中編
数ヵ月を越えると、立矢の容姿は以前のそれとはほぼ別物と言えるほどの変化を遂げていた。立矢は頻りに鏡の前に立ち、右から見た自分や左から見た自分、斜め下から見上げた自分の姿に酔いしれていた。そんな時、前に面接を受けた企業から内定合格通知が届き、立矢は多少躊躇いながらもそこへの就職を決意した。立矢がすぐに決断出来なかったのも、そこは立矢が面接で愚弄されたあの企業だったからだ。そして、初出勤の日を迎えた当日の朝。
「髪の角度がもう少し右分け寄りが良いのかな。いっそのこと結わえてみようか。いやぁ、こんなに身支度に時間をかけたのは初めてだよ。前は社内の人達に受け入れてもらえるかが心配の種だったのに、今ではどんな自分を披露して周りの目を釘付けにしようかで迷っているからね。悩みって尽きないものだね。」
「立矢、それは良いのですが時間が…。」
「おっと、ヤバい。クールに決めるには時間に余裕を持って行動しないとね。そうだ、アシュト、社内では姿を消していてくれよ。お前は部外者なんだからさ。」
「…容易いご用。」
立矢の予想通り、会社に入ってからの対人関係は良好だった。立矢が黙っていても周りから人が近づいてきて仲を深めようとする。立矢との人脈を築こうとする。それはそうだろう。綺麗な花が咲いていれば、それを胸に飾り自分自身が美しいと思われたい、それが人の常だ。
立矢が所属する部署のフロア内は完全に二つの種族に別れた。一つは立矢を中心とした人脈を求め自分の地位を獲ようとする向上心を持つ者のグループ。もう一つは、他の足を掬うことに目を輝かせ、身の回りの均衡を保とうとする堕落した者のグループ。それは面白いようにはっきりと、美しい者と醜い者のグループとして別れていた。ただ一人を除いては。
「初めまして、白羽くん…だよねぇ?。ボクは絵空智。面接の時一緒だったけど覚えてるかなぁ?」
彼は成人男性にしては大分小柄で、顔立ちもほぼ以前の立矢と同レベルだ。恐らく彼も立矢と同じ棘の道を歩んできたのだろう。しかし、彼と立矢ではその瞳の奥に持つ光の色が違う。まるで別物だ。彼を立矢に近づかせてはいけない、そんな気がする。立矢が彼に妙な形で触発されなければ良いのだが…。
「あ…、あぁ、悪いな、覚えてない。」
「そっかぁ。残念だなぁ…。確か白羽くんはあの日、エレベーターのブザーが鳴った時自ら率先して降りていったんだよね。あれは素晴らしいと思った。だから白羽くんの事ははっきりと覚えてたよ。しっかし、だいぶイメチェンしたね。雰囲気が違うけど…。」
立矢にとっては意表を突かれたと言ったところか。まさかあの時の自分を覚えている者がここに居たとは。どう足掻いても忘れていてほしかった忌まわしい過去、それは絶対に触れられたくないパンドラの箱とも言えるテリトリーだ。逆に言えば、唯一本当の自分の姿を受け入れてくれている存在でもある。さて、立矢、どうする?
