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アスタロト  作者: 福介
2/5

前編

この世に住む人の心は潤いに満たされている。それらは皆災厄を逃れ、他と手を取り合うことで安寧を得ている。誰が孤独を求めようか。誰が争いを望もうか。知恵とはつまり他を気遣う業。力とはつまり他を護り抜く業。そんなものばかり手にして人は何処へ向かうと言うのだ…。


私がこの世に降りたのは、そんな人間どもの円満とした心を、幸せを、笑みを駆逐するためだ。だが、この地位を保つ為にも私自らの手でそれを果たすわけにはいかない。何の罪もない人間に制裁を加えることは禁じられているからだ。私に出来ることは、人間の心に争いの欲を芽生えさせること、殺戮と略奪の、悲哀の涙を。と言ってもこれは私欲を満たすだけの暇潰しに他ならない。私の説く概念や真理には根拠や裏付けなど一切含まれてはいない。そう心得た上で私の事を見て貰えるよう願っている。




私は人間と同じ容姿に変わり、小さな公園にてその胸に邪心を抱く存在を探していた。丁度その時、ベンチに座る青年が目に入った。彼は他と比べると些か…いや大分恰幅の良い身体をしている。私には見える。彼の心は今、邪心に満ちている。彼なら私の赴く通りに動いてくれるに違いない。


「そこの貴方、どうされました?そんな暗い顔をして。」


「………はい?」


「どうやら何か悩んでいらっしゃる様子。宜しければ私が話を聞いて差し上げましょう。」


「………いや、良いッス。」


どうやら警戒しているようだ。本当は話したくて仕方がないくせに。胸の内を吐き出してスッキリしたいくせに。誰かを罵倒したいんだろうに。他を卑しめて自尊心を保ちたいんだろうに。私が求めているものを見せてくれ。罵詈雑言を聞かせてくれ。


「これは、誰かに話しても解決出来ない程の、重い悩みを抱えていらっしゃるようで。解りますよ、解ります。でも、ご安心下さい。私は貴方の悩みを解く事が出来ます。俄には信じていただけないでしょう。そうですね、何かお望みはありますか?」


「あんたが消えてくれれば嬉しいよ。」


「…容易いご用。」


そう言うと私は人間の目には写らない姿へと変わった。予想通り、彼は今起きた事実を疑うように周りを見渡している。


「信じていただけますか?」


「うわぁっ!?何処だ!?何処に居る!?」


「消えろと仰ったので、姿を消してみました。」


そして私は再び元の姿に戻った。所詮この程度の事で人間は驚くのだ。風景と同化するくらいならその辺の虫コロ無勢にでも出来るだろうに。そうして私は彼の信頼を得ることに成功した。




彼の名は白羽立矢。彼の話によると、その醜く豊満な容姿から周りの冷遇を受けており、世を嘆いていたところだそう。これは使える。


「簡単な話です。つまり、美しくなれれば良いのですね?」


「まぁ、そうなんだけど…。そんな簡単には無理だよ。」


「私には出来ます。信じていただけたんですよね?」


「まさか…、ホントに!?じゃあ、減らしてくれよ、僕の体重を!」


「…容易いご用。痩せるだけでなく、より美しくしてあげましょう。ただ、条件があります。ここから先は私も何の見返りもなく望みを叶えることは出来ません。」


「条件…。」


「はい、条件。交換条件です。私はあなたの望みを叶えます。その代わり、私に人間の苦痛、悲嘆、闘争を見せていただきたい。」


「…は?一体僕は何をすれば良いんだ?」


「簡単な話です。あなたが私の前で人を傷つけ悲しませ争いの種を撒き散らせば良いだけです。勿論、私も少しは協力します。」


彼は暫く黙りこくったまま何処か焦点の合わない虚空を見つめていた。恐らく彼は今まで一人ポツンと佇んでいた先の無い闇の中に一筋の光を見い出したのだろう。答えは火を見るより明らかだ。私の誘いを断る事はない。何を悩んでいるのだ…。


