2-9 病室
今日は部活、休みなさい。
安奈にそう言われ、翔太は夏目から聞いた市立病院へと急いだ。部活のための服には着替えていなかったから、荷物をひっつかんで、文字通り体育館を飛び出す。自転車置き場から自転車にまたがり、学校近くの駅まで全力でペダルをこぐ。普通ならば自転車で五分ほどの距離を、わずか二分で駅に到着した翔太は、そのまま改札口を駆け抜けた。切符はもともと通学用に買っておいた回数券を使う。ホームに到着してから、十秒と待たずに電車がホームにやってきた。焦る気持ちに急きたてられながら、翔太は電車に乗り込んだ。
夏目先生の話では、楓が入院したのが昨日の夜。なんでも家で倒れたので、救急車で病院まで運ばれたとのことだった。大したことはないから心配しなくてもいいと、夏目先生は言っていたが、翔太の感覚では、倒れて大したことがないですむはずがない。昨日楓を泣かせてしまったことや、あって何を話すのかとか、そんなことは翔太の頭から消え去っていた。とにかく、一刻も早く楓に会いたかった。
二駅目で電車を降りた翔太は、市立病院目指して全速力で走る。息が苦しくなるのがわかるのに、足をとにかく前へ前へと送りだす。一歩でも早く、一歩でも先へ。
五分後、翔太は市立病院の入口の前に立っていた。膝に手をつき、肩で大きく息をし、肩にかけていた鞄を地面に投げ出して、息が整うのを待ちながら、翔太はある一つのミスを思い出していた。
(やばい。楓の病室の番号聞き忘れた)
これでは病院に入っても意味がない。そういえば夏目先生は楓が入院している事を知っていたのだから、楓の病室も知っているかもしれない。夏目先生の携帯番号は知らなかったが、安奈の携帯番号ならば知っている。安奈を経由して夏目先生に病室番号を聞けばいいと考え、ポケットから携帯電話を取り出した時だった。
「よお、遅いぞ。なんでそんなところで立ち止まってる」
正面から声をかけられ、翔太は下に向けていた顔を前に向ける。そこには、夏目先生が学校にいるような服装そのままに立っていた。
「せ、先生、いたんですか」
「まあな。それより、早く行くぞ」
だるそうに、夏目先生は翔太に背を向けて病院の中へと入って行ってしまう。翔太はあわてて鞄を肩にかけると、夏目先生のあとに続く。
「あの、楓は大丈夫なんですか?」
夏目先生に追いついたところで、翔太は勢い込んで尋ねる。その慌てふためいた翔太とは打って変わって、夏目先生はどこかけだるそうに答える。
「安心しろ、ただの貧血だ。思春期の女子にはよくあることだ。それほど問題じゃないよ」
夏目先生が言うのだから、間違いはないのだろうが、それでも翔太の不安は完全にぬぐい去れない。そんな翔太の様子を見て、夏目先生は面倒くさそうにため息をついた。
「少し疲れがたまって貧血で倒れることなんてよくあることなんだよ。まあ、あいつの場合は精神的な疲れもあったらしいが、とにかく、今は元通り元気だ。大事を取って今日はもう一日入院するが、明日の朝には退院して、学校には来る予定だ」
「そ、そうですか」
最後の言葉を聞いて、少しだけ翔太は胸をなでおろす。予想していたよりも重症ではないらしい。
「だが、さっきも言ったように少し精神的な疲れもあったようだ。その疲れの原因を取り除かない限り完全な状態の退院とはいかないかもしれないけどな」
少し不吉な言葉に、翔太は再び夏目先生を不安げな目で見つめる。その視線を受けて、ま、と夏目先生はどこまでも態度を変えずに気軽に続けた。
「詳しいことは本人から聞けばいい。精神的な負担は、そんなに気にすることもなくお前が何とかできる部類だ」
言葉の意味が理解できず、翔太は問いかけるように夏目先生に視線を投げかけるが、それ以上夏目先生は何も言わなかった。
そのまま、二人は無言で歩き続けた。市立病院はこのあたりでは一番大きい病院で、楓の病室までも少し距離があった。渡り廊下のようなところを通り、病棟をいくつか移動してから、エレベーターに乗り、五階まで登る。エレベーターから降りると、そこはもう病室が並び、ナースステーションがある、完全な入院専用の病棟だった。夏目先生に連れられるまま翔太は歩き、やがて一つの部屋の前で立ち止まった。
「この中に、清泉がいる」
夏目先生が示したのは、一つの病室をカーテンで区切ったものではなく、一つの病室を一人で使うタイプのものだった。
「それじゃ、俺は廊下の端にある待ち合い場所にいるから」
「え…?」
立ち去ろうとする夏目先生に、翔太は思わず声を上げる。ん? と夏目先生は足を止めて翔太を見た。
「なんだ? もう清泉の病室はわかったからいいだろ」
「いや、そういうことじゃなくて…」
ここまで来て、翔太の頭の中には昨日の屋上のことがよみがえっていた。昨日泣かせてしまったばかりだというのに、病室に入って何を話せばいいのかわからない。しかし、そのことを夏目先生になんと言ったらいいものか。迷っていると、夏目先生は面倒くさそうにため息をついて頭をかいた。
「まったく、お前と言い清泉といい、面倒くさいやつらだ。ほら…」
そう言って夏目先生は楓の病室の前に立ち、その扉をノックする。
「清泉、相田が来たから入るぞ」
「え? ちょ……!」
翔太が何か言おうとした時には夏目先生は扉を開け、翔太の背中を病室の中に押し込んでいた。
「じゃ、終わったら待ち合いに来いよ」
そう言い残して、夏目先生は扉を閉めていった。まさに電光石火。翔太は何もすることができず病室に取り残された。
振り返り、病室から逃げだそうとも思ったが、病室の中にいる楓にはすでに見られている。ここで出ていっては、あとが余計に入りにくくなる。翔太はしばらく扉を見つめて固まっていたが、やがてゆっくりと振り返り、病室の中に視線を移した。
病室は広く、壁の隅にはテレビと小物をしまうらしき棚。窓はあけられており、白いカーテンが風に揺らめいていた。内装は白ではなく、薄いベージュの壁紙が貼られている。
そして、病室の真ん中には、大きなベッドと、白い布団をかぶった楓が、上半身を起こしたままでこちらを無言で見つめていた。