10-過去編・壊れる音も鳴らないままに
夜、冷蔵庫のモーター音だけが部屋に鳴っていた。
莉子は、ソファにもたれたまま動けずにいた。
スマートフォンの画面は、光るたびに彼の名前を探していた。
けれど、通知は誰からも来ない。
既読にならないメッセージだけが、指で触れるたびに心を削った。
圭太、今どこにいるの?
もう、何もいらないから。
一言だけでいい。
……本当に、嘘だったの?
問いかけは、誰にも届かなかった。
翌朝、職場へ行くためにスーツを羽織ったが、玄関で足が止まった。
ヒールを履いた瞬間、足首がぐらついた。
それだけで、心が音を立てた。
「……ムリ」
鞄を落とし、コートも脱ぎ捨てて、莉子は床に座り込んだ。
涙は、出ない。
出す力すら残っていなかった。
数日後、同僚から連絡が入った。
「莉子、大丈夫? 最近顔出してないけど……」
スマホの画面を見つめたまま、莉子は電源を落とした。
“心配”は、いま最も触れてほしくない言葉だった。
部屋のカーテンは閉ざされたまま。
食べ物のにおいが嫌になって、冷蔵庫を開けることすらできなかった。
ふと、洗面台の鏡に自分の顔が映る。
そこには、化粧の剥がれた女がいた。
目の下に青い影。唇の色は褪せ、髪は結ばれることなく垂れていた。
莉子は、鏡をじっと見つめた。
「私、何を信じてたの?」
その問いかけには、答える人などいない。
指輪は、まだ外せなかった。
薬指に乗ったそれだけが、「確かに誰かを愛した証」として残っていた。
けれど――
ある夜。
ふと指輪が、無意識の手の動きでカチリと床に転がった。
その音が、すべての終わりだった。
莉子は静かにそれを拾い上げ、机の引き出しの奥、誰にも見えない場所にしまった。
ダイヤの指輪も外して、そこに仕舞った。
代わりに、口を押さえて、初めて嗚咽を漏らした。
声にならない、獣のような音だった。
その夜から、眠れなくなった。
圭太の声が、笑顔が、体温が、まぶたの裏に焼きついていた。
ベッドに入ると、彼の匂いがまだ枕に残っていた。
その匂いに、莉子は吐いた。
トイレで胃液を吐きながら、声にならない言葉が何度も喉の奥で転がった。
「……どうして……どうして……」
返事はない。
この世に、もう神谷圭太はいないのだから。
月が綺麗な夜だった。
莉子はふと、ベランダに出た。
冷たい風が頬を刺した。
柵の向こうを見下ろせば、光が遠くに滲んでいる。
「ここから落ちたら、どうなるんだろう」
その言葉は、誰に向けたものでもなかった。
ただ、ぽつりと漏れた独白。
でも――
その足が、踏み出せなかった。
涙が、やっと流れた。
「悔しい……
こんなふうに壊されたのに……
それでも、愛したままでいるのが……悔しい……!」
涙は止まらなかった。
そしてその夜、莉子は、生まれて初めて「復讐」という言葉を口の中で転がした。
まだ声にはならなかったが、
心の奥底に何かが、静かに目を覚まし始めていた。