3-過去編・幸せは、未来の形をしていた
六月、梅雨の合間を縫うようにして、ふたりは箱根温泉へ出かけた。
「たまには都心から離れよう」と圭太が提案し、莉子がスケジュールを調整した。
ふたりの間にはもう、当然のように予定を共有する関係ができあがっていた。
宿に着くと、窓の外には雨に煙る紫陽花。
川のせせらぎと遠くで響くカエルの声。
浴衣姿の圭太が、露天風呂の縁に腰掛けながら、少しはしゃいで見せた。
「こういうの、学生時代の友達としか来たことなかった。大人になってから、ちゃんと誰かと来るのって、すごくいいな」
「……それ、ちゃんと“誰か”って私のことだよね?」
「もちろん。俺の“一生の誰か”のことだよ」
そんな台詞が、もう特別ではなくなっていた。
莉子の指には、プロポーズはまだでも、“約束”を表すように圭太が贈った細いリングが輝いていた。
翌朝、朝食のあとでふたりは箱根のガラス美術館へ立ち寄った。
小さな吹きガラス工房で、おそろいのグラスを作った。
「これ、家で使おうね」
「……“家”って?」
「莉子さんがそう思えるなら、だけど。将来的に、ふたりで住めたらって。……俺、本気だよ」
不意に差し出された左手を、莉子は握り返した。
その手は、体温を持っていた。確かな誰かの未来のぬくもりだった。
ある日曜、圭太が言い出した。
「ねえ、そろそろご両親に挨拶しようかと思ってるんだけど」
「……え?」
「驚いた? でも、挨拶ってタイミングだからさ。俺はもう決めてるんだ。莉子さんと結婚したいって」
緊張しながらも、莉子は頷いた。
母親に連絡を入れたときの声が、ほんの少し震えていた。
その週末。
圭太はスーツに身を包み、手土産を持って莉子の実家を訪れた。
少し堅い空気の中で、丁寧に挨拶をし、莉子の両親と落ち着いて会話を重ねていく姿は、まるで昔からの親戚のようだった。
帰り道、莉子がぽつりと言った。
「ありがとう。ちゃんと向き合ってくれて」
「ありがとうって言うの、俺の方だよ。こんなに大事な人を紹介してもらったんだから」
そして、彼は莉子の髪を撫でた。
その仕草があまりにも自然で、莉子はふと、こう思った。
この人となら、本当にやっていける。
夜、圭太の部屋で、ふたりはベッドに並んで眠った。
暗い天井を見上げながら、莉子がふと尋ねた。
「圭太は、私のどこが好き?」
「全部だけど……強がってるところ、かな」
「え?」
「無理に笑うところとか、弱さを隠すところとか。そういうの見てると、守りたいなって思う。
でも本当は、自分で立ち上がれる人なんだって知ってるから――好きなんだよ」
その言葉に、莉子の胸がじんわりと熱くなった。
気づけば涙が頬を伝っていた。
「泣いてる?」
「ううん、……嬉しいだけ」
「莉子が泣いていいのは、嬉しいときだけ。悲しい涙は、もう流さなくていい」
その言葉を信じた。
信じて、未来を託した。
それが、すべて嘘だったと知るのは――もう少しだけ、先のことだった。