第五話
今回、ほんわか要素はほとんどないと思います。
逆に軽い暴力シーンがあります。
隣の控え室にまだ文句を零していたエリカを押し込めて、私はエリアノーラ様のお部屋へと向かった。
答えは聞かなくても分かっていたけれど、エレス様に「もう一度聞いてくる」と言った手前、それをしないわけにはいかない。この間にウィンデル様が一緒にエレス様と居てくれて良かったと思う。エレス様がウィンデル様とお話をされて、少しでもお心を鎮めてくれたら、また「部屋で休め」との返事を持って帰った時に、先ほどのように涙を浮かべることもないだろう……。
それに、妹も兄を慰めて差し上げられる……
お二人の姿を思い浮かべたら、私の胸はキュッと締め付けられた。
何かきっとあったんだわ……でも、それは私に話せる内容じゃなかった。
それとも……もう私じゃ、彼の力になれないのかしら……
「いっ! 痛い……」
色んな事を考えてよく前を見ていなかったせいで、目的地へ行く途中、私は角の壁にごちんと頭をぶつけてしまった。額を抑えて、痛みが引くのを待っていると、コツコツを足音を立てて、私の知った人が駆け寄ってくる。
「何してるんだ、ローラ?」
警備係のニールがくすくすと笑いながら「大丈夫か?」と聞いてくる。
「ニール……大丈夫。可笑しな所を見せちゃったね」
「ほんとだ。まぁ、お前はいつも真面目すぎるから、貴重な一面だよ。どれ、見せてみろ」
ニールは王宮で昔から私が知る、私をいつも気にかけてくれる内の一人だ。
ポーシャのように全面的に悪意の言葉から庇ってくれたわけじゃないけど、それでも会う度に「大丈夫か」「あんな噂、気にするな」など、温かい言葉をかけてくれた。
鼻の下の髭は見た目が若いことを気にして伸ばしたのだと笑うニールは立派な一児のお父さんだ。彼がお休みの日など、中庭で一緒に遊んでいる姿をたまに目撃する。こんな人が父だったら私も良かったのにと思ったことも何度かあった。
彼は主に、王と王妃の間へ繋がる廊下で警備を担当することが多い。私があまり立ち寄ることのない区域なだけに、こうやってニールに会うこともあまりない。
そしてこの廊下はあの、『勉強』の部屋――『大樹の間』と呼ばれているが――へも通じている。要所なだけに、優秀なニールがここを守るのは当然の事だわ、と私は思っている。
「ああ、赤くなってるな。ちょっと腫れてきてる。こりゃ、早く冷やした方がいいぞ、ローラ」
「ほんと? そういえば、じわじわと痛みがきてるかも……」
「なんか用があってきたんだろうが、早く済ませて冷やしにいけよ」
ポンポンと頭を叩いて、眉を下げるニール。
「うん。それなんだけど……」
私はニールに今朝の出来事を話した。そして、エリアノーラ様が今、お部屋にいるかどうか聞くと、
「んー……そりゃ、エレス様、可哀想だったかもな」
「可哀想?」
頭の後ろ掻いて、ニールは私に近づき、声の音量を落とす。
「夫婦、喧嘩だよ」
「夫婦喧嘩?」
人差し指を口元に持って行き、声を落とせと合図するニール。
「王に新しい恋人が出来たの、知ってるだろう? それが元で、お二人は昨夜口論になったらしい。今、王は執務室で入室禁止だし、王妃様はあいにく外出中だ。今日は二人共機嫌が悪くて、世話役は色々大変らしいぞ。だから、お前の返事とやらを聞くのも無理だろうし、聞けたとしてもエレス様はもう今日は、『勉強』は無理だろう」
「そ、そう……」
「それにな、聞く所によると、ウィンデル様がその場にいらっしゃったみたいだ」
「えっ?」
「可哀想に。ご兄妹の仲はすこぶるいいのに。ご両親が、いつもあれじゃあな……。お二人とも真っ直ぐに育っておられるから、いいものの。俺は時折、不憫になるよ」
確かに、王の新しい恋人については噂が飛び交っていただけに、私も嫌でも何度か耳にしたことがあった。だって、その恋人は私じゃないのか、という声だってあったんだもの。もちろんその恋人は私じゃないし、どの人が恋火だっていい。どうでもいい。
ただ、私が気になったのは……ウィンデル様がその修羅場に居たらしいというニールの言葉。
もしかして、泣いて居られたのは……そのせいだったんじゃ……
「まあ、とにかく、お前は下に行ってそいつを冷やせ。どんどん赤くなってるぞ」
