10.暗中救済
漆黒の影が、音もなくリーネの体を包み込んだ。
神に祈りを捧げる祭壇の前で、神の奇跡が今、悪魔の手によって壊されようとしている。
神聖で厳かな空気に満ちていた大聖堂を、鳥肌が立つほど奇妙でおぞましい気配が支配する。蝋燭の炎が一斉に傾き、次の瞬間ぷつりと消えた。
暗闇が落ちた。
その中で、ノクスの影が蠢く気配がする。
視覚が遮られる中、耳が微かな音を拾った。
何かが引き剥がされる音。
胸の奥に絡みついた重く湿った糸が、無理矢理引きちぎられている。そんな音。
次いで、咀嚼音。
耳を覆いたくなるような恐ろしく残虐な音が響き渡る。
────これは救済ではない。
堪らず、縋るように掠れた声を絞り出す。
「…………っ、ノクス…………!」
返事はない。
けれどきっと、ノクスは笑っている。
その時だった。
闇の中に、一筋の光がさした。
入口の扉が外から押し開かれ、回廊の灯りが差し込む。
光を背負い、現れたのは神官──ルシエルだった。
部屋の結界が破られたことに気付いて私を探していたのか、それとも妹リーネを案じてやって来たのか…………。
どちらにせよ、最悪のタイミングだ。
ルシエルの瞳が驚愕に見開かれた。
薄暗がりの中、影と一体になった得体の知れない何かが、黒い塊にずぶずぶと手を突っ込んでいる。
それを目にしたルシエルの唇が、恐怖で震えた。
「…………悪、魔…………!」
憎悪にも似た声が響いて、それさえも愉しむように、ノクスの影が揺れた。からかうように伸び縮みしながら、やがて元の姿へ戻っていく。
覆っていたものが取り払われた大聖堂に、ようやく月の微かな光が注がれた。
そしてあらわになった黒い塊だったものが、横たわるリーネだと理解し、ルシエルの顔色が変わる。
「……っ! リ、リーネ!!」
ルシエルはリーネのそばへと慌てて駆け寄り、傍らにひざまずく。
目を閉じて静かに呼吸を繰り返すリーネの顔は、心なしか先程までよりも血色がいい。
まだ耳の奥にグロテスクな咀嚼音が残っているが、見たところリーネの身体に異常はなさそうだ。
そのことに安堵して、膝から崩れ落ちそうになる。
けれど辛うじて踏みとどまった。
ルシエルの敵意に満ちた目が、ノクスと、そしてその隣に立つ私を射抜いたからだ。
「リーネに何をした……!」
ルシエルの怒号が反響した。
過去一激しい怒りを向けられ、しかし私は困り果てていた。
なぜなら何をしてしまったのか、更にはどんな結果をもたらすことになるのか、リーネが目を覚まさない限り、私にもわからないからだ。
「やはり聖女様のおっしゃった通り……悪魔を召喚していたんだな。おぞましい……! リーネの魂を、その悪魔に喰わせたのか!!」
「やかましい人間だ。少々齧った程度で何を騒ぐことがある。命を奪ってはおらぬ」
やれやれと言った調子で、私のかわりにノクスが答えた。
それにしたって今悪魔ムーブをするのは、ルシエルの神経を逆撫でするだけなのでやめて欲しい。
しかし悪魔に空気を読む能力は備わっていなかった。
「だが歪みは根深く、喰らい過ぎたかもしれぬな。それもあの聖女の罪。半端な癒しほど始末の悪いものはない」
聖女──という単語が出た途端。
ルシエルの表情が狂気じみたものに変化した。
「悪魔が戯言を……! 聖女様は、救いを与えてくださる存在。罪など、あのお方に限ってあるはずもない……!!」
ルシエルが胸元の聖印を握り締めた。
同時に白い光が走り、床に複雑な魔法陣が展開される。
ゲーム内のバトルシーンで何度も見た、神官ルシエルの攻撃方法だ。
…………とはいえ、どう考えても正気ではない。
ノクスの隣には、生身の人間である私もいるのだ。魔獣討伐イベントとはわけが違う。
じり、と後ずさると、私の前に大きな影が立った。
庇うように立つノクスの体越しに、魔法陣から放たれた光の槍が、一直線に向かってくるのが見える。
「…………!!!」
声にならない悲鳴が漏れた。
光の槍が、一直線に迫る。
衝突する────。
