後編
次の日、職場では悲惨な活劇が繰り広げられた。大切なデータを無くしたという事実を把握した上司や同僚、それを受け入れられない絵空の見せる実に人間味の溢れるやりとりだ。絵空は必死になって自分のフラッシュメモリを探し、立矢はただ黙ってそれを観察し、そして周りの者はここぞとばかりに絵空を責め立てた。そこに誰一人として立矢を責める者は居なかった。
「こいつ、マジかよ…。」
「なんで部長もこんな奴に任せたんだよ…。それなら俺の方が…。」
「待ってくださいね。確かにここに入れておいたはずなんです。もうちょっとだけ…待ってください。」
探しても無駄だ絵空。お前のフラッシュメモリは立矢がしっかりと自宅へ持ち帰った。それに今更出てきたところでその中身は世界中へとばら蒔かれた後だ。全くもって無力な存在。もがけばもがくほど見苦しい姿よ…。
「お前らも悲惨だよなあんな奴と組まされて。俺、関係ないから良かったわ〜。」
「もう良いよ絵空くん。君に任せた私のミスだ。」
「もう少し…、ボク、確かにここに置いたはずなんです…、何で無いんだよ…。」
「白羽も良い迷惑だよな。あんなのと組まされて…。」
私は笑いを堪えることに必死だった。同じチームのメンバーでさえ誰一人絵空を手伝う者はいない。むしろ、必死で逃げ惑う獲物を皆で取り囲み衰退していく姿を楽しんでいるようだった。恐らく立矢も笑いを堪えることが出来ないのだろう、唇を噛み締めたまま自分の右足を睨み付けていた。
「あいついつまでやってんだよ。馬鹿じゃないの?」
「もう、あいつのやることなすこと全部鼻につく。何か腹が立つんだよな。」
いつしか周りから浴びせられる罵声は、この件から湧き出た不満ではなく、絵空に対する日常的な嫌悪感に依るものへと変わっていた。いや、むしろそれは絵空に浴びせるという目的ではなく、ただただ闇雲な鬱憤晴らしと呼ぶべき嗜みであった。
「て言うか、あいつこの前俺に気安く話しかけて来たんだよ。マジでウザイよな。」
「あっ、俺も俺も。飯に誘われたけど気まずいから拒否っといたわ。マジ勘弁だよな。」
「どうして…、確かにここに…置いたはずなのに…確かにここに…。ごめんなさい…ごめんなさい…。」
「うわっ、キモい!泣き出したよ。泣くことねぇだろ…。」
「わけわかんねぇ、マジでこいつ。関わりたくねぇ。」
私には目の前に広がる光景が滑稽で仕方なかった。これで笑いを我慢しろという方が無茶な話だ。しかし、よく考えれば私は誰からも見えないのだから、声に出さなければいくらでも笑ってしまって良いのだ。そう気付くと私の口許は潔く緩んだ。立矢も無理をせ…
「やめてください!皆して絵空を責めて。これは絵空一人のミスではないでしょう!?ここにいる以上皆で責任をとるべきでしょう!?第一僕だって管理を任されていたんです。絵空を責めるなら僕を責めてください!!」
私は驚き目を見開いてしまった。その声を発したのは他でもない立矢だった。いやいや、犯人はあなたでしょうに。いきなり何を言い出すのか。ここへきて昔の自分を思い出し、憎悪の念が沸き出してしまったのだろうか。周りの者はその声に渋々散っていき、自分の仕事に取りかかりその場は収まった。その日の帰り道。
「…流石に驚かされましたよ。」
「何が?」
「立矢にもまだ良心が残っていたのですね。あの場で絵空を庇うなんて。本当に驚きましたよ。」
「…ふ。ふふ…。甘いなアシュト。まだこの悲劇の物語には続きがあるだろ?そこに少し筆を足してやっただけさ。」
「おや、まぁ。」
「他人の失敗を自分に擦り付けられるって事でどれだけ憤りを感じるか、僕はよく知っている。今頃あいつらは絵空の悪口をツマミに晩酌でもしてるだろうね。そしてもうすぐ最悪の事態が皆を襲う。そうなった時、絵空の居場所は無くなる…。」
