2-過去編・幸福は、疑いを眠らせる
春の雨がやんだ夕暮れ、ふたりは神楽坂の裏通りにある古民家風レストランにいた。
和モダンな内装と控えめな照明が心地よく、炊き込みご飯の香りが漂う。
「莉子さんって、箸の持ち方、すごく綺麗ですよね」
「それ、初めて言われたかも。でも嬉しい」
「こういう何気ない仕草が、きっと家庭的なんだろうなって思う。……やっぱり、俺にはもったいない人かもしれない」
「そんなことないよ。私のほうが、そう思ってる」
ふたりの距離は、もう完全に“恋人”のものだった。
話すことが尽きなくて、黙る時間さえ心地よく、歩くテンポも自然に合っていた。
週末になると、圭太の家で料理をした。
莉子がスーパーの袋を抱えて玄関に立つと、彼はいつも笑顔で迎えてくれた。
「今日は何?肉じゃが?俺、あれ好きなんだよね」
「今日はね、ちょっと洋風。バルサミコ酢の煮込みに挑戦しようかと」
「おお、レストランみたいじゃん。じゃあ俺、ワイン用意するね」
キッチンに立つ彼は、包丁こそ握らないが、手際よくグラスを並べ、BGMに軽快なジャズを流す。
ソファに座って料理の香りを待つその横顔が、莉子には“帰る場所”に見えた。
ある日、圭太が小さな箱を差し出してきた。
「早すぎるけど、誕生日プレゼント!」
中には、シンプルなダイヤのリングが入っていた。
莉子は言葉を失った。
「高かったでしょ……こんなの、もらえないよ」
「じゃあ、結婚指輪のときにもっと高いやつにしてもらおうかな」
「……なにそれ、ずるい」
ふたりで笑った。
指輪をつけてもらう手が、じんわり熱を持った。
鏡に映った自分が、ほんの少し綺麗に見えた。
「莉子さんのこと、大事にしたい。
誰よりも、味方でいたい。……そう思ってる」
その言葉を、莉子は疑わなかった。
疑う理由もなかった。
――――ある日曜の午後。
圭太が何気なく言った。
「俺さ、仕事のことで大きな勝負に出ようと思ってるんだ。
資金が必要で、正直ちょっと不安だけど――
莉子さんがそばにいてくれたら、俺、乗り越えられる気がする」
その声は誠実で、何より“弱さ”があった。
いつも自信に満ちていた彼の中に、少しだけ見える脆さが、莉子には愛おしかった。
「私でよければ、なんでも言って。できることは、したいから」
「……ありがとう」
莉子は、そのとき心の中で静かに決意した。
この人を信じる。
過去に傷ついてきたからこそ、今度こそ大丈夫だと――。
誰もが「付き合いたての恋」を過ごすわけじゃない。
莉子にとって圭太との日々は、まるで人生の巻き戻しだった。
過去の苦しみを帳消しにしてくれるような、優しさ。
未来を語ってくれる、穏やかな声。
そして何より、「誰かに愛されているという確信」。
この時間が“真実”であってほしい。
そんな願いが、かすかに胸を締めつけることに、彼女はまだ気づいていなかった。