01.悪魔召喚
厚いカーテンを締め切った薄暗い部屋の中、床一面にびっしりと描かれた魔法陣がにわかに光を帯びた。
同時に魔法陣の中心で強い風が巻き起こる。続いて、空気がひび割れるような大きな音。
現れたのは、夜の闇を纏ったような長い影。
身につけているものは全て真っ黒で、しかしぞっとするほど端麗な顔の男。感情の読めない冷たい瞳が、人ならざるものの気配を感じさせる。何よりその頭で黒光りするごつごつした角が、人外だと激しく主張している。
…………やっちまったな。
儀式が成功したというのに、私の頭に浮かんだのは、そんな言葉だった。
脳内で何かが弾けたように、情報の波が押し寄せてくる。
前世の記憶。プレイした乙女ゲーム。悪役令嬢。悪魔召喚。聖女。そして、処刑。
思い出した。
────最悪のタイミングで。
目を見開いたまま動けない私と、立っているだけで禍々しい気配を放つ悪魔の視線がぶつかった。
そしてストーリーをなぞるように、悪魔が口を開く。
「余は悪魔ノクス。そなたの魂を差し出すならば、この世界を全て破壊し尽くしてみせよう」
空気を震わせる低い声に、ぶわりと冷や汗が吹き出した。
ああああ、間違いない。やっちまってる。
呼び出してしまった…………ラスボスを。
どうせ前世の記憶が蘇るなら、もっと違うタイミングがあったはず。
幼少期に自分が悪役令嬢だと気付けたなら、いくらでも人生を立て直せたのに。せめて、せめて婚約破棄を言い渡された時にして欲しかった。
よりにもよって、なぜ、どうして、今。
禁忌の儀式を行い、悪魔を呼び出した直後なのか。
避けようのない破滅が、もう既に目の前で口を開けている。
しかしここで黙っていれば、この先の未来はシナリオ通り。
悪魔はすぐに世界を破壊し始め、そして覚醒した聖女に討たれる。
────知っているのは、私だけ。
震えそうな体と声を抑えて、無理やりに笑みを浮かべる。覚悟を決めて、口を開いた。
「この度の召喚は、キャンセル願います。魂は差し出せません。どうぞお帰りください」
ぴりっと、空気が張り詰めた。
室内唯一の光源である蝋燭の淡い光が、ゆらりと揺れる。
表情を変えない悪魔が恐ろしくて、思わず発言を撤回して命乞いをしたくなる。膝をついて頭を下げそうになるのをぐっと堪えて、ただ前を見据えて返事を待つ。
悪魔が、ゆっくりと一歩前に出た。
影が伸び、私の足元に絡みつく。
気が付いた時には、顎を掴まれていた。悪魔の指先はひやりと冷たくて、背筋が粟立つ。
「儀式は成立している。悪魔を呼び出す人間の望みは、総じて破壊。難儀な悪魔召喚を実行しておきながら、余に帰れと申すそなたの望みは?」
至近距離で見る悪魔の漆黒の瞳は、底なしの穴を覗いているようで。
落ちたらもう助からない奈落に引きずり込まれそうな錯覚に、悲鳴を上げそうになる。
そんな考えを打ち消そうと、声を張った。
「生きること、よ!」
「…………ほう?」
「このまま世界を破壊しようとするなら、あなたは聖女に討たれて消滅することになる。もちろんその過程で、私も死ぬ」
悪魔の眉がぴくりと動いた。
たったそれだけで、空気が冷える。
「聖女と崇められていようが、所詮人間。余が人間に負けると?」
「確かに、聖女はただの人間。でも、この世界では『神に選ばれた存在』。そして聖女は、既に四つの神具を手にしている。この先あなたが暴れれば、力を覚醒させて神に近い能力を発揮するの。勝ち目はないわ!」
悪魔の目がわずかに見開かれた。
神。
それは悪魔にとっても、絶対的上位の存在だ。
「悪魔召喚の儀式を行ったことは、きっとすぐに聖女に勘づかれる。ここに聖女が来るの! その前に、あなたはもとの世界に帰った方がいいわ……!」
それと同時に、私は証拠を隠滅して聖女の追究を逃れなければならない。うまく誤魔化せるかはわからないが、そうしなければ私の未来は処刑一択。
