9-過去編・なにも、残されていなかった
失踪から二日目の朝。
莉子は、自宅のベッドで目を覚ましたまま、しばらく身動きが取れなかった。
チャットアプリは、いまだ未読のまま。
電話も、もうコール音さえ鳴らなくなった。
その日の昼。
莉子は圭太の部屋へ向かった。
合鍵はまだ手元にあった。
彼の私物が、残されているはずだった。
だが――ドアを開けた瞬間、莉子は凍りついた。
室内は完璧に片付いていた。
まるで『はじめから誰も住んでいなかったかのように』。
ソファの上には、圭太が使っていた毛布もない。
クローゼットは空っぽ。
彼の靴も、洗面台の歯ブラシも、キッチンのマグカップも――すべてが消えていた。
冷蔵庫には電源が落とされ、郵便受けには「転居届」の控えが入っていた。
新住所欄には、黒のサインペンで無造作に「×」が引かれていた。
莉子は、彼と共有していたという口座の番号を頼りに、銀行へ向かった。
だが、そこで告げられたのは、
「お客様、この口座はご本人様確認ができませんと、情報の開示はいたしかねます」
「いいえ、そこに送金してるんです。名義人は――」
「確認できるものがなければ、ご案内は……申し訳ありません」
まるで最初から存在しなかった取引先のように、機械的な言葉が繰り返される。
振込履歴をスマートフォンで見せても、担当者は「確認をお預かりします」とだけ言い、奥に引っ込んだまま戻ってこなかった。
圭太のSNSアカウントは、すべて削除されていた。
――どこを探しても、もう「神谷圭太」という痕跡はネット上に存在しなかった。
フルネームを検索しても、出てくるのは無関係な別人の情報ばかり。
かろうじて名刺に印字されていた会社名で検索しても、登録されていない子会社のようなものばかりで、どれも仮設かゴーストだった。
職場も、名刺も、電話番号も。
全部、偽物だった。
その夜、莉子は彼からもらった“約束の指輪”を机に置き、見つめていた。
プラチナのそれは、確かに本物だった。
だが、どこにも刻印がなかった。
ブランドも、工房の印も、日付も。
――それすら、最初から「誰にでも渡せるように」選ばれていたのだ。
莉子は膝を抱えた。
心が、静かに崩れていく音がした。
それでも涙は出なかった。
それほどまでに、現実は“空っぽ”だった。
私は、夢を見ていたんじゃない。
本当にいた。確かにいた。
……でも、いなかった。
声に出しても、部屋は無反応だった。
まるで、圭太のように。