8-過去編・終わりは、何も言わずにやってくる
十二月下旬。
その朝は、やけに寒かった。
窓の外には、前夜の雨が凍りついたような光の粒が浮かんでいた。
圭太は早めに目を覚ましていて、キッチンでコーヒーを淹れていた。
芳ばしい香りとともに、いつも通りの声が聞こえる。
「莉子、今日は何時から? 送ろうか?」
「ううん、大丈夫。圭太は出張、今日からだよね?」
「うん、三日間。向こうのファンドと顔合わせしてくる」
彼の言葉には、何の曇りもなかった。
シャツに腕を通す仕草。香水をつけるタイミング。スマートフォンを胸ポケットに入れる音。
すべてが、いつもと同じように見えた。
けれど――
莉子は、彼の荷物が少ないことに気づいた。
いつもなら使う黒のスーツケースが、玄関に見当たらない。
「あれ、キャリーは?」
「向こうに直送してある。手ぶらのほうが動きやすくてさ」
答えは自然だった。
だけど、わずかに間があった。
コートを着る前、圭太は玄関に立ち、莉子を振り返った。
「……行ってくるね」
「うん、気をつけて。終わったら連絡して」
「もちろん。……莉子」
「ん?」
「今までで、いちばん幸せだった。ほんとに、ありがとう」
その言葉が、なぜか妙に“終わりの挨拶”のように聞こえた。
だから、莉子は少し笑ってみせた。
「なに、それ。帰ってきたら、ちゃんと続きを言ってよ」
「うん」
それが、最後の会話だった。
その日の午後。
莉子は仕事の合間にスマートフォンを開き、圭太にチャットを送った。
”無事着いた?”
既読はつかない。
仕事中かもしれない。打ち合わせ中かもしれない。
夜になっても返信はなく、既読もつかない。
”電話してもいい?”
鳴らしたコールは、三回で切れた。
留守番電話にすら繋がらなかった。
莉子の指先に、冷たいものが滲みはじめた。
次の日。
圭太の会社に電話をかけると、「そのような人物は現在在籍しておりません」と事務的な声が返ってきた。
「出張でそちらに行っているはずですが」と食い下がっても、「お調べしましたが、該当者はいません」と繰り返すだけだった。
心臓の鼓動が、はっきりと耳に響く。
呼吸が浅くなり、視界の色が褪せていく。
――そんなはずない。
つい昨日、笑っていたのに。
コーヒーの香りも、指先のぬくもりも、本物だったはずなのに。
莉子はソファに崩れ落ちた。
ふと目に入った、指にはめたままの“約束の指輪”。
それを外す勇気もなく、彼女はただ呆然と、呼吸を繰り返していた。
まるで、その日だけ空気が止まってしまったかのように。