2-7 不安
最近にしては珍しく、短期間更新です。
卓球の試合があった日から、ちょうど十日。翔太はいつも通り、弁当箱を手に屋上への階段を上っていた。
「自分の気持ちはしっかり伝えないと、離れていっちゃうものもあるのよ」
頭の中では、安奈が試合の日に言ったその言葉が響いていた。結局、翔太は楓に、自分の気持ちを伝えられないでいた。
部活に来てほしい。ただ一言そういうだけだというのに、そのことがなぜだか翔太には言えなかった。その理由がなぜなのかもよくわからない。楓に拒否されることが怖いのか、楓に自分の気持ちを押し付けることに罪悪感があるのか。ただ、部活に誘った日以降、楓とは部活に関する話は一切していなかった。そもそも楓と何か話すこと自体少ないのだが、それでも楓が部活に来て日から一カ月弱。一度もその話が出ていないのも少し不自然な気がした。なんだか、楓がその話題を避けているような、わざと口にしないようにしているような、そんな雰囲気があるのだ。
そんな状況も手伝って、翔太は結局安奈のアドバイスを実行できないでいた。いっそ、このままでもいいのかもしれないと思うときもあるが、翔太の気持ちが伝わっていないために楓が入部しないのだとしたら、やはりつて得るべきなのでは、と考えることもあるのだった。そんな葛藤を抱えたまま、翔太は今日も屋上への扉をあける。そこにはいつも通り、楓が一足先に弁当を開いていた。
扉を開けた翔太を、楓はちらりと見る。翔太は手をあげて挨拶をしてから、楓の横にいって腰を下ろした。楓の隣にいれるのはうれしい事なのだが、最近は少しだけそれに抵抗を感じるようになってきた。それは心の片隅に引っ掛かっている安奈の言葉が、ここにいると少しだけ痛むからだった。何とかして自分の気持ちを伝えなければと思う気持ちと、本当にそれはいいことなのかと悩む気持ち。二つの間に板挟みになって、翔太はどこか気まずい思いをしていた。
そんなことを考えていたからだろう。いきなり楓に話しかけられ、翔太は肩を少し震わせた。
「ねえ」
「な、何?」
少しだけ緊張もしてしまう。ただ話しかけられただけのことなのだから、緊張するのはおかしなことだ。そう思って内心の緊張が収まりかけた翔太だったが、楓の次の一言でまた緊張感が高まった。
「何か、悩み事でもある?」
「…え?」
楓はまっすぐ、翔太の目を見て問いかけてきた。翔太は何と答えていいかわからず、しばらく固まる。楓は視線を外さないまま、さらに続けた。
「なんだか、最近表情がよくない気がしたから」
どこまでもまっすぐ見つめてくる楓の視線には、翔太を気遣う気持ちが見て取れた。しかしその悩みを正直にこの場でいってしまってもいいのか、それともなんでもないと黙っておくべきなのか。心の中で悩む翔太だったが、その時ふと気がついた事があった。
「楓、もしかして寝不足?」
楓の目の下に、薄くだが隈ができていたのだ。白い肌にうっすらとできているそれは、少しだけ化粧がしてあってごまかしてあるようだった。
「うん、ちょっと、昨日寝れなくて」
そういって楓は視線をそらす。どこか見られたくないものを見られた、そんな様子だった。その様子が翔太の気持ちに拍車をかけて、余計心配になる。しかし、楓の次の言葉で翔太はそれどころではなくなった。
「私より、翔太は大丈夫なの?」
「え?」
再びまっすぐこちらに視線を向けて話しかけてきた楓に、翔太は返答に窮してしまう。正直にいうべきか、いわぬべきか。
「…………」
三十秒ほど、沈黙が流れた。楓と翔太だけの時間が止まったかのように、無言で見つめあう時間だけが続いた。
「その、楓は…」
やがて、ゆっくりと翔太の口が動いた。楓は無表情でひたすら翔太の言葉を待っている。耳の奥で鼓動の音が大きく聞こえる。その鼓動の音にかき消されて、次に口から出てきた言葉を、翔太は自分自身でもしっかりと聞き取れなかった気がした。
「やっぱり、卓球部には入りたくない?」
「……」
楓の瞳が、ゆっくりと大きく開かれた。その表情は、驚いた時のものだということを翔太は経験で知っていた。やはり質問するのはまずかったか。すぐに後悔して、翔太は楓から視線をそらす。
「ごめん、忘れて。変なこと聞いちゃったね」
楓の顔が見れない。翔太の心の中にはただ申し訳ないという気持ちが渦巻き、楓の顔を再び見ることはできなかった。おそらく楓は嫌な顔をしているだろう。一度入部を断ったのだから、楓の意志は明白だ。にもかかわらず、自分はまた勧誘するようなことを口走ってしまった。やはり、自分の気持ちを楓に伝えようとするべきではなかった。
「翔太は」
ふと、隣の楓からそんな言葉がかけられる。翔太がおそるおそる楓のほうに顔を向けると、弁当を見つめてうつむいたままの楓がゆっくりと言葉を続けた。
「私に、卓球部に入ってほしい?」
恐る恐る、確認するような声。その答えを、聞くのを恐れていそうな声。そんな楓に、翔太は、何と答えるべきか迷ってしまう。正直に伝えるべきか、伝えぬべきか…。
『自分の気持ちはしっかり伝えないと、離れていっちゃうものもあるのよ』
迷う翔太の頭の中に、安奈の言葉が聞こえた。翔太は唾を一つ飲み込んでから、再びゆっくりと口を開く。
「僕は、できたら楓に、入ってほしい」
絞り出すように、ゆっくりと出てきた言葉が、何もない屋上に響いた気がした。強い風が吹いて、楓の長い髪の毛が舞い、顔を隠してしまう。うつむいていてただでさえ見にくい楓の顔が完全に隠れてしまった。
風は、すぐに止まった。しかし、乱れた髪の毛のせいで楓の表情は依然隠れたままだ。楓は翔太の言葉を聞いてから微動だにせず、その気持ちをうかがい知ることも出来ない。どうしていいのかわからず、翔太が思い切って声をかけようとした時、楓がスッと、弁当箱のふたを閉めた。中身はまだ半分ほど残っている。驚いて声をかけようとする翔太だったが、楓はお構いなしにさっさと食べかけの弁当箱を片づけてしまう。
「か、楓?」
やっと翔太が声を出せたのは、楓が弁当を片づけ終わり立ち上がるのと同時だった。そのまま何の返事もせず、楓は屋上の出口へと走り出してしまう。翔太はあわてて立ち上がろうとしたが、それより先に楓は屋内への扉をくぐってしまっていた。
「楓!」
二度目の呼び掛けには、返事の代わりに階段を下る音だけが聞こえてきた。一人屋上に取り残された翔太は、何が何だか分からず、どうしていいかもわからないまま、途方に暮れてしまう。とにかく楓を追いかけなければと思い弁当を片づけようとしたところで、ふと楓が座っていた場所に目がいった。
そこには、晴天にも関わらず、三、四敵のしずくの跡が残っていた。