「うん、ありがと……ニール」
「またな」
別れを行って、私は元来た道を戻る。額が熱を持ってきたのが分かって、このままじゃ戻れないと思った私は、左に行ってエレス様の部屋へ戻る所を真っ直ぐ進んだ。
この時の私の行動を後で後悔している。
もし、私がおっちょこちょいじゃなかったら、頭をぶつけたりさえしなければ……。一旦部屋に戻って後で冷やす事にしていたら、私は部屋を抜けだしたお二人と会えていたのだから――
私が部屋へ戻った時、部屋にお二人の姿はなかった。控え室のエリカはうとうとと昼寝をしていて、もちろんお二人がどこかへ出掛けたことなど知る由もない。
慌てた私達は、お二人の姿を探すべく、王宮を走り回っていたら――
いきなり、どぉん!と轟音と共に、王宮が揺れた。
王宮内は混乱に陥った。
次々に外へ避難する人の嵐と悲鳴の中、私の耳が捉えたのは、「エレス、ウィンデル!」と叫んだ、エルディン様の声。
その声を頼りに人の波に逆らって走ると、エレス様とウィンデル様が抱えられて、廊下を走ってくるのが見えた。
「エレス様、ウィンデル様!」
「ローラ! エレス様の部屋にお二人を運ぶ! 治療師を呼べ!」
「は、はい!!」
ニールがウィンデル様を、彼の同僚がエレス様を抱え、廊下を走り去る。
エルディン様が世話役に腕を支えられながら、こちらへ向かってくるのが見えたけど、彼には近づかずに私は治療師を呼ぶべく、走りに走った。
治療師を連れて部屋に帰り着くなり、部屋は立入禁止となって私は外に出された。
世話役の私は部屋の外でただ待つしかなかった。しばらくの間、エルディン様の怒鳴り声が時折外まで漏れて聞こえた。でも、内容までは聞き取ることが出来なかった。
エルディン様が世話役に支えられながら出て来られた時、私は部屋の前、廊下を挟んだ反対側で一人佇んでいた。
「二人を頼む、ローラ」
エルディン様はかすれた低い声でそうおっしゃった。それに一礼をすることで了承を示す。
その時だった。
「ローラ?」
エルディン様に一足遅れて部屋から出てきた人が隣で私の名前を呼んだ。
私はゆっくりと振り返った。
初めに目に入ったのは、白い、白い髪。腰まである髪は少し乱れていたものの、さらさらと音が聞こえてくるほどに細くて真っ直ぐだった。
そして瞳は……ウィンデル様の空の色の瞳を想像していたのだけど……実際は薄い緑とも金とも言える色。光が差し込む具合や瞬きをすることによって、どちらともに変化する。
その目元の端から頰にかけて、赤く腫れ上がっていた。さっき聞こえてきたエルディン様の怒鳴り声を思い出す――もしかしたらエルディン様に殴られたのかもしれない。肌が透き通るように白いため、赤く滲んだ傷が余計に痛々しく映った。
纏っている衣のせいなのか、それとも私達を囲む乳白色の壁のせいなのか……窓から入り込む日差しが王の全身をさらに輝かせていた――目をちゃんと開けていられないほど。側に居れば自らが影でしかなり得ない存在だと思い知ってしまう。この方が、王なのだ。
この方が……姉の、恋人だったのだ……
「お前が、ローラか?」
薄い唇から紡がれる私の名前がその持ち主の体を縛る。
金の瞳が私を捕らえる。
何か重いものを飲み込んだように、足が動かない。
辛うじて喉から絞り出した声で「はい」と答えると、そこへエルディン様の声が割り込んでくる。
「エレスの世話役じゃよ。ローラ、今日のことにお前に非はない。エレスとウィンデルの事を頼むぞ。ウィンデルは今、動かすのも心配じゃから、目を覚ますまでエレスと一緒じゃ。上手くエレーナと協力してくれ」
「こ、心得ております」
「ローラ……」
「……ウィルム、行くぞ」
エルディン様が王を促し先へ歩かれるも、王は私を見下ろしたままぴくりとも動かない。王が動かないので、私も動けず、どうすることも出来ないまま私は項垂れていた。
そして突然、王は、「はっ……」と息を吐いた。
大股で私に近づいた途端――――後ろに纏めていた私の髪の束を下へと引っ張った。
上から覗き込む金の瞳。
奥には緑に囲まれた私が写っていた。
「――――――!」
痛い、と思うより、恐怖が一気に私の体を支配した。そして王の一言が私の体を容赦なく貫く。
