No.8 甘い罠
紅の騎士団本部の客室『桜』には、窓から朝の光が差し込んでいる。
華は鏡の前で髪を整えていた。
「よしっ。今日もお手伝い頑張ろう!」
服を整えて、小さく気合いを入れたその時、部屋のドアがノックされた。
「はーい!」
華がドアを開けると、そこに立っていたのは、見たことのない男だった。
どこか飄々とした雰囲気の青年。
「朝早くにごめんな?」
「え……?」
「俺、アールグレイっていうねん」
華は少し戸惑いながら言う。
「あ、えっと……初めましてですよね?」
「せやな。話はダージリンから聞いてるで?……華ちゃんやろ?」
「は、はい」
アールグレイは少し声を落とし、大袈裟に周りを確認した。
「俺な、ちょっと華ちゃんに話したい事があってな」
「話したい事……?」
アールグレイは軽く手を振る。
「そんな警戒せんでも。華ちゃんは、元の世界に帰りたいとは思わへんの?」
「……え?」
突然の言葉に、華は固まった。
頭の中に浮かぶのは、元の世界。
会社では、終わらない残業に上司の叱責。
そして、同僚の女の子にバカにされる日々。
(また社畜の仲間入り……)
胸の奥が少し重くなるが、家族の顔が浮かんだ。
「……」
華はゆっくり顔を上げ、
「家族がいるので、帰れるなら帰りたいですけど……」
と、少しだけ言葉が詰まった。
「この世界も……忘れられないです」
アールグレイは黙って聞いていた。
そして、ふっと笑う。
「そっか。実はな華ちゃんがおった森に、神秘の泉ちゅうもんがあるんやけど」
「神秘の泉……?」
アールグレイは頷く。
その泉はただの泉やなくて、1つだけ願いを叶えてくれる泉なんや」
そう言ってアールグレイは、指を一本立てる。
「……!」
華の目が大きくなる。
「……まぁ、昔話やけど」
「神秘の泉……」
「まぁ噂やから、ほんまもんかは分からへんけどな?……行ってみたらどうや?」
華は迷った。
もし本当なら、元の世界に帰れるかもしれない。
「でも……」
ダージリンに聞いてからの方が安心かもしれない。
するとアールグレイは手をひらひら振った。
「ダージリンには、俺から伝えとくわ〜。行くか行かへんかは、華ちゃん次第やで?……ほな、待たな〜」
そう言って、廊下を歩いて行った。
華はその背中を見送る。
「……よし。1度確認してから、決めよう」
華は小さく頷き、急いで部屋を飛び出した。
その頃、本部の外へ続く廊下で、アールグレイは一人、ゆっくり歩いていた。
足を止め、そしてくすっと笑う。
「……純粋やなぁ」
窓の外を見ると遠くには、あの森が見える。
「神秘の泉、ねぇ」
小さく肩をすくめ、
「そんなもん、あるわけないやろ」
低く呟いた。
あれは、ただの嘘。
華を一人にさせるための罠だった。
アールグレイの口元が、ゆっくりと歪む。
「さぁて、どう動くんやろな」
静かな廊下に、彼の笑い声が小さく響いた。
華はアールグレイから神秘の泉の話を聞いたあと、飛び出すように本部を出た。
向かう先は、あの森。
「……ちょっと確かめるだけ」
自分に言い聞かせるように呟く。
森に入ると、相変わらず不思議な光景が広がっていた。
お菓子の木に、クッキーのような葉、キャンディの実。
「……やっぱり夢みたい」
華は草をかき分けながら奥へ進む。
神秘の泉は、本当にあるのだろうか。
「どこなんだろう……」
その時、華の視界の奥に何かが見えた。
「……あれ?」
木々の隙間の向こうに、教会のような建物が建っていた。
白い壁、高い塔に、そして、光を受けて輝くステンドガラス。
「……綺麗」
思わず見とれ、華はゆっくり近づく。
教会は静かに森の奥に佇んでいた。
「こんな教会で結婚式するの、夢だなぁ……」
華がボソッと呟いたその時、ドアの方を見る。
「あれ?」
扉には、奇妙な模様が描かれていた。
円や線が重なった、魔法陣のような落書きがある。
「なんだろ……」
華はそっと手を伸ばし、ドアに触れようとしたその瞬間、背後から声が響いた。
「女神様!」
「っ!?」
華が振り向くと、そこには黒いフードを被った男達が一人、二人、三人……。
全部で五人立っていた。
「え……」
男達がゆっくり近づいてくる。
「貴女の方から、我々に逢いに来てくださったのですね!」
「……!」
初日に追いかけ回された男達だった。
「え、いや……ち、違います……私……」
男達が取り囲み、華にはもう逃げ道はない。
フードの男達の奥から、一人の男が歩いてくる。
ディアナだった。
フードの奥の目が、狂気に輝いている。
「さあ、我々と共に参りましょう!」
ゆっくり手を差し出し、ディアナのその声は喜びに満ちていた。
「……!」
怖い。あまりにも怖い。
華はどうも、足が動かない。
(誰か……助けて……)
華が恐怖で目を閉じたその瞬間、鈍い音がし、フードの男の一人が地面に倒れた。
「……?」
フードの男達全員が振り向く。
そこに立っていたのは、黒の騎士団の団長、ブラックだった。
「おい」
倒れた男の横に立ち、冷たい声で言う。
「何してんだ」
フードの男達がざわつくが、ブラックはゆっくり華の方へ歩く。
華の腕を掴み、そして自分の後ろへ引き寄せた。
「下がってろよ、お前は何もするな」
華は震えながらブラックの背中を見る。
森の中で、静かな緊張が張り詰めていた。




