第八話
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
唇に落ちたザントの唇が一度離れ、私が言葉を紡ぐ前にまた彼の唇が言葉を奪う。
「んんっー!」
胸を叩いても、彼はびくともしない。
体に回った腕は力強くて、私は逃れようとするけれど、逆に力が強まって動きを止められる。
「んんん!!!」
今度は手首を取られ、彼を叩くことも出来ず、唇を塞がれているので抗議の声も上げられない。そしてとにかく息が出来なかった。やっと彼が角度を変えて唇をずらした隙に私は息を吸い、彼の唇に歯を立てた。
「――っつ!」
肩が上下に動き、息を切らして体が喘いでいた。
唇に残る温かな感触が先ほどの瞬間を思い出させて、私は泣きそうになる。
何度も唇を拭りながら私は走りだした。
「おい、ローラ! 待てって!」
耳を塞いで後ろを振り返らずに走った。
王宮を取り囲む壁の間から警備の掛け声と門衛の閉門の掛け声が響いて耳に届いた。
「待って! 閉めるの、待って下さい!」
門衛が私に気づいて手を止め、彼らに礼を言いながら門の中へと滑りこむ。
「ローラ!」
ザントが追いついたのかと体を強張らせ、右方向に視線を向ければ――
そこには……ウィンデル様が立っていた。
「ローラ……」
「ウィンデル様」
「……どうしたの、それ……」
「えっ?」
ウィンデル様が近づいてきて、彼の指が私の唇に触れた。ほんのちょっと触れただけだったのに、指の冷たさが私の体を震わせた。
「赤くなって、切れてる……」
「なんでも、ない、です。擦っただけですから……」
「擦った? どうして」
「とくに、理由なんて……」
「ローラ?」
彼の手が私の頬に触れかかった時、背後で怒鳴り声が聞こえてきた。後ろを振り向けば、ザントが門衛と怒鳴り合っている。
彼を避けようとしてウィンデル様に中に入ろうと促すけれど、ウィンデル様はザントの方を睨んだまま動こうとしなかった。
「ウィンデル様、行きましょう!」
「あいつは……」
ザントがとうとう私達の姿を見つけ、駆け寄ってくる。それと同時にウィンデル様が手を引いて彼の背後へと私を追いやった。まるでザントから私を隠すように。
「ウィンデル様!」
「…………第三区域の新入りだな。名前は何と言う?」
「……ザント。ザント・クリンゲンと申します」
ザントは唇に滲む血を指で拭った後、一礼をした。
ウィンデル様は私の手を握ったままさらに力を込めた。
「妹の世話役に何か用か。君とは関わりのある人とは思えないが」
「……関わりならあります」
「ザント!」
私はザントの発言を止めようとした。
だけどウィンデル様の手が私を前へ進ませてはくれず、さらに彼は私を横から抱きすくめた。
「昨日、彼女を助けた事を言うなら――――」
「彼女、ローラは」
「ザント!」
「……ローラの友人が私の義姉です。今日ローラはその友人に会いに街へ行ったのです……世話役を辞めた後の事を相談するために。……彼女は王宮を出るべきです。どうか、彼女を解放してあげて下さい」
「世話役を、辞める……?」
「彼女がここに居てはずっと悲しい思いをするだけです」
「ザント……ザント! 何を言うの! 止めて!」
「ローラ、なぜ自分を苦しめる? 君は幸せになるべきなのに!」
「あなたは何が私の幸せか知ってるの!? 会ったばかりのあなたが!?」
「会ったばかりでも、俺は君をずっと見てきたし、想ってきたんだ……今にも泣きそうな顔をしていたのを見たことだって何度もある……」
「想ってきた? 誰が? ……誰を?」
「ウィンデル様、離して下さい! この男を殴ってやりますから!」
「ローラ……」
「ローラ!」
また手を振りほどこうとするけれど、ウィンデル様がそうはさせてくれない。
男二人は睨みあったまま動かない。
私が三度目にウィンデル様の名前を呼んだ時、門が音を立てて閉まり、錠が降ろされた。その音にウィンデル様の肩が反応し、蒼の瞳が私を見下ろした。
「ローラ……今のは本当? ずっと悲しい思いをしてきたの?」
私は懸命に首を振る。
「王宮を、出るって……本当?」
空の色の瞳が翳る。
私は口を一旦開けて閉じ、喉を鳴らした。また開いた時、声になったのは
