13.不協和音
数日ぶりの公爵領は、重苦しい空気の中に沈んでいた。
瘴気の影響は日毎に増し、怪我人の報告は後を絶たない。幸い領内で死者はまだ一人も出ていないが、このままでは時間の問題だろう。
瘴気は人や動物に対し害になる反面、魔獣を凶暴化させる。
発生原因は不明で、対処方法は聖女の祈りによる浄化のみ。
この広い世界でたった一人、聖女しか対応不可という恐るべき詰み設定をぶち込んだゲーム開発者がうらめしい。
公爵家のカントリーハウス。
私の私室の隣に用意させた部屋で、ノクスはぐったりとベッドに横たわっている。
図らずも聖女の祝福を受けてしまった後。
倒れたノクスはすぐに目覚めたものの、明らかにダメージを負って弱体化している。
………………私のせいだ。
ノクスを守ると言ったのに。
神殿という、最も危険な場所に足を踏み入れた。その時点で判断を誤っていたのだ。どんな手を使ってでも、回避すべきだった。
そもそもノクスと出逢ったその瞬間から、私は自分の命の心配ばかりしていたけれど。
ノクスを召喚した張本人は私で、一方的に呼び出され、帰れと言われても帰れず、挙げ句このままだと死ぬから契約を見直せと勝手を押し付けられた彼は、どう考えても被害者だ。
偉そうだし発言内容は人でなしだし脅迫してくるけれど、ノクスはいつだって私の言葉に耳を傾けてくれたし、納得の上で従う姿勢を見せてくれた。
私はノクスに甘えすぎていたし、頼りすぎていたのだろう。
もしもあの時、ノクスが聖女の祝福で消えてしまっていたら……。
私はまた、一人きりだった。
「ノクスの具合はどう?」
付きっきりで献身的に看護を続けるリーネに声をかけると、彼女は小さく頷いた。
「日に日に回復されています」
「…………そう。それならいいわ」
ベッドのそばまで寄り、ノクスの顔を覗き込む。
覇気のない魔王は、ただの絶世の美男だ。
このカントリーハウスの使用人たちも、角を隠して連れ込んだノクスのことを、お嬢様がその容姿を気に入り囲った愛人、程度にしか思っていない。彼らの視線に滲む好奇や侮蔑は、見ないふりをしている。
凝視しすぎたのか、ノクスが不快そうに眉根を寄せた。
「……不覚。あの聖女と余の魔力が、かくも相性が悪かったとは。だがこの程度、問題はない。哀れむような顔で余を見るでない。そなたの方こそ、二度と起き上がれぬ体にされたくなければな」
脅しているつもりなのか、ノクスの影がわずかにちょろりと浮き上がったものの、すぐに力なくへたりと地面に落ちた。
ますます皺を深くするノクスの眉間に、小豆を入れてつくったホットアイマスクを被せてあげる。
「あなたはお昼寝でもしていてちょうだい」
「……む……。温い」
そう言って、影もノクス本人も大人しくなった。湯たんぽを気に入っていたから、他のあったかグッズもきっと喜ぶと思ったのだ。
乙女ゲームの世界だけあって、食べ物は私の知る前世と変わらない。和菓子もあるので、ちゃんと小豆も存在するのだ。……アイマスクなんてつくったのは、きっと私が初めてだろうけど。
「領内の視察をして来るわ。留守番は頼んだわよ」
静かになったノクスのかわりにリーネに声をかけると、心配そうにベッドの上のノクスと私を見比べている。
「まさか……セラフィーナ様お一人で、ですか?」
「護衛はつけるし平気よ。公爵家の人間として、動かない訳にはいかないもの」
領内の様子は、父も当然把握している。
この状況下、神殿へ聖女による浄化を依頼しているのは間違いない。
我がベルナール公爵家を無下に扱うとは考えにくいので、未だ聖女がここに現れないのは、余程王都周辺も逼迫した状態なのか……。
何にしろ、ベルナールを名乗る身として、せめて今現在の領内の様子をこの目で見て、正しく知ることが必要だ。ここには私しかいないのだから。
部屋を出ようとして扉に手をかけた私の背中に、ノクスの声が降ってきた。
「待つがよい」
アイマスクをしたままのノクスは、リーネに何かを手渡した。
受け取ったリーネが「失礼します」と私の左手を取ると、何かを指に巻き付ける。
「…………何、これ」
小指に、黒く細いものが結ばれる。多分ノクスの髪の毛だろう。
「もしかして、私を呪おうとしてる?」
「お守りです」
リーネがにっこり笑った。
厄除けどころか、厄を寄せ付けそうなビジュアルだが、リーネの笑顔の圧に負けて、「ありがとう」と返した。
そして、再びベッドの上のノクスに視線を戻す。
瘴気の影響は大きく、聖女頼みの現状。
なんとかして欲しいのは山々だが、一方で、領内を広範囲で浄化されようものなら、ノクスへの影響も心配だ。
…………板挟み。
公爵令嬢として、領地と領民を一番に考えるべきなのだろうけれど。
でも、私が誰よりも守らなければならないのは、ノクスだ。
「…………ノクス。行ってきます」
どうすべきか答えは出ないけれど、確かめるように左手の小指を軽く曲げ、静かに扉を閉めた。
◇◆
屋敷からもほど近い、西部の牧草地。
本来ならば、街道沿いにのどかな風景が広がるその場所。
ところがここ最近、普段は森の奥に生息する魔獣が、何度も目撃されている。被害は家畜数頭、更に負傷者も三名。
曇天の下、様子を見るため馬車を降りると、なんだか空気が淀んでいるように感じられた。
霧のような煙のような、目に見える異変があるわけではない。それでも、体に違和感がまとわりつく。これが瘴気なのだろう。
護衛として連れてきた公爵家の私兵も、警戒感を滲ませながら周囲を見回している。
「お嬢様、長居は危険です」
「そうみたいね……。戻りましょう」
肌を撫でる風さえ、不快に感じる。瘴気の存在を思い知るには、このわずかな時間でも十分だった。
不穏な空気に満ちたこの場所に長居する気など、とても起きない。
街道に停めた馬車へ向かう私の後ろで、一人の護衛が頭痛を堪えるように、額を押さえた。
馬車に戻ると、既に馬の様子がおかしかった。
瘴気の漂う街道を走り続け、いち早くその影響を受けてしまったのだろう。なんだか元気がなくて、立っているのがやっとなようで、とても車室を引けるとは思えない。
「困ったわね……。少し距離があるけど、馬だけ連れて、歩いて帰るしかないかしら?」
馬の様子を窺いながら護衛たちに問うものの、返事がない。
不思議に思って振り返ると、護衛たち──つまり私以外の全員が、その場に倒れていた。
「………………。嘘でしょ?」
呟いた言葉が、虚しく落ちる。
いつも都合良く頼っていたノクスは今、ここにいない。護衛も地面に伏して、守ってくれる人は誰もいない。
────私、一人。
馬が悲鳴のように嘶き、前脚を折った。
嫌な風が吹き抜けて、立ち尽くす私の耳に、低く濁った魔獣の咆哮が響いた。