そう思った瞬間、ノクスは、ただ片手を翳した。
ぱきり、と乾いた音が響く。
光の槍は、触れた先から砕け散り、白い粒子となって宙に溶けた。爆ぜることもなく、威力を振るうことすら叶わず、ただ消え失せた。
「……っ」
息を呑んだのは、私か、ルシエルか。
たった一撃。
それでもそれは、ルシエルの全力だったはずだ。
圧倒的な力の差に、茫然と立ち尽くすルシエルに向かって、余裕の笑みを崩さないノクスの影が、勢いよく襲いかかる。
悪魔の攻撃を受ければ、ひとたまりもないだろう。
ルシエルは青ざめたまま、動けない。
「やめて」
無意識のうちに、ノクスの腕を引いていた。
影がぴたりと動きを止め、彼は不思議そうに振り返る。
「何故? 余の姿を見られた。この者を殺しておかねば、そなたが困るのではないか? 聖女とも近しいのであろう」
「…………そうね。でも、死んだらそこでおしまいよ」
「無論。だからこそ、邪魔なものは消してしまえば良い」
「いつだってできるわ。今は、他に目的があるでしょう?」
金貨が入った袋を軽く持ち上げる。
袋を見下ろし、次いで私の顔をじっと見たノクスは、その黒い瞳をわずかに細めた。
「そなたの都合は忙しなく変わる。余には理解できぬ」
「私は人間だから。迷うし、心変わりもする。後になってこの選択は間違いだったと後悔するかもしれない。でもあなたのことは、何があっても私が必ず守るわ」
ノクスの表情は変わらない。
けれどその影は、音もなく地面に吸い込まれていった。
「…………まあ、よい。そなたの言う通り、殺すことは容易い。急ぐこともあるまい」
「ええ。……行きましょう」
「……っ、待て……!」
踵を返した私たちの背に、制止の言葉が追いかけてきて。
振り返ると、ルシエルがその顔を屈辱に歪めていた。
「情をかけたつもりか……! 善人ぶったところで、悪魔に売ったおまえのその魂が、醜く汚れていることに変わりはない!!」
私に向けられる、強い怒り。憎悪や復讐心。
…………ああ、私にもその感情に覚えがある。
そんなものに駆られて生き続けるのが正しいとは思わないけれど、死んだらおしまいだ。ここで終わらせてしまったら…………。
悪魔を召喚しながら、往生際悪く生き永らえようとした自分自身まで、否定してしまうようで。
「知っているわ。非難も復讐も、受けて立つわ」
ルシエルが一瞬目を見張り、再び口を開こうとした。
────その時。
「お兄様」
場違いなほど、無垢で可憐な声が響いた。
一斉に視線が集中したその先、祭壇の前に、リーネがしっかりと立っている。
その表情はどこか幼くあどけなく、苦しみや痛みを抱えているようには感じられない。
「リーネ…………!!」
「お兄様、ここは……神殿ですか? どうして私はここに?」
きょとんとした様子で尋ねるリーネには、人形のような不気味さも、背負った罪の存在も、そして直近の記憶もなさそうだ。
「何があったか、覚えていないのか? 体は…………! 平気か? 苦しくはないか?」
ルシエルに問われ、リーネはしばらく逡巡した後、花が綻ぶようににっこりと微笑んだ。
「ずっと苦しかったことは覚えています。辛くて辛くて、逃げられなくて。でも今は大丈夫。…………私は、救われたんです」
そしてルシエルの後方……こちらへと、視線を移す。
「大魔王ノクス様のおかげです」
リーネはうっとりと、陶酔したようにノクスを見詰めている。
…………あれは完全に、洗脳されているヤバい目だ。
ぶわりと鳥肌が立った。
「っノクス……! やったわね!?」
「せっかくなのでな。少々手を加えてやった。あの者は、魂レベルで余の従順な配下となった」
「…………悪魔!!!」
「いかにも」
ルシエルの背中がぶるぶると震えている。
彼は脳内でキレ散らかしているに違いない。
さすがにもう手に負えない。
そしてこれ以上足止めをされてはかなわない。
ルシエルが振り返る前に、ノクスを引っ張って慌てて大聖堂を後にすることしか、私にはできなかった。




