16.背信行為
屋敷に到着して。まずは応接室に通したルシエルのもとへ来るようにと、すぐにリーネを呼んだ。
そのためにルシエルは来たのだろうし、私が彼にできるお礼なんて特にないので、せめてこれくらいのことは、速やかに叶えてあげるべきだと思ったのだ。
ノクスの体調を心配し、ずっと沈みがちだったリーネの表情は、兄の姿を見るなりぱっと明るくなった。
「お兄様!」
リーネが笑ってくれて、私も嬉しい。
ルシエルもまた、リーネの笑顔を噛み締めるように頷いた。
「元気そうだな、リーネ」
「はい! こちらでお世話になってからというもの、毎日とても充実していて、本当に幸せです……!」
幸せの根底にあるものがノクスによる故意の介入であるという事実を考えると、大変複雑な心境ではあるものの。リーネの笑顔に曇りはなく、言葉通り幸せそうで何よりだ。
そしてルシエルも、何が思うところがあったようで……。
ほんの少しだけ、瞳の奥に隠していた迷いを断ち切るように、私の方へと振り向いた。
「ノクス様に、会わせていただけないでしょうか」
「…………。えっ!?」
思わず素っ頓狂な声が出た。
────あの夜。
ルシエルがノクスに向けた、強烈な怒りを思い出す。
リーネの魂を喰らった憎らしい悪魔に対して、『ノクス様』と呼ぶだなんて……。
一体何を考えているのかわからなくて、妙に穏やかに微笑むルシエルが恐ろしくて、じわり、と不安が胸に広がっていく。
ノクスと一度対峙したルシエルは、悪しき魔力が彼のものだと知っている。
ならば私と同じように、瘴気が濃くなったのもノクスのせいだと思い至っているはずだ。
会わせてほしい、だなんて。
それもノクスが弱っている、今。
「…………会って、どうするつもり?」
「話をさせていただきたいのです」
「そんなの……っ!」
嘘だ。
今度こそ、ノクスを手にかけるつもりなのかもしれない。
ノクスは最強だ。でも、今。今だけは……。
「わかりました。ノクス様のお部屋はこちらです」
「リーネ!?」
言葉を詰まらせた私のかわりに、リーネは応接室の扉を開けた。動揺する私をよそに、まっすぐにノクスの眠る部屋へとルシエルを案内する。
…………どうして。
リーネは絶対に、ノクスを危険に晒すような真似はしないと思っていたのに。
それとも悪魔の洗脳よりも、兄妹愛というものは勝るのか。
「待って! リーネ、やめなさい!」
私の制止も虚しく、二人は足を進める。
とうとうノクスの部屋の前まで辿り着き、リーネは躊躇いなくノックをすると、ドアノブに手をかけた。
わずかに軋む音を立てて、扉が開く。
半分カーテンの閉まった部屋。窓から射し込む昼の光が、床を四角く切り取っている。
ベッドの上で半身を起こしたノクスが、不機嫌そうにルシエルを見据えた。その瞳に覇気はなく、弱体化していることを隠し切れていない。
「……ノクス様」
ルシエルが名を呼ぶ。その声に、あの夜の剥き出しの敵意はない。
────けれど。
「……っだめ!」
反射的にノクスを背にしてルシエルの前に立つ。
あの夜、こうして彼の背中に守られた。
私にはノクスのように、圧倒的な力はないけれど……。ルシエルを殺そうとしたノクスを止めたのも私だ。ノクスを必ず守る、と。あの時、そう約束した。
「それ以上、近付かないで」
私とルシエルの視線が交差する。
私はきっと、焦りと恐怖とで、情けない顔をしているだろう。
ルシエルは一瞬驚いたように瞠目した後、ふっと目を細めた。そしてその場に片膝をつくと、頭を下げた。
「先日のご無礼をお許しください。ノクス様、それに……セラフィーナ様、とお呼びしても?」
「……………………。は!?」
一体どういうことなのか。どうして急に、謝罪?ついていけない。
