後日談 (前編)
今日で何日になるだろう。
毎朝、毎晩ここに来て扉の前に立つのが習慣になっている。
陽が昇る前にやって来て、使用人達が忙しく動き回る時間になると、ここを離れる。再び、皆が静まる頃にそっとまた戻って来て、じっと扉を見つめて時間を過ごす。
あの人を待つ間は絶対泣くまいと誓い、気丈に振るまい、いつもの仕事をこなす。
時折、エリアノーラ様が溜息を漏らされるのを私は背中を向けて聞いた。そして次に必ず彼女はこう聞くのだ。
「エレスとウィンデルはちゃんと会えたのかしら……二人は大丈夫かしら……」
私はゆっくりと振り返る。
いつも大粒の涙が零れそうなくらい大きな瞳を揺らして、エリアノーラ様は私を見つめる。
その度に私は微笑んで同じ答えを繰り返すのだ。
「大丈夫です。お二人の絆はとても強いですから……大丈夫ですよ」
あの人と良く似た瞳を細め、エリアノーラ様は少しだけ頷き、また窓の外へと視線を流す。
それは彼女なりの『少し一人になりたい』という意思表示で、私は一礼をして部屋を後にする。
決まってこの後訪れるのは主、エレス様の部屋だ。
窓を開けて、淀んだ空気を入れ替えて、私は部屋の隅々の埃を払う。そして朝摘んできた花を花瓶に挿せば、今日の分の掃除は終わりだ。
花瓶は全部で七つ。
広い部屋のあちこちにそれらを置き、最後の一つを窓際に置くと、私はそこから外を眺めた。
トーン、トーンと木を叩きつける規則正しい音。男達の威勢のよい掛け声が街からここまで聞こえてくる。また今日も新しく家なりお店なりが再建されるのだ。
皆、前を向いている。
私だけがなんだか取り残された感じを受けて、泣きそうになって、唇が震えるのが分かる。
両手で唇を抑えて、目を閉じると、そこにはいつでも空色の瞳をした恋人の笑顔があって、私の名前を呼ぶのだ。
そしていつも思い出すのは最後に会った日の事――――
あの日、エレス様を追いかけてあの扉を開けようかと悩む彼の背中に抱きついて私はこう囁いた。
「行ってきて、そして必ず戻ってきて下さい。お待ちしています、ウィンデル様。あなたの心の赴くままに……私はあなたを信じていますから」
びっくりしたように空の瞳を大きくした彼は、たちまち泣きそうなくらい素敵な笑顔になった。
今までで一番、綺麗で格好いい笑顔だった。
『ローラ、必ず戻る。僕は君のお姉さんのようには絶対にならないから。約束する。だから待っていて。待っていて、ローラ。戻ったら……戻ったら……』
戻ったら……?
その先を促すと、彼は顔を真っ赤にして斜め横上に目を外らし、一つ咳払いをした。
『ローラ、愛してる。お願いだ。君を残してエレスを追いかけることを許して』
その一言を聞いた時、私は、頬が赤くなると共に、口元が緩むのを感じた。
少し可笑しかったのだ。
誰かが彼のその言葉を聞いたのならきっと、
『違う女の所へ行くのを許せだって! いいかげんにしろ!』と、怒り心頭かもしれない。
でも、私達の場合はそれはない。
このエレスは私の主のエレス王女様であって、彼女は彼のたった一人の妹君だ。
彼女が扉の向こうにある、違う世界に行ってしまったので、兄である彼が彼女を追いかけて行こうというのだ。
それは、此処とは違う世界――緑界<エトゥール>。
ここでの命が消えた後、名前の通り緑の美しいエトゥールでまた生を得るのだという。
どんな所なんだろう――――
「またここだったか」
低くて少し嗄れた声が私の回想を妨げる。
声に振り向けば、そこには疲れた顔をして無精髭を伸ばした男が壁に半身を預けて立っていた。
「ザント」
くすんだ黄緑色の瞳が一瞬、意地悪そうに細められる。
「相変わらず、主不在の部屋を掃除しに来てるんだってな。ご苦労なこった。花の匂いでむせかえるようだよ」
「いつでもエレス様が帰って来てもいいようにしておくのが世話役の務めです」
「はっ……ポーシャやマージと同じこと言ってやがる。世話役ってのは本当にくそ真面目な奴しかなれないな」
「当たり前です。あなたなんか絶対に務まりませんね、ザント」
一瞬、沈黙が私達の間に落ちる。そして二人して吹き出して声を上げて笑った。
久し振りだった。
彼はウィンデル様がいなくなってから、多くの仕事を引き受けずっと走り回っていたから、王宮内でたまに姿を見かけることはあってもそれは一瞬のことで、こうやって面と向かって会話をするのはほんとうに久方ぶりだったのだ。
