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屋上の少女  作者: 風之
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2-10 涙の理由

 「あ……」

 入院している楓の病室の中。楓の視線と視線が自分の視線をぶつかり、翔太は何を言えばいいかわからず固まってしまう。

 二人の間にしばらく沈黙が漂う。翔太は病室に入ったままの状態で、楓は読みかけらしい本を膝の上に置いたまま、翔太を見つめた状態で。

 何か言わなければならない。しかし何を言えばいいのか翔太には思い浮かばない。昨日の屋上での事がフラッシュバックする。逃げ出してしまった楓。屋上にできた涙の跡。どうして楓は逃げ出してしまったのか。なぜ楓は泣いてしまったのか。それを訪ねるのか。違う。泣いてしまったのではない。泣かせてしまったのだ。翔太が言った一言で、楓は泣いてしまい、屋上を後にした。ならば、自分が言うべき言葉は一つのはずではないか。

「か、楓」

 まるで初めてその言葉を発音するような、そんなぎこちない発音で翔太が呼びかけると、楓の肩がびくりと震えた。

 怖がらせてしまったか。

 しかし、そんなことでためらっていたら、いつまでたっても楓を泣かせたままになってしまう。

 翔太は大きく息を吸い、そして、頭を下げると同時にこう言った。

「昨日は、ごめん」

 頭を下げたことで楓が視線から外れ、その顔が見れなくなる。楓がどんな表情で今自分を見ているかは分からない。しかし、翔太は伝えなければならない事をそのまま続けた。

「昨日、僕の無神経な言葉で楓を泣かせちゃったから。だから、謝ろうと思って。実は、僕、何で楓が泣いたかまだよくわかってない。それでも、泣かせちゃったことは、楓に嫌な思いをさせたことだってわかるから。だから、謝ろうと思う」

 後半は言わないほうがよかったかもしれないが、ここでわかったような口を聞くよりも、楓に対して正直に今の自分の気持ちを伝えることのほうが大切だと翔太は思った。

「泣かせちゃった原因がわかってないのに、謝ったって意味ないって言われるかもしれないけど、でも、悪いことをしたと思ってる事は本当だから。ここで怒られてもかまわないし、無視されてもかまわないから、今の僕の気持ちをしっかり伝えようと思って。だから……」

「翔太」

 その呼びかけで、翔太の言葉は遮られた。翔太は思わず顔を上げる。それは、楓の声がどこか震えていたからだ。

 そして、それは聞き間違いではなかった。楓は、ベッドの上で、こちらに視線を向けたまま、目から涙を流していた。

「…ごめんね。翔太は、悪くない」

 涙をぬぐいながら、楓は首を横に振る。翔太はわけがわからず、また楓を泣かせてしまったのかと戸惑ってしまう。先ほどの発言に、何か言ってはいけない事があったのだろうか。

「か、楓。その…」

 翔太は何か言いかけるが、楓は首を横に振ってその言葉を遮った。翔太はどうしていいかかわからず、完全に困惑してその場に固まってしまった。ベッドの上で楓は泣いているが、どうしていいかわからない。翔太が謝ろうとすれば首を振り、何か言いかけても首を振る。一体自分はどうすればいいのだろうか。途方にくれる翔太だったが、そこで楓が涙をぬぐい、「ごめんね」と口を開いた。

「全部、私が悪いの。私が逃げ出しちゃったから…」

 そういうと楓は視線を落したまま、それでも涙は止まったようで、静かに話し始めた。

「昨日、翔太に部活に誘われて、とてもうれしかったの。そんなことされたの、初めてだったから」

 話し始めた楓の声は、もう普段と同じようなものに戻っている。それは振れれば壊れてしまいそうなはかなげで、しかし、どこか存在感のある声だった。

「でも、その誘いも断らなきゃなかった。私には、部活をする時間がないから」

 以前楓が入部を断った時も、そんなことを言っていた気がする。自分には、部活をする余裕がないからと。そういえば、あの時の楓はどこか淡々としていて、いつもの楓とは違った雰囲気を出していた気がする。いつもはただ静かにそこにおり、空気に溶け込むでもなく、しかし存在感を出し過ぎているわけでもない。無機質に聞こえるその声も、静かに、その場その場で感情を微妙に表現するような口調。しかし、あの時の楓は、まるで感情を押し殺したように、機械のように話していた気がした。

