21.絶体絶命
穀物地帯の向こう側。
公爵邸の上空に、黒い柱が噴き上がるのが見えて。
音は遅れて届いた。どん、という鈍い音が鼓膜を揺らす。
「瘴気…………爆発」
嫌な予感が、最悪の形で的中した。
「なんだあれは……!?」
「瘴気です! 大量の瘴気が噴出しています!」
「すぐに転移しましょう!」
慌ただしく神具を掲げようとした聖女の腕を、しっかりと掴む。
「……セラフィーナ様?」
「私も行くわ」
「いい加減にしろ!」
怒鳴ったのはシリウスだ。普段の冷静さを欠いた声。
「今は緊急事態だ。これから向かう先には、私たちですら経験したことのない濃度の瘴気が溢れている。近付くだけで命を落とす可能性のある場所だと、わかっているのか!」
「だからこそ、ですわ」
シリウスの言うことは正しい。何一つ間違っていない。
でも、私だって引き下がるわけにはいかないのだ。
「瘴気の噴出は、私の屋敷……公爵邸で起こっているのです。責任がありますわ。私も、行きます」
シリウスの瞳が揺れる。拒絶したところで私が大人しく従う性格ではないことを、彼は知っている。
小さく息を吐き、聖女へ視線を送った。
「…………わかりました」
聖女が頷いて、両手を胸の前で組み合わせる。
聖女の祝福。瘴気から守ってくれる優しい光が、私たちの体を包む。
「皆さんを守ります」
続いて、神具『黎白の巡礼灯』を掲げた。白い光が地面を走り、道のように伸びて魔法陣を描く。
光が弾けて、視点が反転した。
◆◇
はじめに感じたのは、息苦しさ。
煙の中に飛び込んだように、視界は灰色に霞んでいる。
そこは紛れもなく、カントリーハウスの敷地内。けれど屋敷の外壁は剥がれ、庭園は原型をとどめていない。
──そして。
敷地の一角は大地が大きく削れ、巨大な穴が口を開けていた。そこから大量の瘴気が、噴水のように噴き出している。
空を黒い靄が雲のように覆い、陽の光を遮って薄暗い。
「…………これは…………」
シリウスが言葉を失う。
一目見ただけで絶句するほどの酷い有様だが、それ以上に。
空気が重い。皮膚が、肺が、瘴気に焼かれる。
聖女の祝福を受けていなければ、きっと一瞬で気を失っていた。……いや、死んでいたかもしれない。
「浄化します!」
聖女が前へ出る。
それを、慌てて遮った。
「だめ!!」
全員の視線が一斉に私へと集中する。
「無理に押し込もうとすれば、更に強い反発がきます。今度は別の場所が破裂するかもしれない。もしそれが、王都だったら?」
「……馬鹿なことを。聖女の浄化は、瘴気を消すもので……」
「消えていない! だからここから噴き出したんです。殿下ももう、気付いているでしょう?」
シリウスが言葉に詰まる。
わずかに逡巡し、眉根を寄せた。
「では、どうする?」
「穴を閉じます。……私が」
そう言って、一歩踏み出す。たったそれだけで、ぐっと息が苦しくなる。
「やめろ」
シリウスの手が、私の腕を掴んだ。
「これ以上近付くな。君に何ができる? 死ぬ気か?」
視線が交差した。シリウスの瞳に、侮蔑も嫌悪も見当たらない。
この人に触れられたのは、いつぶりだろうか。負の感情が混ざらない、まっすぐな目を向けられたのは、いつぶりだろうか。
「…………シリウス様」
思わず名を呼んでいた。婚約していた頃のように。
「まだ、私の心配をしてくださるの?」
零れたのは、純粋な質問だった。
嫌われて、軽蔑されて、処刑されるのも当然だと思われていると、そう思っていたから。
私の言葉に、シリウスははっとしたように手を離した。
後悔しているみたいに、顔が歪む。
「試したのか? ……私の気を、引くために? そんなことのために、君は命をかけようとしたのか?」
「…………そんなこと、ね」
シリウスの言う通り。
私は──セラフィーナ・ベルナールは、何よりもシリウスの愛を欲した。嫉妬に狂い、悪魔に魂を売ろうとした。
シリウスのためならば、命なんて、ちっとも惜しくなかったのだ。
────けれど。