「はい……」
という言葉だけ。
ウィンデル様の力が少しばかり弱まった時、三人の警備係がこちらへ近づいてくるのが見えた。
もうすでに門衛がこちらを何事かとちらちらと見ているのに、これ以上他の人にこんな所を目撃されるのは嫌だった。
ザントも同じ事を思ったのだろう。舌打ちをしつつも仲間の方へと歩き出した。
そして私はウィンデル様の手を引いて急いで塔の中へ入ろうとした。
だけどウィンデル様は動いてくれない。
「ウィンデル様? 行きましょう。ここでは人目につきますから……」
前髪が彼の目を隠して彼の表情が見えない。
「ウィンデル様! 私、ちゃんとお話しますから……。だから、中へ入りましょう」
「ローラ……」
「はい」
「…………来て」
再び力を込められた手の平はとても熱くて、その熱が伝わって体を巡るのが分かった。
廊下で出会う人達が私達を好奇や驚きの目で見つめ、振り返る。
誰とも目を合わせないようにうつむきたくても、ウィンデル様の引っ張る力が強くて、前を向いていないと怖くて、ただただ小走りで彼についていくしかなかった。何度も止まって欲しいと伝える度に彼はさらに歩を早めた。
辿り着いたのは見覚えのある扉の前。ウィンデル様の部屋だった。
派手な音を立てて扉を開けた彼は、灯りを入れる準備中だったエレーナとマージの驚愕の目に告げた。
「しばらく二人に」
「はっ……はい!」
二人は声を揃えてウィンデル様に返事をし、出る間際に居間に二つだけ灯りを入れて扉を閉めた。
エレーナは不安そうな顔をして私を見ていたし、マージはぐっと拳を上げて片目を瞑った。
彼女らに何も言えず、私は頭を下げることしか出来なかった。
二人が出て行った後で、ウィンデル様はようやく私の手を離してくれた。
「座って」
エレス様のお部屋は彼女が女の子とあって、花々で埋め尽くされている。
彼女が好きな花を私とエリカが選び、部屋のどこに座っても近くにいつも爽やかな匂いを運んでくれる花があるように毎日違った花を生けるようにしている。
だけど――ここはそんな花の匂いも姿もない、男の人の部屋だった。
開けられた窓からは陽が落ちた後の赤い空が広がっていた。夕焼けが部屋まで入り込み、少ない調度品を赤色に染めた。
小さな丸い卓の側には二脚の心地よさそうな椅子。窓際の柱と柱の間には大きな網が渡してあった。その中に本が何冊か見受けられたことから、もしかしたらウィンデル様はその中に入って揺れを楽しみながら読書を楽しまれるのかもしれないと思った。
ウィンデル様は窓まで歩み寄ると、外を一瞥した後、窓枠に腰を掛けた。
しばらく私達は無言だった。
沈黙に耐えられなくて先に口を開いたのは私だった。
「申し訳、ございません……」
一歩私は歩み寄ったけど、そこで足を止めた。彼が顔を上げたからだ。
「どうして、謝るの?」
「申し訳ございません、ウィンデル様……」
「謝らないで」
ウィンデル様の蒼の瞳からは輝きが失われ、私はそれを直視することが出来ない。
「どうして辞めようと思ったの?」
「どう、して……」
「理由が無いなら辞めようとは思わないでしょう?」
「それは……」
――あなたをこれ以上好きになっては駄目だから。
――これ以上ここに居たら自分の気持ちを誤魔化せないから。押さえられないから。
――あなたの瞳が、笑顔が大好きだから……
「ローラ?」
姉のようにはなりたくない。だったらこれ以上気持ちが大きくなる前に、彼に私の気持ちが伝わる前に彼の前から居なくなった方がいい。
「教えて」
ウィンデル様が立ち上がり、立ちすくむ私の前まで来る。
手を伸ばせば簡単に私に届く距離で彼は立ち止まった。
「ローラ」
小指が小刻みに震えているのを折り曲げて見えないように隠した。でも、それが見えていたのか彼の手が伸びて私の小指に届いた。
「小さな小指……これだけだね。今の僕が出来るのはこの指を包み込むことだけ……」
「ウィンデル様……?」
「追いついたのは背だけで、他には何も……もがいている内にあんな奴が横からローラを……」
ウィンデル様の手が小指に絡みつく。触れているのはほんの少しだけなのにそこから彼の熱が全身へと伝わってくる。
「唇……あいつに?」
唇?