悪魔は恐ろしい。が、殺されることが確実視される未来だって同じくらい恐ろしい。
必死に考えを巡らせていると、悪魔がぽつりと声を落とした。
「召喚された以上、契約が満たされなければ余は帰れぬ」
「…………は…………!?」
思考が停止した。
契約を満たす。
それはつまり、魂を渡さないといけないということで。私の死は避けられないという宣告だ。
ぐ、と悪魔の手に力がこもる。
息が詰まって、爪がくい込んだ皮膚に痛みが走った。
「悪魔召喚は契約行為。そなたが望むまいが、余を召喚した事実は消えぬ。契約が履行されぬ限り、余はこの世界に縛られることになる」
「……もしも契約を、しないままでいたら……?」
「どちらにせよ、この世界では余は異質な存在。魔力が安定するまでは、召喚主であるそなたのそばを離れられぬ」
「それはまずい……!!」
王都にいる聖女が悪魔の出現を感知し、ここへ辿り着くまで猶予はない。きっと明日にでも、やって来るだろう。
そうなればたとえ契約をしていなくても一緒にいる限り、悪魔も、そして儀式を行った私も殺される。
結局、契約してもしなくても、私は死ぬしかないじゃないか。詰んでいる。
冷たい汗が流れ落ちて、ごくりと喉が鳴った。
決してここで間違えてはならない。慎重に、言葉を選ぶ。
「契約の内容を見直しましょう」
悪魔がぴたりと動きを止めた。顎をつかむ力が少しだけ緩む。
「……ほう。余を相手に交渉を試みるつもりか。ではそなたは何を差し出し、余に何を望む?」
「力を貸して。せっかく前世の記憶が戻ったっていうのに、このままシナリオ通り処刑されるなんて、冗談じゃないわ! 何よりあの聖女に婚約者を奪われて、負けたままなのが気に入らないの!」
「そなたは、まことに未来を予知できると申すか?」
「……ええ。私を信じて、あなたの未来を預けてくれる? きっと私もあなたも、生き永らえる未来をつかみ取ってみせるわ……!」
────その瞬間。
悪魔がにぃ、と笑みを見せた。
世界を滅ぼす恐ろしい悪魔、というキャラクター像を脱ぎ捨てたように、途端に人形めいていた様相が霧散した。
……なんだかとてつもなく嫌な予感がする。
地雷を踏み抜いた予感。
「…………面白い。よかろう、そなたを殺すことはせぬ。かわりにそなたは、余を守る。よいな?」
愉快そうにその口から零れたのは、思いのほか穏やかな提案。
ほっと小さな息が漏れた。
「いいわ。私たちは、互いを守る。それが契約ね?」
────契約。
その言葉に反応するように、魔法陣が再び光を帯びた。
空気がびりびりと震えて、眩しい光で視界が真っ白になる。胸がぐっと苦しくなって、体中を何かが駆け巡る気配がした。
それはほんの一瞬の出来事で、瞬きの間に光は消えた。
次に目に飛び込んできたのは目の前にいる悪魔の姿で、その口元が愉しげに弧を描いている。
「契約成立だ。そなたの命だけは、余が守ろう」
「……だけ、って……。まって、それって」
魂の代償となるものを探すのに必死すぎて、迂闊に契約を結んでしまった。その内容は、ちっとも詰められていないというのに。
悪魔相手に──私は、取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。
私の動揺さえも楽しむように、ノクスはゆっくりと指を離すと、優雅に礼をした。
「そなたがどのように余の消滅を回避するのか、足掻く様を見せてもらおう。なに、そなたの肉体がどうなろうと、命だけは繋ぎ止めてやる」
「…………………………」
最早処刑ルート回避どころか、殺されても死ねないゾンビルートに突入している。
どうやら私は、完全にやっちまったらしい。
けれどもう遅い。
耳の奥で、シナリオが狂い始める音が確かに聞こえた気がした。