「生憎私、そんな駆け引きができるほど器用ではございませんわ」
目を見張り、何かを言いかけたシリウスに背を向ける。
一歩、二歩。
穴に近付くたび、全身に痺れと痛みが走る。
構わず足を進めると、穴のふちにきらりと光る何かが見えた。
「……あった!」
そこに引っかかっていたのは、鎖。
私が繋いだ何本もの聖鎖はちぎれ、穴のふちに刺さったまま、ゆらゆらと揺れている。
ここに神具『星環の聖鎖』はない。
でもあの鎖は、確かに私が繋いだものだ。
だからきっと……いや、絶対に、できるはず。
手を伸ばし、鎖の端を掴んだ。
高濃度の瘴気に直接手が触れて、じゅ、と嫌な音がした。
激しい痛みに、頭の中が真っ白になる。
しかしそれは一瞬のこと。唇を噛んで悲鳴をあげるのを我慢したら、もう感覚はなくなっていた。
指先が、手の甲が、腕が、順にどす黒く変色していく。
「セラフィーナ!」
背中からシリウスの声が追いかけてくる。
振り返らない。
今はただ、強く念じるだけ。
──もう一度、繋がれ──と。
鎖が震えた。応えるように、手の中で光が強くなる。
一本、また一本と鎖を手繰り寄せて。
ちぎれた端同士を重ねる。祈るように、縫い合わせるように。
そしてもう一度、穴を塞ぐ。
「うっ……!」
瘴気が鎖を通して流れ込む。
液体のように重く、粘ついている感覚。掴んだ鎖を伝い、腕へと這い上がってくる。逃がすまいと絡みつくそれは、生き物のようだった。
指先から腐り落ちていくような錯覚に、視界が揺れる。
思考が霞んで、頭の奥で警鐘が鳴っている。今すぐ手を離せ、と。
一度目に穴を塞いだ時よりも、ずっとずっと苦しい。
それでも。
震える息を吐き出して、鎖を引いた。ぎり、と金属が鳴る。
私の思いに応えるように、銀の線が空中を駆けた。
ばちん、と音を立てて互いに絡み合い、穴の上で網を編んでいく。
巨大な縫い目のように。裂けた世界を閉じるように。
「瘴気が……鎮まってきている……」
魔道士が呟いた。
────あと少し。
ぐ、と鎖を引き寄せた、その時。
穴の内部が、大きく脈打った。
何かが、────来る。
「……!!」
瞬間、瘴気が爆ぜた。
黒い奔流が噴き上がり、身体が吹き飛ばされる。
それでも手を離さなかった鎖に繋ぎ止められ、私の体は穴のふちに留まった。
体があちこち痛い。
顔を顰めながら、視線を上げた、その先。
穴のふちが崩れて、黒い影が持ち上がる。
巨大な角。裂けた翼。砕けた鱗。
地の底から現れたのは────。
「ドラゴン……!?」
倒したはずの巨体だった。
濁った赤い目が、ぎょろりと倒れた私を見下ろしている。
「……っ、危ない! 下がれ、エリシア!」
シリウスが聖女を庇って後ずさった。
私の腕を掴んで止めようとしたその手は、もう私の方へは伸ばされない。シリウスの目には、私のことなど見えていない。聖女を守ることしか考えていない。
「……ふふ」
こんな時なのに、笑みが零れた。
とうにわかっていたはずなのに。
ドラゴンを前にして絶体絶命。
これは走馬灯だろうか。これまでのことが、脳裏に次々と浮かぶ。
いつだって私は救われない。正しい者たちの外側だ。
いつだったか、聖女の真似事だと言われたけれど。今私がやっていることも、きっとそうだ。
…………本当に、馬鹿馬鹿しい。
私は選ばれなかった。狂おしいほど愛した人に。
それなのにどうして戦っていたんだろう。
このまま放っておけば、世界は望み通り壊れるだけなのに。
聖女に負けたくないと息巻いたって、はじめから負けは決まっていた。
────そう、これは私が望んだことだ。
ドラゴンの喉の奥が、赤黒く光る。
攻撃が、来る。
恐怖からか、それとも諦めからか。
身動きもとれずに、ぎゅっと目を閉じた。
「伏せよ」
響いたのは短く、低い声。
…………私は、この声を知っている。
次の瞬間、轟音と共にドラゴンの巨体が何かに押し潰されたかのように地面に伏せた。
そしてドラゴンの頭の上には、世界を滅ぼすラスボス悪魔の姿があった。