「疲れた顔をしてますね、ザント。お茶をいれましょうか」
「おっ! 有難い! 頼むよ。甘くしてくれ」
「分かりました」
隣の世話役控室に移動して、私は二人分の温かいお茶を入れた。
彼にはたっぷりの蜂蜜入りだ。
鼻の下の髭を湿らせながらお茶を飲むザントの様子を見つめながら、私は何気なく細く息を吐いた。
それを目敏く見つけ、片眉を上げたザント。
「大丈夫か」
「えっ?」
「待つのは、辛いだろう」
「…………いいえ」
「そんな強がり、誰も信じないぞ。お前は影で泣くんだから」
「ウィンデル様がいなくなってから、一度も泣いていません」
「信じない」
「どうぞ、ご勝手に」
また一口お茶を飲んで、カップの中の揺れる水面に映る自分を見つめた。
ザントも「熱い!」と零しながらお茶をまた少し啜る。
「街は大分落ち着いているようだ、と聞きました……あなたとダントさんのご尽力の賜物ですね」
「いや……俺達なんて何も。ほとんどウィンデル様の指示に従って動いただけさ」
予想と違った答えが返ってきたのに驚いて私はカップから目を上げた。
ザントが優しく微笑んでいた。
「いつか自分が治めることになるフトゥールを幼い頃から隅から隅まで歩いて訪ね、人々の信頼と敬意を手中にしていた。ウィルム王が亡くなった後でもフトゥール家が搖らがなかったのはウィンデル王太子という存在があったからだ。信頼出来る人を選りすぐり、適所に適材を置き、その上に見事に君臨した。
しかし、そんな中……あの地揺れがあってから……人々が絶望へと叩き落とされた。けれど彼が皆を励まし、手足を汚して皆の為に誰よりも早く動いたから今、彼らは立ち直ることが出来つつあるんだ。ウィンデル様が不在でもこうして皆が前を向いて日々を過ごせるのは……彼が今までに積み上げてきたものがあったからだ」
「ザ、ント……」
「ははっ……かつて一人の女を奪い合ったのが彼とだなんて……もちろん俺なんか勝てるわけないじゃないか、な」
黄緑色の目を私に片方瞑って、苦笑したザントはさらに続ける。
「恋敵呼び寄せ、『よし。とうとうローラを諦める気になったか? また俺にも機会が巡ってきたか?』と思ったら、『僕の不在中、ローラと王宮を守ってくれ』なんて言われみろ、手を出す気なんて一気に失くなるぜ。だって、もしそんな事したら彼が帰ってきた時に何が待ってると思う? ああ、怖ぇ」
「変なことしたらウィンデル様だけじゃなくて、私からも酷い仕打ちが待ってますけどね。それを忘れないで下さいよ」
「ははっ……違いない!」
お茶を吹き出しつつ、大笑いをしたザントは残りを一気に飲み干し、自らおかわりを注ぐ。
「でも……ウィンデル様一人の力だけじゃないと思いますよ、私は。ザント、という心強い信頼するに足る臣下がいたから彼はエレス様を追って行くことが出来たんです。あなたがちゃんと仕事をする人だと彼は知っていたから、だから彼は自由に羽ばたけたんです。
いくら上に立つ者が優秀だからといっても、その者が一人では何も出来ません。そうでしょう? 恋敵というよりもザントはもう、ウィンデル様にとってあなたは重要な友人であり、臣下であり……そうですね、『家』で言うと、ウィンデル様を支える柱の一人という所かしら。屋根という主をきっちりと支える事が出来る、揺るぎない柱ですよ、ザント」
今度はザントが驚いた顔をして私を見つめていた。
お茶を持つ手が斜めになって、もう少しで膝に熱いお茶が掛かるところを私は注意する。
慌ててお茶を持ち替えたザントは笑いを漏らした。
「さすがだな……。新王の背中で糸を引いているのは年上の恋人だったってわけだ」
「糸? そんなことしてませんよ! なんで今のでその結論になるんですか」
「してるさ。でも、それは悪いっていう意味で言ってるんじゃない。俺なりに、『凄い関係』だって言ってるんだ」
「凄い関係って……なんですか、それ。私達はただお互いを尊重しあっているだけで……」
「はいはい。『そんちょう』ね」
片手をひらひらと泳がせて話の腰を折ったザントにむっとした顔を向けると、彼はにやりとまた意地悪な笑いを見せた。
「お前な、そんなに『良い子』で楽しいか?」
「はっ!?」
「そんなに聞き分けのいい女で疲れないか?」