「前に、私にはお母さんがいなくて、今はおじいちゃんとおばあちゃんの家で住んでるって言ってたでしょ」

 楓と旅行に行った時、聞いた話だ。確か、父親が単身赴任で、祖父母の家に世話になっていると言っていたはずだ。

「おじいちゃんもおばあちゃんも、まだ元気なんだけど、家の中で一番若いのは私だから。お邪魔させてもらってるから、家事くらいはしなきゃいけないし、学校の勉強だってしなきゃいけない。その上部活をしている余裕なんて、今の私にはないの。でも、翔太に誘われたら、私、我慢ができなくて」

 ギュッと、楓の手が布団を握りしめる。肩がふるえ、また泣きだしそうな顔をしたが、それでも楓は話すことをやめなかった。

「それ以上そこにいたら、私、断りきれる自信がなくて。だから、思わずあそこから逃げだして」

 シーツをつかむ楓の手に力が一層込められる。

「それで家に帰って、いつも通り、何とか家事をしてたらめまいがして、気づいたら、床に倒れてた。先生は、疲れがたまっていたのと、精神的な疲労が重なったって言っていた」

 そこまで聞いて、翔太は楓の気持ちを理解した。

 楓の中では、相反する気持ちが今戦っている。家に早く帰って、家事をしなければならない。しかしその一方で、部活もしたい。どちらかを取れば、もう一方はあきらめざるを得ない。そんな時、どちらを選ぶべきか。お世話になっている身として、楓は家事をあきらめることなどできなかったのだろう。

 しかし、翔太が昨日、屋上で自分の気持ちを言ってしまったことにより、楓の気持ちを大きく揺らいだ。本当は火事ではなく、部活動を選びたかったのだ。楓も卓球部に入り、楽しく学校生活を送りたかったのだろう。しかし、それはできない。だからあの場から逃げ、翔太の言葉からも逃げ、何とか自分の気持ちを抑えようとした。そのまま家に帰ったところで、緊張の糸が少しだけ緩み、たまっていた身体的な疲れと、精神的な負担に耐え切れず、楓は倒れたのだろう。

 しかし、だからと言ってこれは翔太に解決できるような問題でもなかった。楓のおじいさんたちに、楓が部活に行けるようにしてくださいなどとは、いくらなんでも言えない。だからと言って、楓の気持ちの葛藤をどうにかしてあげることもできない。できることと言えば、楓が少しでも部活の事を考えないよう、翔太のほうから部活の話題には触れないようにすることくらいだ。

「ごめんね、心配かけて」

 そんなことは、と言いかけて、翔太は思わず言葉を止める。

 

 楓が、泣いていたからだった。


 部活に行きたいという気持ちと、おじいさんたちに迷惑をかけられないという気持ち。考えてみれば、楓が今の気持ちを打ち明けたところで翔太には何もすることができない。悪い言い方をすれば、むしろ、翔太にどうしようもないことを押しつけて、負担を増やしてしまうような話の内容だった。それがわかっているからこそ、楓は今までそのことを翔太には話してこなかったのだろう。

 しかし、そんなことを言っていられないくらい、楓は負担に耐え切れなくなったのだろう。倒れてしまったことからもそれはわかるし、何より翔太に自分の気持ちを打ち明けたのがいい証拠のように思えた。おそらく、楓の中では、誰かに話さなければもう耐えきれなかったのかもしれない。打ち明ければ相手が困ってしまうということを知りながらも、その気持ちを自分のなかだけにとどめておくことはできなかった。だから、翔太にはどうすることができないと知っていても、話さずには居られなかったのだ。

 しかし、そんな楓の気持ちを知ってしまったからこそ、翔太は楓のために何かしてあげたいと思った。何とかして、楓に部活をやらせてあげたい。何とかして、楓の負担を減らしてあげたい。翔太は必死に頭を使い、何かいい案はないかと考える。自分が楓のためにできること、目の前の楓の涙を止める方法を。