片手で擦れた唇を触るとぴりりと小さな痛みが走った。
そこで彼の質問の意味がはっきりと分かる。
否定も出来ず、肯定も出来ず、私は彼から視線を外らす事しか出来ない――――すると
もう一方の手が私の耳の後ろに届いた。
空の瞳が私の視界を包み込む。
軽く触れてすぐに離れてしまった唇。
そこから先ほどの痛みが彼に吸い取られたかのように消えてなくなったのが分かった。
鼻先が当たって彼の息が一筋漏れた時、微かに彼が呟くのが聞こえた。
「始めは姉のように思っていたのに……」と。
――姉。
そう。私は彼よりも六つも上で……彼を三つの時から見てきたんじゃないの……
私が彼を想う気持ちと同じ気持ちを彼が持っている訳がない。
私は妹君の世話役で、彼の姉代わり。
ずっと気にかけて頂いていたのは、私が彼の『姉』だから。ただ、それだけ……
もう一度近づいてきた唇から私はとっさに顔を背けた。ウィンデル様の胸を押すと、彼は数歩後ずさった。
「あ、ありがとう、ございました……痛みを消して下さったんですね」
「えっ……?」
「エ、エレス様にはまだですが、エルディン様にお暇のお許しを頂きました。エリカに引き継ぎを終え次第、ここを……世話役を辞そうと思います」
「お、お爺様から?」
「私のようにウィンデル様の姉となれる人物が後に就くように、エレーナに伝えておきます……」
「ローラ……何、それ?」
「私はずっと『妹』でしたから、『姉』としての役割をちゃんとこなせられたのかどうかは分かりませんが、ウィンデル様にそう思って頂けていたのなら……良かったです」
「そう思って? 姉? えっ、ちがっ、ローラ! さっきのは!」
「今までありがとうございました」
ぎゅっと握りしめられた手を振りほどくと一礼し、私は扉へと走った。
「ローラ! 待って! なんで!」
私は……振り返らなかった。
廊下で待っていたエレーナが部屋から出てきた私の顔を見て一言、
「頑張ったね」
と言って私の肩を叩くと、そのまま入れ違いに部屋へと入っていった。
誰も居ない静かな廊下を歩き出した時、冷たい涙が一筋頰を伝った。さっきまで温かった小指でそれを拭うと、今度は冷たさが全身に走った。
次の日。
皆に正式に辞めることを伝えるとエレス様とエリカが私の胸と背中で泣いて引き止めてくれた。
ウィンデル様には引き継ぎを終え次第と言ったものの、エリカに教えることはもうほとんどなかった。後はエレーナやマージが彼女を助けてくれるだろうと思う。
エリカがエレス様に負けずに、そして泣かずにしっかりと意見を言えるかだけが心配だったけど、エレス様ももうすぐ十になるのだし、一緒に成長してくれればいい。
マージは
「私みたいにまた戻ってくればいいさ。休みの時は遊びに行くよ」
と笑って私を抱きしめてくれた。
その他にもニールや昔から知る警備の人達にも挨拶をして回ったけど、エリアノーラ様の所だけは行くことが出来なかった。体調が思わしくないとかで面会が禁じられていたからだ。エレーナが王妃様に伝えてくれるということだったので、彼女の好意に甘えることにした。
離宮までエルディン様に面会に赴いてはみたが、世話役が伝言を受けてくれただけで、会うことは叶わなかった。
長年使った自分の部屋には物はほとんどなくて、大きめの袋に数着の服と身の回りの物を入れたら事は足りた。
両親にはついに手紙を書かなかった。新しい職場で落ち着いたら会いに行くつもりでいた。
最後の日。
まだ誰もが寝ている朝早く、私は中庭の七の樹に出向いた。
落ちていた葉っぱの中から青色の葉っぱを選んでそっと胸にしまった。
旅立ちの時に一緒に連れて行くのはこれだと決めていた。
彼の瞳の色とは少し違う色だったけど、十分だった。