私にはそう言い放つ立矢が頼もしく見えた。やはり立矢にはその素質があったのだろう。もう彼に過去を振り返る良心などという邪念は微塵たりとも残ってはいなかった。
それから五日目の朝、立矢が足を踏み入れたオフィスの雰囲気は以前にも増して重苦しく張りつめていた。絵空の無くしたフラッシュメモリに入っていた企画、つまり会社のかくし球となるべき物が、ライバル企業の新商品として売り出されていたのだ。立矢の計画は完璧だった。完全に出し抜かれた、普通ならばそう考えられる状況だったが、今回は違っていた。そう、全ての原因が絵空にあったからだ。もう誰も絵空を責めようとはしない。もちろん庇うこともしない。何故なら明快だったからだろう。絵空にはこれ以上関わらない方が良いということが。
終業時刻になると、絵空は皆から逃げるようにオフィスを出た。廊下には彼の弱々しい足音が乱れ乱れに響く。立矢はすかさずその音を追いかけ、彼を呼び止めた。立矢の声に力なく振り向く絵空。その表情からどんな心境が想像できただろう。逃げ場を失った獲物が最後まで自分の味方をしてくれる存在を見つけ寄りすがろうとする様。そんな弱りきった彼に向けて立矢は言い放った。
「…見てみろよ、そのザマを。お前の言う信頼って何だよ?お前の言う人望って何だよ!?答えてみろよ、あの時の様に。話してくれよ屈託のない笑顔でそれが大切なんだって!誰がお前に手を差しのべてくれたんだよ?お前が与えた優しさや気遣いを誰がお前に返してくれたんだよ?これで解ったろ?無駄なんだよ。醜いものが必死になって幸せを手にしようなんて、無駄な努力なんだよ!」
絵空には何も言い返すことが出来なかったのだろう。彼はそのまま前を向き、何も言わず去って行った。そして次の日から絵空は会社には来なくなったが、それが欠勤なのか、退社したのか、誰も気にも止めなかった。ただ、彼のデスクがいつ片付けられるのか、それだけがその判断基準になっていた。
完全に士気の下がったオフィスで立矢だけは活気盛んに働いた。いや、それは普段通りの働きだったのかもしれない、ただ意気消沈した同僚や上司たちからはその姿が勇ましく見えたのだろう。いつの間にか、皆が立矢を先頭に絵空の起こした事件を忘れてしまおうと再び歩き出したようだった。
「くふふ…、ダメだ、あいつら面白すぎる。面白いように馬鹿ばっかりだ。馬鹿が醜い奴を卑しめているのを眺めているだけで僕自信の地位や信頼は向上する。同じ道の上を歩いていて醜い者が袋叩きにされても誰も僕の事は責めやしない。何だこのシステムは。美しいってだけで人生の難易度はベリーイージーだな。」
まさにその通りだった。この件で立矢は周りの信頼をより一層強く獲得し、その地位を高めた。実際のところ立矢は何をしたわけではないのに。もちろん絵空も何をしたわけではない。誰がその事に気付けたのだろうか。ただ美しく羽ばたく者は雅に輝き、醜く這いずり回る者は惨めに淀んでいくのだった。
「邪魔なんだよ、ブス。…死ねよ。」
ある日、仕事の帰り道、立矢は階段を降る女子高生を蹴落とした。しかし、通り過ぎていく人々は軽く目を向ける程度で全く助けようともしない。まるで自分には関係ない投棄物だと丸められ転がった新聞紙を見るようだった。
「見ろよアシュト。誰一人声をかけようなんてしない。醜い者は哀れだな。人ながらも人扱いされてないんだ、何処へ行ってもそう。この社会全体のな。美しい者が蹌踉めけば皆が手を差しのべ、醜い者が蹌踉めけば皆がその身を反らす。臭いんだよ。汚いんだよ。お前らに人としての存在価値なんてないんだよ!失せろ塵!」
「これが人間の歪な性ですね。面白い。そうしてまた一人醜い者が駆逐されてゆく。もう、立矢を上から見下ろせる存在など無いのでしょうね。」