「妹と聞いてはいたが……姉を思わせる片鱗すらない……こんな女をエレスの世話役に引き立てたエリアノーラの気がしれん」
さっと朱が私の頰を走ったのを感じた。突然、王が私を突き放すように私の髪を離したので、私はその反動で壁に背中を打ち付けてしまう。
「っ――――――!」
ずるりと壁つたいに床に崩れ落ちる私を王は冷ややかな目で見下ろす。私は指先が震えてくるのをとっさに後ろに隠した。
悔しかった――自分が彼を恐れているのを認めるのが。
恐れを王に見られるのが嫌だ――そう、思った。
王は私の無様な姿を鼻で笑うと、さっと白の衣を翻し、背中を向けて去ってゆく。
声が出なかった。いくら心の中で叫んでも、それが言葉になることはなかった。
待って。
待って下さい、王。
私は、あなたに聞きたいことがあるのです。姉のことを聞きたいのです。
姉は……姉は一体どこにいるのですか……
廊下の端に居た警備の男が、私が床にうずくまっているのに気づいて、駆け寄ってきた。なんとかその人の肩を借りて立ち上がるが、足がふらついてまたすぐに床に崩れてしまう。
「大丈夫か? どこを打ち付けた?」
「大丈夫です。大丈夫……少しすればすぐ立ち上がれるから……そしたら、エレス様とウィンデル様の所へ行けます」
「無理するな! どこかでまず休んだ方がいい」
「大丈夫だったら!」
支えようとしてくれたその人の手をバシンと払ってしまう。
彼は一瞬びっくりした様子で私を見つめる。
一体何が起きたのか、私も訳が分からなくて、頭がごちゃごちゃで、彼の手を叩いた私の右手は小さく震えだした。
「落ち着けったら、ローラ……。あそこ、控え室だろう? よし!」
「何をするの、な――――きゃっ!」
男は突然私を抱え上げ、エレス様の部屋の隣室へと歩き出す。
「下ろして!」
「静かにしろ! エレス様とウィンデル様が隣にいらっしゃるんだぞ!」
男は暗い控え室の冷たい床に黙った私をゆっくりと下ろすと、燭台に火を灯した。
陽はいつの間にか落ちていて、部屋は薄暗かった。
ゆらゆらと揺れる火を見ながら、私は膝を抱えた。寒くはなかったけど、なぜか手と体が勝手に動いて私は丸くなった。涙がこみ上げてくるのが分かったから、涙が引くまで顔をしばらく伏せていた。
部屋は静かだった。
「責任感の強いお前だからエレス様のお側を離れたくはないだろう。ここなら、何かあった時にすぐ駆けつけられる。エレーナに何か冷やすものを持ってきてくれるように頼んでおいてやるよ」
私の気持ちが落ち着くまで待っていてくれた男は、先ほどの強い口調を柔らかなものに変えた。
「ありがとう……」
「それにしても、王の目をあんな風に見るなんてな。命知らずというか、無鉄砲というか……」
「目……」
金の、目。私を縛り付けた、あの目に、ただ私は立ち尽くしていた。思い出すだけで、体が固くなってくるのが分かった。
「まぁ、王のお目にかなったのが姉さんだけで良かったな、と言うべきか? あそこで王に気に入られてたら、お前も姉さんと同じ運命になる所だったぞ。おっと、……すまん。考えなしだった」
私の睨みが、彼を凄ませる。そして彼はくすくすと肩を震わせた。
「それだけ、俺を睨めれば、大丈夫か。きっと今晩はお前は用なしと思うぞ。休める時に休んどけ」
「いえ、いつエレス様とウィンデル様がお目覚めになられるか分かりませんから……」
「ご苦労なこった」
肩をすくめて、彼は部屋から出て行こうとする。
助けてくれたお礼を言うと、彼は顎の黒髭を右手で撫で付けて、
「言葉の礼はいらん。そうだな、今度添い寝でもしてくれれば、それでいいさ」
と片目を瞑って白い歯を見せて笑った。
「……えっ?」
「楽しみにしてる、じゃあな。ちゃんと打ち付けた所、冷やせよ!」
扉が閉まってしばらく、私は『添い寝』の意味を反芻して赤くなり、一人で彼を罵倒していた。
そんなだから、私は彼の名前を聞くのをすっかり忘れていた。
控え室の扉が三度叩かれた時、私はいつの間にかうとうととしていた。
跳ね起きて扉を開けば、疲れた顔のマージが私の肩に雪崩れ込む。「夜に弱いのよね、私。もう、年だわー」と言いながら彼女はどさりと長椅子に倒れ込んだ。
外はまだ暗く、朝には遠い。
