の髪の下で笑う灰色の瞳。西方との混血だとか。確かに魅力的にございます。武術も帝国随一との御声も高い……女性には紳士的でお優しいし。胡蝶殿下の隣に立っていても不自然は感じませんもの」
「ど・こ・が・で・す?」
楓雅のことを好意的に形容する令嬢に対して、綺羅は即座に反発した。
「柔らかい髪質は、そのうちハゲ散らかすと、うちの父上が証明しております。混血の殿方なんて、そこらに転がっておりましょう。ここは瑞穂、大陸一の大国ですもの。今や、いろんな人種の方々が歩いております。武術だって、胡蝶様も負けてはおりませぬ!」
けれども、綺羅の力説に耳など貸さず、女官たちは話に花を咲かせていた。
「浅野家は名家ですけれど、流石に皇女殿下がお相手では結婚は叶いませんものね。そういう内容の読み本も出回っていらしてよ」
「ああ、確かに切なくてそそります。浅野様、胡蝶殿下に対してだけは態度を変えていらっしゃいますもの。もう一筋って感じで。まあ、少々変態じみていらっしゃいますが」
「お互いに初恋だって噂よ。禁断の恋よね。もしかすると、胡蝶様は武術に優れた楓雅様に憧れて、武官になりあそばれたのかもしれません。そんな健気な胡蝶様を想像すると、もう……楓雅様がセクハラっぽいのは否定しませんが」
「武術の指南役で男女のご友人同士。なにもないわけが……なにかありそうだからこそ、妄想の甲斐があるってものです!」
「でも、確か浅野様は近々ご結婚なさる話では? お相手は鳳凰院家の――」
自分の名前が出そうになって、綺羅は慌てて咳き込んだ。
その様子が余計、不自然に映ってしまったのか、予期せず、女官たちの視線を集めてしまう。
まずい。
綺羅は親が勝手に決めた許嫁(仮)の顔を思い出して、心の中で舌打ちした。そして、穏便に逃げてしまおうと曖昧に笑う。
「えっと……まだそのお話は、正式に決まっておりません。わ、わたくしだって、好きで結婚するわけではありませんし、お断りするつもりで……」
苦しい言い訳をしつつ後すさると、会長の鶴子が綺羅の前に歩み出た。
何を言われるのだろう。
結婚すれば、もう会員の資格はなくなってしまうのだろうか。
綺羅だって、あんな男と結婚するのは不本意なのだ。
自分が恋しているのは胡蝶だけであって、他の男など眼中にない。
相手があの男だというのだから、尚更だ。
他の男なら、公家の子女として黙って務めを果たす気にもなるが、よりによって……胡蝶と恋仲が噂されるような男とは、結婚したくない。
「綺羅さん!」
緊張していると、鶴子は意外にも、瞳を輝かせながら綺羅の手をしっかりと握った。
「あなたに、会報の連載をお願いするわ。だって、こんな好機ないでしょう?」
「は、はあ?」
何を言っているのか、意味がわからない。
混乱していると、会長はこう付け加えた。
「だって、憧れの胡蝶殿下の一番近くでお仕えする殿方の元へ嫁げるのよ。当然、いろいろ情報が入ってきます。こんなに幸せなことはないと思いませんか?」
そういう考え方!?
他の女官からも似たような羨望の眼差しを向けられ、綺羅は辟易してしまった。
「え、え……ええっ!?」
しかし、逃げることは許されない。
会報に『浅野(予定)綺羅の胡蝶様日記』とかいう名前の連載をはじめる約束を取り付けられ、涙が出そうだった。
誰が、あんな男と結婚するもんですか!
ありえませぬ!
綺羅は女官たちの期待を跳ね返して、心の中で叫び続ける。