14.守護御守
瘴気に侵された牧草地を前に、街道に佇むのは私一人だけ。
────何かがこちらに向かって来る。
背中にじっとりと嫌な汗が滲む。
倒れた護衛たちは顔色悪くぐったりとしていて、ぴくりとも動かない。瘴気の影響なのかもしれない。
でも、だとしたら。どうして私だけが…………?
握りしめた拳の中で、ノクスの冷えた指が絡みついたように、左の小指だけがひやりとした。そこに巻き付いているのは、彼の細く黒い髪で。
…………ああ。そうか、と理解した。
私は今も、彼に守られている。
魔獣の咆哮が再び響き渡った。
先程よりも大きい。近付いている。
魔獣もまた、瘴気に当てられている。
凶暴化──つまり興奮状態にあり、人や動物を襲うのだ。
動けるのは、私一人。ただし戦う術はない。
護衛と馬を見捨てれば……。馬車の中にでも身を隠せば、私だけなら助かるかもしれない。今はとにかく、自分の身を守らなければ。
────でも。
ノクスの魔力を宿した髪が、指を締め付ける。ここだけ氷のように冷たい。
目の前にいる者も助けられず、目を背けようとしている私が、ノクスのことを守れるだろうか?
絶対的正義である、あの聖女から。この世界の理に反する、悪を。
「…………っ逃げない! ここで逃げたら、悪役としての矜持に反するわ……!」
とうとう魔獣の姿を目の端にとらえた。
牧草地の奥、藪の中から迫り来る。
魔獣と対峙することなんて、もちろん初めてだ。
それほど体の大きくない、狼に似た魔獣。まっすぐこちらに向かって来る。黒い毛並みは煤けたように濁り、正気を失ったような目は焦点も定まらないまま鈍く光る。
恐怖で足がすくむ。心臓がうるさい。
剣を振るったこともなければ、魔法も使えない。私は、無力だけど。
急いで護衛の腰から短剣を引き抜き、自分の指を切った。滲んだ血を、ノクスの髪に垂らす。
そのまま血の付いた剣を地面に軽く刺した。私たちの周り、ぐるりと一周線を描く。
かつて私は、山のような書物を読み漁った。
知識だけはある。執念で悪魔召喚をやってみせたほどの。
大した魔力がなくても、悪魔を召喚できるし、簡単な魔法の真似事だってできる。準備と、媒介になるものさえあれば。
魔道士でない私がそれをするには、本来、地面に複雑な魔法陣を手書きで描くという面倒な準備が必要だ。もちろん今、そんな時間はない。
魔獣はすぐそこまで迫っていた。
「ノクス……頼りにしているわ」
それでも今の私には、悪魔召喚で入念に準備したあの時よりも、強力な切り札がある。
ワイバーンの鉤爪やドラゴンの鱗よりも、ずっと強力な媒介。世界最強の魔王の髪の毛。
小指をぎゅっと握り締める。
「守護の結界、発動せよ……!」
ふいに周囲の音が遠のいた。
私の足元から、黒い紋様がじわりと滲み出していく。それはまるで、影のように。円を描き、幾何学的に絡み合い、地面に刻印のように広がっていく。
黒い紋様が一斉に立ち上がった。
地を這っていた影が、壁となって空間を覆う。
半透明の漆黒の膜が、私と倒れた護衛、馬を包み込んだ。
────瞬間、魔獣が飛び込んで来て。
凄まじい衝突音が耳に刺さった。
魔獣の体が結界に弾かれ、火花のように黒い靄が散る。
小指に巻いた髪が、じり、と焼ける匂いを放った。
「……ひ……っ!」
恐怖のあまり悲鳴が漏れて、膝が震える。
結界の発動には成功した。
疑う余地もないほど禍々しい、ノクスの魔力に守られている。
でも、終わりじゃない。
魔獣は再び体を起こし、地面を蹴る。
今度は弾き飛ばされないよう、体を低くし、爪を立てる。結界を引き裂こうと、叩きつけてくる。
何度も、何度も。
ノクスの髪は、もう半分以上が灰に変わっていた。
「耐えて……!」
衝撃で結界が軋む。振動が足元から伝わってくる。恐ろしくて、膝が折れそうだ。
私の願いも虚しく、ノクスの髪が残らず灰となって燃え尽きた、瞬間。
結界がひび割れた。音もなく、漆黒の膜に大きな亀裂が走る。
その隙間に、魔獣の爪がくい込んだ。
「…………!」
結界が砕け、闇が霧散した。
隔てるものがなくなった至近距離で、魔獣の濁った目が私を捉える。
思わず後ずさりそうになって、留まった。
────逃げない。そう決めたから。
手にしたままだった短剣を、一か八かで構える。手の中で柄が滑るのは、私の汗か、血か。
血濡れになる覚悟を決めて、剣先を魔獣へ向けた。
────その時。
光が差した。
まるで夜明けのように、淡く優しい光。
次の瞬間、一直線に走った白銀の閃光が、狼の体を横薙ぎに貫いた。
それは見覚えのある、光の槍で──。
魔獣が地面を転がる。
その体は黒い靄となり、静かに地面へと吸い込まれていった。
魔獣が消え去って、命が助かったのだと実感して。
安堵のあまり、力が抜けた。無意識のうちに息を止めていたのか、急に呼吸が荒くなって、その場にへたり込む。
…………そして。
「よく耐えましたね」
振り返ると、曇り空の下でも輝く、光を集めたような金の髪。その下で、優しさに溢れる瞳が柔らかく細められた。
「恐ろしかったでしょう。でも、もう大丈夫です。頑張りましたね」
じんわり涙が滲んだ視界の中。労わり、そして確かに認める言葉をかけてくれたルシエルが、神の使い──天使様に見えた。