マージによると、エレス様とウィンデル様の様子は運び込まれた時から変化はないらしかった。
治療師の話では、ただお二人は眠っているのだという。いつ目覚められるかは分からないが、外傷はないし、穏やかな顔をされて、時折寝言を言ったりもされるそうだ。
夕方頃、王妃様が来られ、難しい顔をされて治療師と共に、お二人の様子を伺っておられたらしいが、しばらくするとほっとした顔と共にご自分のお部屋へと帰っていかれたのだとマージは言う。
「ただ、眠っていらっしゃる?」
「そう。特に心配はいらないと王妃様もおっしゃっていたから、朝にでもなればお目覚めになるだろうよ……。そういえば、ローラ、あんた、王に突き飛ばされたんだって?!」
マージの問いにあいまいに笑って誤魔化しながら私は交代を申し出ると、マージは欠伸を噛み殺しながら頷いた。
「体の具合がいいなら、そうしてもらえるかい? 年のエレーナにはちょっと不憫だしね。そうそう、エリカが、部屋で死にそうな顔をしてるから、彼女も解放してあげると助かる。ちょっと仮眠したら私が交代するからさ」
「もう十分休みましたから、大丈夫。朝でいいです、マージ」
私の答えを聞いて、彼女は力なく笑うなり、すうすうと寝息を立てた。
そっとエレス様のお部屋の扉を開けると、マージが言った通り、エリカが半分白目になって頭が上下に動いているのが見えた。彼女を控え室に送って、私はエレス様のベッドの隣にあった木の椅子に腰をかけた。
エレス様のベッドは彼女一人では余るくらいに大きい。だけど今はそのベッドも小さく見える――――彼女の隣には兄君が寝息を立てて眠っていたからだ。
ちょうど雲の割れ目から月が顔を出し、光を部屋に入れてくれる。
二人を淡い光が照らす。
「エレス様、ウィンデル様……」
お二人の頰はほんのりと赤く染まっているように見えた。時折、「んん……」とか「え……」とか、短い言葉を漏らすことはあったが、お顔は穏やかで、悪い夢を見ているようではなかった。何かお二人が言う度に私は名前を呼ぶけれど、返事はない。髪を撫でるとお二人は安心したかのようにまた小さな寝息を立て始めた。
「このまま起きないことないですよね? 起きて下さいね。でないと……」
でないと、なんなのだろう。
悲しい? もちろん、悲しいわ……でも、そんなんじゃなくて、そんな言葉じゃなくて……
「ウィンデル様……私、悲しい顔になってしまいますよ……あなたが起きて下さらないと……ううん……あなたが笑っていないと私も笑えないんです」
今朝方、部屋の前で別れた時の、空の色の瞳を思い出した。
胸が痛くて、痛くて、私は服の上から胸を押さえつける。息ができない。口を開いて息をしようとするけれど、漏れてきたのは嗚咽だ。
「一体、何があったんですか……朝になったら起きて下さいますか……目を、開けて下さい……お願いですから……」
もう誰も失いたくない――――
右手でウィンデル様の手を、左手でエレス様の手を取り、私は額に当てた。
どのくらいそうしていただろうか。
右手がぴくりと動いたのを感じて、私は顔を上げた。
ウィンデル様の手が動いて、私の手を握ったのだ。
「ウィンデル様? ウィンデル様?」
「んっ……ん……」
ゆっくり開かれる瞳。そこには――――まっすぐに私を見つめるいつもの蒼。
「ロー、ラ……、わら、って」
「……えっ……?」
「わらって……ローラ。え、がお」
視界のウィンデル様の顔がぼんやりと滲む。涙を彼に零さないように拭き取って、私はなんとか笑顔を作って見せた。
きちんと笑えていたのか分からない。
ウィンデル様が目を開けてくれた事が嬉しくて、嬉しくて、笑っている筈なのに涙が後から後から溢れてくる。
「ローラ、かわいい……えがお……」
ウィンデル様は瞳を細めてやわらかな笑顔になる。
私はもう全身が求める想いに気づかない振りが出来なくなっていた。
私は姉を探しに来たのです。姉になる為に来たのではないのです。姉のように……なる訳にはいかないのです。
でも、でも……。今だけ。今だけ……なら、いいですか……
「ウィンデル様、私は――――――」
「ローラ、すきだ、ローラ……、すきだよ」
私が涙に濡れた顔を覆うと同時に、ウィンデル様はまた瞳を閉じて、眠ってしまわれた。