09.深夜決行
夜の気配が濃厚になり、誰もが寝静まっているであろう深夜。
ぱりん、と小さな音をたてて、部屋の結界が破られた。ノクスの指先ひとつで。
「ようやく余の出番であるというのに……。壊すのは、この脆い結界だけか?」
「今はまだ、ね。頼りにしているわ。行きましょう」
少々不満げなノクスと共に部屋を出て、廊下へ一歩足を踏み出した瞬間、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
結界を過信しているのか、幸いにも見張りはいなかった。
白亜の回廊は、壁沿いに等間隔で設えられた魔法灯の柔らかな光に照らされている。細かな彫刻が施された柱が遥か上方まで連なって伸びているが、天井は高く、夜の闇に呑まれていてはっきりと見えない。
ほんの数時間前、ルシエルと歩いたばかりの場所なのに、不気味な雰囲気が色濃く影を落とす。
それは夜が深まったからなのか、それとも隣を歩くのが神官ではなく、悪魔だからか。
なるべく音を立てないように、しかし足早に長い回廊を進む。そうしてあっさりと、大聖堂の前まで辿り着いた。
目的地はこの回廊の奥、居住区の更に最奥にある、神官長の部屋。
陽が昇れば、誰にも咎められずに神官長に接触することは困難だ。持ち出した金貨入りの袋が、腕の中で持ち替えるたびにじゃり、と鳴った。
居住区へと足を踏み入れようとした、その時。
夜の静寂の中に、何かが床にぶつかるような鈍い音が響いた。
驚いて足を止め、振り返って見るけれど、そこに人の姿はない。
音がした場所からは、少し距離があるようだった。扉を隔てた向こう側──大聖堂の中。
きっと中にいるのは……。
先を急ぐべきなのはわかっている。でも。
一瞬生じた迷いを振り払い、重い扉に手をかけた。
厳かで、張り詰めた空気が満ちる大聖堂。
まっすぐに伸びた通路の先、祭壇の前で、横たわる人物の修道服が、蝋燭のぼんやりとした灯りの中に浮かんでいる。
通路を中ほどまで進めば、人形のようだったリーネの、苦痛に歪む表情が窺えた。
苦しそうに浅い呼吸を繰り返す彼女をただじっと見詰めていると、ノクスが不思議そうにこちらを覗き込んできた。
「あの神官のように、駆け寄って介抱してやらぬのか?」
「そんなことをしたって無意味でしょう。医者でも聖女でもない私には、彼女を助けることはできないわ」
「では何故、ここへ足を踏み入れた?」
「………………」
…………そう。時間は限られている。
ここで足を止めている場合ではないけれど……。
「ノクス。彼女の状態、どう思う?」
ノクスがふむ、と顎を触る。
「なかなか興味深い」
「……それって?」
「弱った魂を、聖女が半端に癒したのであろう。誤魔化すように蓋をして、上辺だけは綺麗に繕っているが、内部で淀みが溜まり、逃げ場を失った魂が変容している。言うならば……呪いに似た姿へ」
「呪い…………」
なるほど。その表現は、妙にしっくりくる。
「リーネを完全に治すことはできないのかしら。聖女も手こずった病……それも、今は呪いのように変貌してしまったのよね。破壊が専門の悪魔に、魂の救済は荷が重い?」
挑発するように問うと、ノクスはむっとした様子で即答した。
「魂への介入は、余の得意分野だ。人間にできて余に出来ぬことなど、あるはずもなかろう」
「それじゃあ……!」
「治せ、と? 何故? 聖女の真似事か?」
ノクスの率直な疑問に、ぎくりとした。
────おまえも、偽善者のつもりか。
そう、言われた気がして。
「…………そう、かもしれない。私……」
ぽつり、と話し始めると、過去の光景が鮮やかに脳裏を過ぎった。
「リーネを見ていると、昔の自分のようで耐えられないのよ。私も、死んだように生きていたことがあった」
かつて、シリウスの婚約者として。
王子妃教育が始まり、徐々に追い詰められた。
できないことばかり指摘され、優秀な第一王子の婚約者と比べられて。
声をあげて笑うことも、泣くことも許されない。
王城に通い詰めて、忙殺されて、家に帰っても教育の進捗具合を確認される。
何のために頑張っているのかわからなくて、ゴールの見えない毎日で、でも逃げ出せなくて、心がすり減っていったあの頃。
────そんな時だった。
シリウスが、笑いかけてくれたから。
身分や立場でなく、私自身を見てくれたから。
本当に些細なことだった。
好きな茶菓子は何かと聞いてくれて、何気なく話した知識について凄いね、と褒めてくれた。毎日頑張っているね、と認めてくれた。
たったそれだけのことで、私の世界は色付いた。
特別な力なんて使わなくても、確かに私は、シリウスに救われたのだ。
それは私にとって、聖女の「奇跡」よりも尊い。
リーネが過去の自分と重なって、だから助けたい?……いや、そうじゃない。
「………………違う」
自然と、口から否定の言葉が零れ落ちた。
「偽善なんかじゃない。私は、聖女に負けたくないだけよ……!」
「ほう。聖女への当てつけか?」
「何とでも言うがいいわ。私は聖女のように正しくない。リーネを利用して、聖女の実力不足を証明する。物理とは違う方法で、この歪んだ世界を壊してやるわ……!」
ノクスの口角が、ゆっくりと上がる。
「…………面白い」
蝋燭の炎が、不自然に燃え上がった。
ノクスの足元から影が伸びて、大聖堂の床を這う。
床だけではない。壁も、遥か頭上の天井までも。
全て、真っ黒な影で覆い尽くされた。
月明かりさえも遮られた大聖堂で、蝋燭の炎だけがゆらゆらと不気味に揺れる。
その真ん中で、ノクスの瞳が妖しく光った。
「この者の魂を縛っている歪みを余が喰らい、形を与える。よいな?」
なんて物騒で残酷な物言い。
悪魔に魂の救済を持ちかけたこと自体、そもそもおかしな話だったのだけれど。
「余の魔力が介入するからには、この者は二度と聖女の奇跡の結果として生きることは叶わぬ。そしてその代償がどのようなものになるかなど、余には預かり知らぬこと」
突き放すようなその内容に、思わず怯んだ。
そもそも私は、生きたかっただけ。
成り行きで悪魔と運命共同体になってしまっただけでも大変なのに、これ以上誰かの人生なんて背負えない。
返事ができずに視線を彷徨わせると、否応なしに床に倒れるリーネの姿が目に入った。彼女の姿は、今にも蠢く影に呑み込まれそうになっている。
薄らと開かれた目と目があう。
苦しそうに息を吐くその口が、微かに助けて、と形作った。
…………気のせい、だったとしても。
このまま見過ごせば、リーネは一生罪を背負い、壊れたまま生きていく。
ノクスを見上げて、はっきりと声をあげた。
「望むところよ。この世界で私は、悪役令嬢。存分にその役を演じてみせるわ……!」
ノクスが満足そうに目を細める。
そして影が一斉に、リーネ目掛けて襲いかかった。




