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アスタロト  作者: 福介
5/5

跋編

僕はひたすらに逃げ惑った。建物の影に隠れては、人目につかないように走り回った。僕に向けられる視線、そのどれもが憎しみに満ちているようだった。


「何あの人、気持ち悪い。」


「うわっ、キモ…。汗だくじゃん。臭い。」


「マジ、あんなんで街を歩き回るなよ。公害だろ。」


誰が囁いたわけじゃない。誰の声も聞こえない。その罵声は言わば今まで僕が他人に浴びせてきた意識の内側から溢れる声だ。だが、全ての音がそう聞こえる。車の通りすぎる音が。窓ガラスの擦れる音が。水の弾け飛ぶ音が。そして僕は恐怖心に耐えながら時が過ぎるのを待った。


全てを失い虚無感に苛まれた僕はあの日佇んでいた夜の公園へと辿り着いた。涼しく吹き渡る夜風が僕の頬を掠める。ここへ来ると何故だか心が救われる。流石に深夜にもなると誰も居ないだろうと思っていたが、小さなベンチに座る人影が確認できた。目を凝らし眺めてみるとそれは絵空だった。


「絵空…?」


「…?」


絵空は一目では僕を認識できなかった。それはそうだろう、もう僕は皆の知る今までの美しい僕じゃない。ましてやこんな醜い姿の男がこの時間帯にフラついていれば不審者以外の何者でもない。僕は言葉を濁し、その場を立ち去ろうとした。


「白羽くん…だよな?何か、違和感はあるけど。こんなところで何をしているんだ?またボクを責め立てにに来たのか?」


そうか、絵空はあの面接の日の僕を、まだ醜い姿のままだった僕をハッキリと覚えていたんだった。僕は振り向き、彼を軽く宥めた後小さなベンチの端に座った。


「絵空、今どんな気分なんだ?」


「どんな気分て…。」


彼はよくもそんな事を聞くなとも言いたげな顔で首を傾げた。そして僕もこの質問がこの場に適さない事を気付き、こっ恥ずかしさで黙ってしまった。近くの車道を二、三台の乗用車が走り去る音が響き渡った後彼は口を開いた。


「まぁ、全てを失った…って感じだよね。もうあの会社では働けない。今まで大切に積み上げてきた信頼とか人望が一気に崩れ落ちてしまったからね。でも、それもこれもボクの責任なんだよな。自業自得ってやつかな。」


僕は少しだけ、今の絵空と解り合える気がした。全てを失った立場としては全く同じ境遇だからだ。だから僕は自分がしたこと、伝えなければいけない事実を彼に伝えようと決心した。


「それなんだが…。お前のデータをばら蒔いたのは僕なんだ。」


「…!」


僕は自分に起きた事を全て話した。僕の前に現れたアシュトの事、今までやって来た事、そして、絵空にした事。それを聞くと彼は恐らく自分の中にある疑心と怒髪の狭間で葛藤していたのだろう、頭を深く抱えたまま哀れみもない罵倒を独り言のように溢れ出させていた。一頻り罵った後、心を落ち着かせ冷静さを取り戻し僕に話しかけてきた。


「…白羽くん、君のやったことは許せない。今すぐにでも証拠をかき集めて君を控訴してやりたい。そうすればボクは皆の信頼を取り戻し、損害分の慰謝料をも手にすることが出来る。だけど…。」


「…。」


「何でかな…。君の気持ちが痛いほど分かる。ボクにもしそんな嘘みたいな話が転がり込んできて、同じような機会に遭遇したなら君と同じく、誰かを貶めて利潤を手にしたと思う。そんな邪念が浮かぶ以上ボクも君と同じ犯罪者になり得たんだ。ただボクには機会がなかった。ただそれだけなんだろう。だからボクは君をこれ以上は責めないよ。一緒に会社へ戻ろう。会社の為にも皆の為にも君が生んだ損害を取り戻すんだ。今の君なら純粋に皆と協力出来るだろう?」


そんな馬鹿な話があるだろうか。僕と絵空が同じ?ふざけるな。僕が彼と同じ立場なら間違いなく目の前の憎き存在の醜態を世に晒させている。皆さん、こいつが諸悪の根元ですよと恰も敵の首を取った勇猛果敢な武将のように振る舞っている。


「絵空…、お前は馬鹿か?正気とは思えない。」


「確かにね…、ボクは正気ではないかもしれない。少なくともこの荒んだ世の中では。でもね、ボクは思うんだ。どんな犯罪者にでも、その心がどんなに歪な形だったとしても、その歪んだ心に自分の手垢が付いていないことは無いって。産まれてこのかた他人に冷たくした事のない人間なんていない。人それぞれが抱えた堪忍袋の緒が少しずつ切れていき、その最後の一切れを外した人が被害者となる。謂わば罰ゲームと同じ。でも犯罪はゲームじゃない。そこに関わった皆が自分の過失や責任を理解して、共に罪を償い受け入れることで醜いとか美しいとか関係なく皆が幸せになれるんじゃないかってね。」


話の途中から、僕は絵空の目を見ることが出来ずただ俯き瞼が作り出す暗闇の世界に呆然と立ち尽くしていた。正直なところ僕は彼の言うことを受け入れる事が出来なかった。やはりアシュトの言う通り、醜い者は幸せになんてなれやしない。本当の幸せを手にすることは出来ない。だけど、僕にはそんなことを彼に誇示する気は微塵にも無かった。彼はそんなこと知らなくて良い。考えなくても良い。ただ、自分の力で見つけた温もりや優しさ、結束力や信頼を幸せなんだと感じられればそれで良いのだ。少なくとも彼にはそんな人間であってほしいと切実に思った。


静かな公園を朝焼けの蒼が包み込み、木々のシルエットが濃く浮かび上がる景色を見ながら、僕はそんな藁にも似た儚い希望を握り締めていた。

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