「人を傷つければ僕は痩せられるんだな…。カッコ良くなれるんだな…。でも、傷つけられた人はどうなるんだ?」


「そんな事、気にかける必要がありますか?」


「ありますか…って、僕は今までたくさんの人から傷つけられてきたんだ。」


「えぇ、ですからその怨みを晴らすと思えば良いじゃないですか。」


「いや、そうなんだけれど…。僕は人から傷つけられてきた。だから、傷つけられる側の気持ちが解るんだ。あの胸の中にズンと拡がる嫌悪感、絶望感。そんな感情に苛まれた時の表情…。そんなもの見ながら僕だけ幸せなんて考えられないよ。」


「さっきまでの非憤慷概する気持ちは何処へ行ったのですか?第一、貴方を傷つけてきた人達は、貴方の悲哀に満ちた表情を嘲笑っていたのですよ?」


「それでも…、人を傷つけて痩せるくらいなら醜いままでも良い。醜いままでも幸せになる方法はあるはずなんだ。」


「醜いままで良い…?醜いままでも幸せになる…?残念ですが、そんな方法はありませんよ。貴方は美しくならなければ一生不幸なままです。」


「お前の言い方だと、醜い者は幸せにはなれないって断言してるようだな。」


「はい、醜い者は幸せにはなれません。理由は明確です。仮に醜い者の心が清らかだったとしましょう。しかし、美しい者は醜い者を排他する。それは自然の摂理です。遺伝的弱者を受け入れられないのは生物学上致し方無いことです。すると醜い者は自分が醜い事を否定し始め、自分よりも醜い者を排他し卑しめようとします。後はもう醜い者同士の泥の擦り合いです。それではいつまで経っても幸せになんてなれません。この世界に生きた人間がこう言ったようです。


幸せとは奪い合うひとつのケーキだ


と。ある意味的確ですが、ある意味的外れです。実際は、架空上の存在しないケーキを醜い者同士が血眼になって探し奪い合い傷付け合い、そして駆逐されていき、そんな醜い者の滑稽な様をダージリンティー片手にケーキを食べ、談笑しながら見物するのが美しい者、それが現実です。」


「その理論だと、人間の幸せはある明確で共通な何かである事が前提だよな。でもな、人間の幸せは万人共通ってわけじゃないんだよ。人によって感じる幸せっていうのは違うんだよ。ほんの些細なこと、ちょっとした達成感や安心感で人は自分が幸せなんだと実感できるんだ。その時点でお前の論理は破綻しているな。」


「…立矢、私は愚かな人間が大嫌いです。私は貴方が話を理解できるほどの知力を持っていると信じているからこそ貴方と協力したいと思っています。ですから、私の言うことを良く理解してください。解らなければ二度くらいは説明して差し上げますが。人間の望む幸せとは間違いなく明確で共通なものです。それは他人を支配することです。言い換えれば優越です。人は本能的に他人よりも勝っていたい、優れていたいと願っています。それは野性動物にも言えることですね。群れのボスになりたい、他の仲間を支配下に置きたい。それこそが人間本来の潜在意識に秘められた幸せです。それ以外の幸せ…孫の成長を見守るだとか、温かい布団の中で眠るだとか、大切な人と一緒に居るだとか、そんなものは本当の幸せを諦めた者の言い訳、言わば代償行動に他ならない!!」


「…。」


「自分はトップには立てないから、そんな柄じゃないから、立てたとしても背後を狙われるのが怖いから…、立矢も今まで生きてきて経験あるでしょう、本当は高らかな願いがあるにも関わらず、自分で自分の現実を見極め、その願いを諦めてしまったことが。幼い頃からそんなことの繰り返しで、人は無意識に代償行動に走っているのですよ。解ってもらえますか?」


「あぁ、解った解った。解ったからもう良い。お前と話すことはない。一人にしてくれ。」


「構いませんよ。ただ、これだけは確かです。あなたが幸せになるには私の力が必要なのです。」


「煩い黙れ!今すぐ僕の前から消えろ!!」


私は静かにその場を離れた。まさか自分が目をつけた者がこんなに愚かな人間だとは…。私にはセンスがないのか。いや、憤慨したのは私の話を理解した上で、それが絶望的なまでに的確だったからだ。人間は図星な指摘を受けると怒り狂う習性がある。暫く様子を見るとしよう。