「まぁな。名ばかりの地位や名誉を手にするよりも確かな優越感だな。僕はもはや誰よりも偉くなったように感じるよ。ただ…。」
「…ただ?」
「何だろうな。今のこの生活が幸せだとは全く感じられないんだよ。確かに毎日楽しいことばかりだ。でも、僕が掴んだ幸せは絶えずこの指の間から零れ落ちて行く。恐らく明日になっても明後日になってもこの虚無感は拭い去れないんだろう。なぁ、アシュト…何故だと思う?」
「…ふっ。」
「ん?」
「くっ…、ふふっ…。愚かですね…あまりにも鈍すぎます。」
「どうしたんだ、アシュト?」
私自信、そろそろだと感づいてはいた。砂糖の甘味に慣れてしまった人間にはその砂糖の味すら甘いと感じられなくなるのだ。この時が来るのをどれだけ待ちわびたことか。ただひたすらこの時のために今まで愚かな人間一人を祭り上げてきたのだ。ここまで来ればこれ以上の高みは望めないだろう。最上階まで慎重に慎重に積み上げられたトランプタワーを今まさに天誅の如く叩き壊す時なのだ。
「それはそうでしょう。だってあなたは私の飼い犬に過ぎないのだから。幸せ?そんなもの感じられるわけがないでしょう?飼い犬はご主人様に芸を披露しご褒美に餌を貰い生きていかねばならないのですよ。それが自分の意思なのかも解らずただひたすらに尻尾を振り涎を垂らす毎日、そこに幸せなど存在するわけがないでしょう?でも安心なさい、それももう終わりです。夢見心地の時間はお開きですよ。」
「アシュト?何を言い出すんだ、どうしたんだ?」
「私がこのまま黙って貴方の元を去るとでも思っていたのですか?甘いですよ。私が何の因果であなたを選んだと思いますか?それはあなたが強く願っていたからです。とてつもなく深く執拗に幸せを求めていたからです。そして私はあなたにそれを与えた。元々手にする者から奪うよりも、それを心から懇願し漸く手に入れた者から奪う、その瞬間の表情を眺める事が何よりの快楽なのだから!!」
「な…?まさか、お前…?ち、違う、僕は今のままでも十分幸せなんだ!僕の幸せを奪わないでくれ!!」
「元よりそれは貴方の幸せではありません。現実を見つめるのです…!!」
私は容赦なく彼に与えた恩恵を全て奪い取った。全身に被われた金メッキを引き剥がし、私と出会う前の醜い姿へと戻した。立矢の体は膨れ上がり、衣服は今にもはち切れてしまいそうだ。その絶望に満ちた表情は私がこの世に降りて以来に見た最上級のご馳走だった。
「アシュト…アシュトォォォ!!」
「あぁ、その表情…、堪らない…。ふふ、今の気分はどうですか?」
「あぁ、顔が…体が…、僕の地位が…。」
「気分はどうなんですか?」
「う、うぁぁ…こんな体でこの先どうやって生きていけば良いんだ…?ダメだ…こ、殺してくれ…こんな体じゃ生きていたくない!!」
「はははは。面白いことを言いますね。元の姿に戻っただけに過ぎないものを。だから言ったじゃないですか…。」
「!?」
「醜い者は幸せになんてなれないと…。これで理解できたでしょう?ホラ、怨みなさい、憎みなさい、そして争いなさい醜い者同士、生涯手にせぬ幸せを求めて。フハハハハハハ!」
そうして私は元の姿へ戻り、立矢の側を発った。人間の幸せ…、私はそんなものには一切興味はない。私が求めるのは人間の邪な心が産み出す憎しみや争いと言ったものだけだ。その切っ掛けとして幸せという偶像が存在するに過ぎない。それが失われることだけが悍しかった。しかし、私の心配は杞憂に過ぎなかったようだ。この世界から争いが無くなることはない。力を持たぬ者は、それを持つ者から賎しめられそれを求める。平和のためにと漸く力を手にした者は、その力を奮うことに躍起になりそして他を賎しめる。人間が人間である以上私の快楽が脅かされることはないようだ。人間にとっては実に残念な話ではあるがね。




