【閑話】神官ルシエル
妹が──リーネが、笑った。
陰りのない満面の笑みを見るのは、いつぶりだろうか。
病に倒れて以降、リーネはいつだって謝っていた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
「私のせいで、いつもごめんなさい」
ベッドから起き上がることもできず、一番辛いのはリーネ自身なのに。
リーネに元気になって欲しかった。
罪悪感など感じることなく、生きて欲しかった。
病さえ治れば、体が動くようになれば、それは叶うと信じていた。
けれど実際はどうだっただろう。
聖女様に救われたはずのリーネは、変わらず懺悔を続けていた。感情を表に出さなくなり、形式的な言葉しか口にしなくなり。
────それでも。
これが聖女様の「奇跡」の結果だ。
リーネはいつ死んでもおかしくない病状だった。それが命の心配をせずに生きられるようになったのだ。
だからリーネは幸せなのだと。
間違いなく聖女様に救われたのだと、自分に言い聞かせてきた。
『今の彼女が幸せだと思うなら、目を逸らさずに俯かずに、堂々と笑っていればいいわ。二度と被害者面しないで』
セラフィーナ・ベルナール。
あの時の彼女の言葉は、痛みを伴って胸に刺さった。
大聖堂の扉が開いて、彼女と忌まわしき悪魔が出て行くのは気付いていたが、振り返ることができなかった。
神のために存在するこの神殿で、あんなものをうろつかせておく訳にはいかないと、わかっているのに──。
動けずにいる私の前で、リーネは閉まった扉を名残惜しそうに見詰めている。
「ああ、ノクス様……。行ってしまわれました」
呆けたように呟いたリーネは、明らかに悪魔に魅了されている。
魂を喰らうばかりか、精神まで支配するなんて、なんておぞましく残酷な生き物だろう。
「リーネ、目を覚ませ! おまえは騙されているんだ」
必死にかけた言葉。
だがリーネは、心底不思議そうに首を傾げた。
「何を言ってるんですか? 私はちゃんと、目が覚めましたよ?」
「…………何を…………」
「聖女様が私のために祈ってくださったあの時から、私はずっと眠っていたような気がします。あたたかい光に包まれて、楽になれると思ったのに、なんだかぎゅうっと縛られているように苦しくて、ずっと誰かに責められている気がして……」
思い返すように目を伏せたリーネが、顔を上げる。
「深い眠りの底で、死んだ方がマシだと何度も思いました」
────死んだ方がマシ。
心臓を抉られたような衝撃だった。
リーネの幸せを、ただ願っていた。それだけのはずだったのに……。
どこで、間違えた?
「でも、ノクス様に救われたんです。ノクス様こそ、私の魂を解放してくださった、偉大なる大魔王様です」
悪魔について語るリーネの表情は恍惚としていて、とても正気とは思えない。
けれど同時に、その目はキラキラと輝いていて、ひどく生き生きとしている。
────生きている。
命も危うかった妹が、確かにここに生きている、と。
初めてそう実感した。
謝罪ではなく感謝を口にするリーネに、誤魔化しようのない歓喜が湧き上がる。
けれどこの感情は……神と、聖女様を冒涜するもの。決して抱いてはならない。
「リーネ、それは……。神と聖女様への裏切りだ」
今度は冷静に。
聞き分けのない子どもに言って聞かせるように、しっかりとリーネの目を見つめ、そう諭す。
見詰め返すリーネの目はまっすぐだった。何の疑いも抱いていない、純粋な瞳。
「神が、聖女様が……。私に与えたのは、本当に救いですか?」
────その瞬間。
頭の中で、何かが音を立てて壊れた。
心の拠り所だったものが、何をおいても守るべきだったものが、唐突に色褪せる。
足場をなくしたように、自分が今どこに立っているのかわからない。支えにしていたものを失って、不安で胸が押し潰されそうになる。
リーネが憐れむようにこちらを覗き込んできた。
きっと私は今、ひどく情けない顔をしている。
「…………お兄様」
まだまだ幼いと思っていたはずの妹が、妙に大人びた顔で笑みを浮かべている。
優しく手を握り、まるで堕落へと誘うように甘く囁く。
「大丈夫です。神や聖女とは違う。ノクス様は、ちゃんと私たちのことを見てくださっています。私もお兄様も、赦されていい。ちがいますか?」
…………ああ、そうか…………。
私はずっと、赦されたかったのだ。
私の罪までその身に背負わされていた妹は、今は晴れ晴れとした表情をしている。
リーネに私ができる唯一の罪滅ぼしは、神への信仰を捨て、共に堕ちることなのかもしれない。
世界も聖女様もなかったことにした、私の罪。
それを正面から指摘し、非難したセラフィーナ・ベルナール。
私が今更罪を懺悔したならば、彼女は耳を傾けてくれるだろうか。
赦しを与えてくれるだろうか────。
脳裏に浮かぶ彼女のまっすぐな瞳が、リーネと重なって見えた。
きっともう、私は神に祈れない。
聖母のように穏やかな笑みを湛えたリーネの手を、そっと握り返した。