「そうだ、白羽くん、今夜飲みに行かないか?君とは馬が合いそうな気がするんだよなぁ。ダメかなぁ?」
立矢は多少間を置いて軽く返事をし、絵空の促す流れに従うことにした。そして、その日仕事を終えると、そのまま二人は職場界隈の居酒屋にて酒を酌み交わした。
「白羽くん、君は容姿端麗なのに、何故かこう、物悲しい事を言うね。」
話は唐突だった。立矢は初めから絵空の存在を受け入れる気は無かった。それ故、何故絵空の様な醜い者が自分に近づくのかそれが不思議で仕方がなかったのだ。
「ボクは大学に入るまで、人付き合いが苦手だったんだ。誰もボクの事なんて受け入れてくれない、そう決め付けて他人と距離を置いて生活していたからね。もちろんそんな奴に好き好んで関わろうとする変わり者は居なかったよ。そりゃそうだ、ボクはいつだって他人が近づくのを拒否してきた。でも、本当は誰かに飛び込んできて欲しかった。そんな自分の臆病さを認めて初めて気付いたよ。皆同じ事を同じ様に怯えているんじゃないかってね。それからボクは人の心の奥を理解するために心理学の本を読み漁った。心理学っていうのはね、他人を騙し貶める為の学問じゃないんだ。他人の心に潜むコンプレックスやフラストレーションを理解して寛容になるための学問なんだよ。ボクは人の欲するものに気付き、それを与える。そうして人と人はお互い支え合って高め合っていければと思うんだ。自ずとそこに信頼が生まれるんだよ。そうやって少しずつ人望を得ていけば、誰だって必ず幸せになれるはずなんだ。」
「綺麗事だな。絵空、美しい人間っていうのはな、醜い人間を受け入れやしないんだ。醜い人間は生涯上から見下され排他されて生きていくんだ。そういう運命なんだよ。」
「そんなことはないと思う。現に白羽くんはボクを受け入れてくれているじゃないか。ボクは嬉しかったよ。この飲みにも付き合ってくれて。大切なのは美しいか醜いかじゃなくて、動くか動かないかだと思うんだ。相手が動かないならこちらから近づいていく、そうして人との結び付きが生まれるんだよ。ボクが人を大切にすれば、必ず誰かがボクを大切にしてくれる。ボクが誰かを幸せにすれば、必ず誰かがボクを幸せにしてくれる。そう信じていたいんだ…。」
立矢と絵空はその後もお互いの意見をぶつけ合った。いや、立矢はどう思っていたのだろう。昔の自分に言い聞かせて欲しかった言葉が絵空の口から次々と溢れ出す。立矢は必死に否定するが、絵空の視線は真っ直ぐ前に向けられたまま揺らぐことなく己の理想を見つめていた。結局絵空は私の言う幸不幸について反証は出来ていなかった。しかし、立矢の心は僅かながらでも絵空の理想に突き動かされてしまったのではないだろうか。私はそれだけが不安で、一刻も早くこの二人を別れさせたかった。店を出て、駅から自宅へ向かう電車に乗り、各々の最寄り駅で別れの挨拶を交わし、漸く二人は別れた。この時間が私にとってどれだけ長かったことか。そして私たちは家路を歩いていた。
「アシュト…、どう思う?」
「…立矢はどう思いましたか?」
「…ムカつくな。あんな純粋無垢な笑顔で、嫌味も皮肉も込められていない全くもっての綺麗事を語られたらな。反論する気も失せる。あいつには現実を見せてやらないといけないな。」
その言葉を聞いて私は柄にもなくホッと胸を撫で下ろした。転がり出した石は留まることなく急激な坂道を走り続けていたのだ。多少の障害があったにせよ、その勢いが弱まることはない。そう確信した。
「今回私たちがプレゼンします新商品は…」
雨の降り頻る火曜の朝、立矢たちはこの会社が次に手掛ける新商品の企画会議に参加していた。
「…では、今回はこの案で行きましょう。まだこの後も所々改良を加えますので、え〜と、データの整理と管理は絵空、白羽、君たちに任せるよ。」
「かしこ、かしこまりました!」
今まで何度となく会議を開いてはプレゼンを行い、商品案が却下されていくといった流れの繰り返しだったが、今朝の会議では漸く上層からのゴーサインが出たようで立矢や絵空も普段以上に溌剌としていた。そしてその日の夕方、それは起こった。