それから数日が過ぎた頃。不意に誰かが私に呼び掛けた。


「おい、居るんだろ。聞こえたなら返事してくれ。」


それは立矢の声だった。彼が悩みに悩んだ結果、やはり私の力が必要だと納得してくれたようだ。


「お前の言っていることが正しいとは思わない。だけど…、一概に間違っているとも言い切れない。それが今の僕の気持ちだ。だから、暫くお前を信じてみようと思う。」


「そのお気持ち、ありがたく受け取らせていただきます。」


「ところでお前…、え〜と、何て呼んだら良いんだ?」


「そうですね、私の事はaschtと呼んでください。」


「ア、アフ、アス…ん?」


「アシュトです。」


「あぁ、解った。」


私たち二人は私欲を満たすため、互いの力を差し出し合い協力することになった。立矢は私の指示に従うことを受け入れはしたが、やはりまだ誰かの心に刃を向けることを躊躇っていた。私はそんな彼の良心を優しく撫でるように手懐ける事に試みた。そして、大きな川に架かる橋の上を歩いているとき、ある好機が訪れた。


「おや、立矢、前を歩く者が財布を落としたようですね。拾ってあげましょう。」


「お?良いのかそれで?」


「良いのです。腕試しのつもりでどうぞ。」


立矢は私の指示に従い道路に落ちた財布を拾い上げ、再び私の方を見た。彼は軽く口を尖らせ、いかにも次はどうするんだと言わんばかりの顔をしていた。


「中身をごらんなさい。」


「うわっ、けっこう入ってるよ。これを盗めば満足するのか?」


「いいえ、持ち主を呼び止めてあげましょう。」


「それで良いのか!?」


「良いのです。小手調べのつもりでどうぞ。」


立矢が大きな声で呼び掛けると、財布の持ち主は振り返り、慌ててこちらに戻ってきた。そのタイミングを見計らい、私は立矢に指示を出した。


「えぇ!?お前、本気か!?」


「良いのです。肩慣らしのつもりでどうぞ。」


私がそう言うと立矢は、近づいてきた持ち主の目の前で手にした財布を川の方へ放り投げた。その瞬間、自分のミスで失いかけた光を取り返してくれた者への微笑みが、咄嗟に怒りと絶望の顔へと変化した。放っておけば失いかけていた物を、恰も目の前の他人に奪われたかのような責任転嫁、実に人間らしい思考回路だ。そんな愚かな人間は怒り狂ったようにいつまでも私達を罵っていた。


「寧ろ良かったじゃないですか、他人の手に渡ることにならなくて。速く追いかけないと見失いますよ?では立矢、行きましょう。」


私たちはそう言い放ちその場を離れた。立矢は歩き出してから何度となく後ろを振り向いていた。そう、まるで拾いきれない捨て猫に何度も繰り返し詫びるように。


「初めての指示は上手く行きましたね。気分はどうですか?」


「…あんまり。」


立矢は醜い身体のその内に秘めた珠のような純白な想いから自責の念に駆られていたようだ。だが、それも長くは続かなかった。




その日自宅へ戻ると、立矢はまるで踏み台昇降運動をするが如く体重計に乗り降りしていた。


「お、おぉ?おぉ〜、おほほぉ。おぉ!おぉぉ!お、おぉ?…」


「…立矢?」


「おぉ…、5キロも減ってるよ。凄いなぁ…。」


「今の気分はどうですか?」


「悪くないね。」


私は確かな手応えを感じた。初めは私利私欲の為に他を犠牲にすることを躊躇っていたが、いざ利潤を手にした途端その快楽に溺れ他を気遣う気持ちが薄れてしまう。そうして人は少しずつ自分の心から思いやりの念が失われていくことに気付かないまま次の利潤を求めるのだ。立矢もまた着実に感じられる自分の利潤に歓喜し、その後は自らの意思で人の不幸を招いていった。

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