序章
耳元に残る囁き。逃げていく温度。遠ざかっていく背中。伸ばした腕の指の間を抜けて、ただただ駆けて行くあなたの姿。そして。
あのときのあの瞬間のことは、ひとつ残らず記憶に焼きついています。毎晩意識を闇に埋めるたびに、眼裏で絶えず繰り返されます。二度と目にしたくない光景であるはずなのに、そのたび心のどこかでひっそり安堵するのです。あなたを忘却の海に沈めてしまうほうが、何千倍も恐ろしいのです。
許して、とあなたは言いました。私をそっと抱きしめて、その耳元で。懇願でした。聞いた私のほうが心を締めつけられるくらい、切なく辛い懇願でした。理解はしているのです。あなたが私にどうして欲しかったか、それをどれだけ強く願ったか。けれど、私にはできませんでした。すべてを懸けて私を守ってくれたあなたの願いに、応えることができなかった。私は私を恥じました。呪いました。恨みました。それでも、どうしてもできなかった。ごめんなさい。ごめんなさい。
私は誓いました。それならば、あなたがくれたすべてをそのままあなたに返そうと。私があなたのためにできることは、もうそれくらいしかありません。あなたが私と係わることで失ったすべてのものを、全部返します。ひとつ残らず、すべて。
幾年でも、あなたを待ちます。あなたが私を忘れても、私はあなたを忘れない。あなたを元通りにできるそのときまで、数百年でも数千年でも、あなたを待ち続けます。ずっと。
――でも、本当は、私は。
あなたにもう一度逢いたいだけなのかも、しれません。