 そうして、一つの案が、翔太の中に生まれた。

 突拍子もなく、無茶苦茶で、それでも、これくらいしか自分にはできない。すごく単純で、根本的な解決策にはなっておらず、なおかつ上手く行く可能性も低い。それでも、自分にできることは、やりたかった。できるかできないかなど関係なく、とにかく、やるしかないんだと、そう思った。

 だから、無茶だろうがなんだろうが、翔太は口を開いていた。

「僕が、楓を手伝いに行くよ」

「………え?」

 泣いていた楓が、涙をぬぐうのも忘れて顔を上げる。その顔ははかなげで、まだ涙でぬれていたが、その目は驚いて翔太に向けられていた。

「僕が、楓の家に行って、楓の家事を手伝う。正直、家事なんてそんなにしたことないから、初めのほうは足手まといになるかもしれないけど、いろいろ覚えるように、頑張るからさ」

 翔太は楓に言う。楓は翔太が何を言っているのかわからないといったような表情だったが、それでも翔太は続ける。

「楓のおじいさんたちにも、俺から行って、手伝いに行けるようにするからさ。ずうずうしいかもしれないけど、それでも俺、楓の負担が減らせるように頑張るからさ。だから、楓も部活に来なよ」

 話すうちに、はたして本当に上手く行くのか、疑問が強くなる。しかし、ここで自分が不安な顔をすれば、この案に対して楓を消極的にさせてしまう。この案しか思いつかないのであれば、何が何でもこの案を通すしかないのだ。そう考え、翔太は内心の不安な思いを表情に出さないように努めて明るく続ける。

「部活の間ずっといろっていうわけじゃない。家事があるなら早引きしたって構わない。そこは僕が大海先輩たちに掛け合うから。もし早く帰らなきゃいけないなら、俺も早引きして楓を手伝うから」

 楓の望みを、願いを、かなえて上がるために。楓が自分に、居場所を与えてくれたように、今度は、翔太が楓に新たな居場所を与えるために。そのために、翔太は言葉を紡ぐ。楓に、手を差し伸べる。

「だから、楓も我慢しなくていい。入部して、一緒に部活しようよ」

 最後は、自分ができる限りの、とびきりの笑顔で。

 翔太が言い終えた病室に、再び沈黙が降りる。先ほどの翔太の言葉が反射しているような錯覚さえ覚えてしまうほど、物音一つしない沈黙。翔太の言葉を黙って聞いていた楓は、表情一つ動かさずに、翔太のことを無言で見つめていた。

 やがて、ゆっくりと、楓が口を開いた。しかし、その口から言葉は出てこない。喉に何かがつっかえて、上手く言葉が出ないかのように、楓は一瞬戸惑った表情になる。そのまま声を出せないような赤ん坊のように、口を開き、閉じを繰り返しているうちに、楓の目から、再び涙がこぼれおちた。

「か、楓?」

 翔太があわてて楓に駆け寄る。それでも楓は、必死に声を出そうとし、その口が、ようやく、言葉を発した。

「ぶ、部活に、行きたい」

 涙で震えるその言葉を発しただけで、楓は顔を伏せてしまい、あとは泣くばかりとなってしまった。翔太は楓の言葉の意味がわからず、おろおろしてしまう。結局翔太の提案に賛成してくれたのか、反対なのか。それともわけがわからず、単に自分の言葉を発しただけなのか。

 おそらく、校舎だったと思う。

 だから、翔太はそれ以上声をかけることもなく、優しく、楓の頭をなでた。触れた髪の毛は予想通りさらさらした手触りで、しかし気を抜くと一瞬で壊れてしまうほどはかなげで。だから、翔太は優しく、なんども、なんども楓の頭をなでた。楓は嫌がることもなく、翔太にされるがまま泣いているだけだった。

 どれくらい、そうしていただろうか。翔太の耳に入ってくるのは、廊下をあわただしく行き来する看護師さんの足音と、楓の泣き声だけ。その泣き声が、ゆっくりと小さくなっていき、やがて止まったと思うのと同時くらいだった。

 コンコン、と、扉をノックする音がした。

 翔太はあわてて楓から離れ、楓もあわてて涙をぬぐってから、はい、と返事をする。スライド式の扉が開かれ、複数の足音が病室に入ってきた。誰が入ってきたのだろうと翔太が目を扉に向ける。

 そこには、一組の老夫婦と、夏目先生がいた。


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