「また、話をいきなり変えて! 聞き分けの良い女ってなんですか! もう」
私は乱暴に音を立てて、茶器を片付ける。
ザントと話をする時はいつもあちこちに話が飛んでしまい、結局最後にはこちらがイライラさせられて落ち着かないのだ。
「待てよ。まだ話は終わってない」
「いーえ。もう終わりです。お茶もなくなったし。それに私はこれからエリアノーラ様の所へ行かないといけないんです」
茶器を手に、彼を追い出しにかかる。が、手首を彼に掴まれて、手の中にあった茶器がガチャリと音を立てた。
「危ないっ! もう、ザント! もう少しで落とす所だったじゃないですか!」
ただふざけているのかと思ったけれど、彼の表情は真剣だった。急に胸に不安な気持ちが込み上がる。
「……ローラ。無理はするな。辛いのは分かってるんだ。ウィンデル様が帰ってきたら、笑顔なんかで迎えてやるんじゃないぞ。思いっきり泣いて、喚いて、彼が居なかった時間、自分がどれだけ辛い時間を過ごしてきたか思い知らせろ。もの分かりのいい恋人振るなよ。時にはみっともないほど喚いてみろ。そうしないと……向こうはいつまでたっても動かないぞ」
「無理なんかしてません。辛くない……と言ったら嘘ですが。でも人前で泣きませんし、喚いたりなんかしません! 思い知らせるだなんて、そんなこと……それにそんなにもの分かりのいい恋人じゃないですよ、私」
「お前なんかそのものじゃないか」
「違いますよ……胸には嫌な気持ちで一杯溢れているんです。口に出していないだけです。それを言ってどうなるんですか? 誰もそんな事を聞きたくなんかないでしょう? そ、それに……」
「それに?」
くすんだ黄緑の瞳が揺れるのが見えた。
こうして優しい目を向けるのは反則だ、と私は思う。こうやって優しい視線を受けたら胸に押さえつけてきた物が一気に崩壊してしまうのが分かってるから。それを可能にしない為にも私は彼から咄嗟に視線を外らす。
「私は彼よりも六つも年上なんです」
「だから?」
「だから……」
「しっかりしないといけないんです、とでも言うのかよ」
「…………そうです」
「あああ!」と奇声を上げて黒髪を搔きむしるザント。
「ほんっとくそ真面目な奴だな! 前はそれも可愛いか、とも思ったけど、今となっちゃ、イラつく原因でしかない!」
「イラつく? 私の方こそあなたにイライラさせられますよ!」
「上等だ!…………あのな、ローラ。お前、ほんとは年なんて気にしてないだろ、実は。俺には分かる」
「俺に分かる!? またそれですか! 本当は何も分かってないくせに!」
「まぁ、聞け」
手を私の口元まで持ってきて、またもや話を遮る男。
「今までウィンデル様とそういう関係になって、年なんて気にしたことがあったか? ないだろう。それもまぁ、あの方のしっかりし過ぎた性分のせいなのか、兄であるせいか『妹』の扱いになれているというのか。まぁ、ウィンデル様が年下だからこうだ、っていうのがあったとは思えない。俺だってそうだ。まぁ、俺達は男同士だから、『なんだ、この幼い王太子は!』って初めは喧嘩腰になったこともあったが、な。それも初めだけだよ。これはどんな年の奴だって彼を知る者なら俺と同じ意見だ」
「何が言いたいの?」
口角を上げて、ザントは腕を組んだ。
私はこの男が嫌いだ、と思う。
初めて会った時から振り回されてばかり。私の心を掻き乱してばかり。
大嫌い――――
でも……心の底から憎めないのだ。だから、いつも出会うと、ついつい心を許してしまう。そして、また彼に掻き乱されてイライラするのだ。その繰り返し。
「年上だから、なーんてつまらない言い訳なんかするなって言いたいんだよ! 心の底にある思いをとっとと吐き出せって言いてーんだよ! いいか、ローラ。ウィンデル様が戻ってきたら、即一言目からぶつかっていけ!」
すぅっと長い指が伸ばされ、私の額を弾く。
「い、いたっ!」
手がふさがっているから痛む額を押さえることが出来ない。何度か足踏みをして痛みが通りすぎるのを待つ。
そんな私の様子を意地悪く声を上げて笑ったザントは
「またな! 俺も仕事に戻る」
と言って部屋を出て行こうとする。
「もう! ザント!!!」
私の怒った顔に振り返りもしないザントは片手を上げて軽く振るとそのまま廊下を走り去って行った。