「アシュト、これは何だと思う?」
立矢が左手に誇らしげに握り締めていたのは、絵空のUSBメモリだった。その中には恐らく今朝プレゼンで企画が通ったデータが入っているのだろう。
「フラッシュメモリですね。2GB。資料を保存するだけにはやや容量に無駄がありそうです。動画などのファイルも入…」
「僕には角砂糖に見えるけどね。いや、ミルクかな?ダージリンティーにはミルクなんだよ。通ぶってダージリンティーにはレモンだとか言う奴も居るけどね。僕は断然ミルクなんだ。」
「風情のあるお話ですが、意味は理解しかねますね。」
「幸せと言う名のケーキのお供にはダージリンティーだと言ったのはお前だろ、アシュト。この中には今朝企画が通ったばかりのデータが入っている。ウチの会社のとっておきのかくし球さ。ライバル企業はこのデータに脅かされるだろう。ならばこのデータをそいつらにばら蒔いてやるんだ。そうしたらどうなると思う?このデータの管理を任されているのは絵空と僕の二人だ。…アシュト、お前の好きなものが見られるぞ。」
「立矢、あなたも成長しましたね。私の助言なくそこまで考えられるとは。」
「漸くね、解ってきたんだよ。醜い者が慌てふためく姿を拝見しながら嗜むダージリンティーの美味しさが。」
立矢はそう言うと左手に潜めたフラッシュメモリをポケットへと収めた。そして帰り支度を済まし、オフィスを出て、エレベーターへと向かう廊下を意気揚々と歩いていたその時。
「白羽君!」
それは絵空の声だった。突然私達を呼び止めたその声は、数ミリのズレもなく二人の心臓をスブリと突き抜けた。すぐに振り返ることの出来ない私達に、絵空の軽い足音が近づいてくる。その距離は雷を測るよりも容易く、8メートル、6メートル、5メートルと徐々に狭まってくる。
「立矢、いざとなったら私が…。」
「大丈夫だ。平然としていれば問題ない。」
立矢はそう言うと絵空の方を振り向き、普段通りの澄ました顔で返事をした。
「はぁ、良かった。白羽君、今朝の企画の話なんだけどさ…。」
「あぁ、それね。上手く行くと良いな。僕らは殆んど企画には協力できなかったけれど、資料の整理くらいなら手助け出来るからな。」
「それなんだけどさ…。」
絵空は何か言いたげな顔をしながら口ごもった。私達には身構えるように、絵空の口から放たれる次の言葉を待つしかない。その時間は期待と恐怖の間で長くも短くも感じられた。そもそも、何故私が怯えなければならないのだ。何なのだこの肌に刺さるような気配は。人間の作り出す空気というものは、理解し得ない威圧感を持っている。この力を上手く使えば、世界中を牛耳ることが出来るのではないだろうか。…私はこの状況で一体何を考えているのだ。そうしているうちに絵空の覚悟が決まったのだろう、漸く彼はその口を開いた。
「この企画が上手く行ったら、皆で飲み会でも開こうと思うんだけれど、白羽君は参加してくれるかい?」
「…はぁ?」
…はぁ?とは私が言いたいところだよ立矢。これだけの間を置いて出てきた言葉がそれか。と、立矢も私と同じ事を考えているのだろう。
「あ、いやぁ、面倒だったら良いんだよ。ボクが勝手に言い出したことだからさ。まだ他の人は誘ってないしね。」
「ま、まぁ、成功したら…な。で、話はそれだけか?」
それだけだった。その話が終わると絵空は満面の笑みを浮かべオフィスへと戻っていった。そして私達も満面の笑みを浮かべ家路へとついた。ただ違ったのは私達が浮かべた笑顔には絵空のそれにはない嘲りを含んでいた事は確かだ。
家に着くと、立矢は戸棚からティーパックを取り出し、75度前後のお湯の中へゆっくりとそれを浸した。茶葉から滲み出る色合いはまさにそれが持つデータとも言うべきものだろう。それと並行して、ポケットからフラッシュメモリを取り出し、自らのパソコンからネット上の世界へそれを浸した。それはまるで紅茶の色合いのようにゆっくりと抽出されていった。事を終えると立矢は何を語るでもなく静かに紅茶を啜っていた。部屋中に漂うダージリンティーの香り、ただそれだけが私達を包み込んでいた。