「あなた様方に危害を加えるつもりは毛頭ございません。リーネの魂を真実救ってくださったノクス様には、恩義を感じておりますので」
憑き物が落ちたように、ルシエルは晴れやかな顔をしている。
────だからといって、こんな手のひら返しを安易に信じられるはずもない。
「信じられない、というお顔をしていらっしゃいますね」
「当たり前でしょう……! 誰が見ても、あなたは聖女を盲信していたわよ」
「ごもっともです。では、こちらを」
ルシエルが懐から何かを取り出した。立ち上がってノクスの前へ歩み寄り、それを両手で差し出す。
「どうぞ、お納めください」
ノクスは黙ったまま受け取り、確かめると、満足そうに口角を上げた。
それが何なのか、一泊遅れて理解して──。
息が止まった。
「ほう。神具か」
「ええ。『星環の聖鎖』です」
────盗まれた神具のひとつ。
それが今、ここにある。
では、それを神殿から持ち出した犯人は────。
「…………ルシ、エル。あなた……!」
震える声に反応し、ルシエルがこちらを見る。
その笑顔には、とても神に仕える神官には似つかわしくない、暗い影がさしている。
絶対的正義の側だったルシエル。
彼もまた、悪魔を前に堕ちたのだ──と、理解する。
でもそれは、神官である彼には絶対に起こらないことだと思っていた。
神具を奪おうとした張本人である私がとやかく言える立場でもないが、聞かずにはいられない。
「悪魔に神具を渡せば、どういうことになるか……。聖女を、世界を……守れないかもしれないと、わかってやっているの……?」
ルシエルは笑みを崩さない。
「愚かな私はかつて多くのものを背負って、そして守り切ることができませんでした。だから今は、本当に大切な人の笑顔さえ、守れればいい」
そう言って、リーネに視線を移す。
リーネは優しく微笑んでいる。何もかも、最初からわかっていた、というように。
「世界なんて知りません。あの聖女の力は紛い物で、ノクス様こそ妹を幸せにしてくださいました。ですから私は、神よりもノクス様に全てを捧げると誓ったのです」
いっそ清々しい表情でそう語るルシエルは、洗脳なんてされていないはずなのに、リーネと同じくらいヤバい目をしている。
この人と決めたならばどこまでも、というヤンデレ気質の真髄を見た…………。
ノクスは神具の鎖を指で弄びながら頷いた。
「よかろう。そなたも余の配下として、存分に働くがよい」
「恐悦至極に存じます」
ノクスの信者がまた一人増えた。
味方は多い方が喜ばしいはずだが、素直に喜べないのはどうしてだろう。
呆然とする私の方へとノクスの視線がすっと滑って、途端に眉を顰めた。
「…………そなた、余が直々に与えたものをどうした」
「え? ……ああ、髪の毛?」
「まさかなくしたのではあるまいな? この余が、授けたものを」
「なくしてないわよ。ちょっと媒介に使わせてもらったの。それで、まぁ……灰になって消えちゃったんだけど」
「…………何?」
ノクスの影がほんの少しだけ、ゆら、と揺れた。
…………怒っている、絶対。
「仕方なかったの。魔獣に襲われたのよ。でも、あなたの髪のおかげで結界を張ることができたわ。ルシエルが助けてくれなければ、危ないところだったけど」
「セラフィーナ様はとても勇敢でした。馬と護衛を、見事に守っておられました」
「……そうだわ! ノクス、髪の毛をまた十本くらいくれない? とても頼りになるお守りだったから」
とてもいいことを思いついた、と手を打ったのだけれど……。
部屋の温度が、一気に下がった気がした。
「ならぬ」
ノクスの低い声が落ちた。私を見据えるその瞳には、はっきりと怒りが滲む。
「余の体が完全に回復するまで、そなたは一歩も外に出るでない。余がそばに居らぬ限り、外出を禁ず。絶対に、だ」




