ラツォーリ家
ロベルト・バルトリーニ氏から結婚の申し込みを受け、ラツォーリ家は沸き立っていた。
ある日、ラツォーリ家に王都から医者が訪ねてきた。
家長ミルコの妻オルガはめまいの持病を抱え、王都の南聖堂の無料診察を受けていた。その医者がわざわざ家を訪ねてきたのだ。オルガを診察した後、医者は以前から勧めていた一瓶金貨二枚はかかる高価な薬を処方した。
同行していた者から求められたのは受け取りのサインだけ。支援者の代理人は自身をジャンと名乗ったが、支援者の名も支援する理由も答えることはなかった。
「お大事に」
患者に向けるよくある挨拶を残し、医者と代理人は去って行った。
それから毎月その薬が届くようになった。何を勘違いしたのか、途中からは娘オリヴィエラにも同じ薬が提供され、薬だけでなく家への支援も行われるようになった。家の補修に人員が手配され、受けた支援金で着る物も食べる物も格段によくなった。
充分な休養と栄養が取れるようになると、オルガの体調はみるみるうちに良くなっていった。
何故こんなに手厚く支援をしてくれるのか、それが疑問だったが、薬の提供が始まって五ヶ月を過ぎた頃、いつもの代理人ジャンが先触れに来て、主人からの手紙を手渡した。
貴殿の娘との婚姻を望んでいる。ご許可をいただきたく、近日伺いたい。
差出人の署名は、ロベルト・バルトリーニ。
明かされた支援者はバルトリーニ商会の副会頭にして、バルトリーニ伯爵家の次期後継者候補と言われている男だ。
バルトリーニ伯爵家の嫡男エリオットが、所属する騎士団での公金横領が発覚し、王より廃嫡を命ぜられた。年内に後継者が決定しない場合、伯爵領は王に返還、家は取り潰されることになる。伯爵は当初息子の減刑と名誉回復に努めたが叶わず、ようやく後継者に自分の甥に当たるロベルトを選んだと噂されていた。
そのロベルトがオリヴィエラを見初め、結婚を申し込んでいる。薬に続き支援金まで送っていたのはオリヴィエラの機嫌を取るためだったようだ。
「一体どこでオリヴィエラを…」
その言葉に、ジャンは使者でありながら、らしくない笑みを見せた。
「一目惚れだったようで」
バルトリーニ商会の副会頭でも申し分ないのに、伯爵になる男。娘の婿になるのにこれ以上の条件はない。申し出を受けるのに迷いはなかったが、正式な回答は後日、本人が来た時にすることにした。
朗報をもたらしたジャンの乗った馬車を見送りながら、ミルコはこれでこの家も安泰だと満足げに笑った。
そして三日後、ロベルトが訪れた。
大柄で身なりのいい男は、少し目はきつげだが整った顔立ちをしていた。商会創設者の縁者でありながら甘やかされることなく、下積みから始めて副会頭まで上がってきた実力者だ。ミルコより遙かに年下でありながらその風格はミルコをも圧倒したが、娘婿になる男に舐められてなるものか、とミルコは必死に虚勢を張った。
オリヴィエラはお気に入りのドレスを身に着け、華やかに着飾ってロベルトを出迎えた。ロベルトはオリヴィエラに笑みを見せることはなかったが、小さく会釈する姿は硬派で誠実な性格を思わせた。
応接室でオリヴィエラはロベルトの隣に座ろうとしたが、父ミルコに小さく咳払いされ、両親と同じ長椅子に腰掛けた。
「今回の結婚の申し出について、承諾いただけるだろうか」
時間を惜しむように端的に話すロベルトに、ミルコもまた途中で気が変わることのないよう
「もちろんだ」
と即座に答えた。快諾にロベルトの表情が和らいだ。やはり緊張していたらしい。部屋にいる一同もまた安堵の笑みを浮かべた。
「では、こちらに署名をお願いしたい」
出された婚約承認の書類を見て、ミルコは目を見開いた。
「な、…こ、これは、何かの間違いでは」
恐る恐る問いかけたミルコに、ロベルトははっきりと答えた。
「間違えはしない」
「し、しかし、これは、オリヴィエラではなく…」
「フランカは貴殿の娘だろう。本人からは既に了承を得ているが、筋として家長である貴殿にも了承を得ておくことにしたのだが」
オリヴィエラはブルブルと身を震わせると、立ち上がって叫んだ。
「どうしてフランカなの? 私ではなく?」
声を荒げるオリヴィエラに、ロベルトははっきりと嫌悪の表情を見せた。
「何故私があなたと? あなたとは今、初めて会ったはずだが」
オリヴィエラもまた、ロベルトを見たのはこれが初めてだった。初めてではあったが、どこかで自分を見かけて好意を寄せてくれたのがこんなハンサムなお金持ちで良かったと、自分の幸運を喜んでいたのに、それが自分ではなく妹のフランカとの婚姻を望んでいたなんて。自分が妹より劣っていると言われたことのなかったオリヴィエラは、ショックを隠せなかった。
「一度も会ったことのないあなたに結婚を申し込むなど、ありえないだろう。私は政略的な結婚は求めていない。仮にそんな申し出があったところで即座にはねのけるつもりだ。そのためにも、伯爵家が関わってくる前にフランカと結婚したいと考えている」
ロベルトの目に揺るぎはなかった。オリヴィエラに目を向けていても、受けた質問に答えているだけで何の興味も持っていない。
「し、しかし、…結婚するなら、オリヴィエラを勧めよう。恥ずかしい話だがフランカは男癖が悪く、王都で自由に暮らしているうちに羽目を外し、悪い虫がついてしまった娘だ。とてもあなたの妻には…」
その話をした途端、ロベルトの表情は凍り付いた。その怒りの視線にミルコは口を閉ざし、オルガもオリヴィエラも恐怖を覚えた。
「その話は、どちらから?」
「う、噂になっていると…、いつも薬を届けてくれているジャン君からも気をつけろと…」
ロベルトはしばらく考えた後、ふと口元を緩めた。
「それについては心配無用だ。彼女についている悪い虫は私のことだろう。結婚の約束を取り付けた後だから、大目に見てほしいところだが…」
あまりに正直な告白に、ミルコは言葉が出なかった。
「責任を取れというなら、まさにこれが一番の責任の取り方だと思うが、いかがか」
ロベルトに書類を突きつけられ、ミルコは娘を勘当したとは言えなかった。ただ黙って承諾のサインをし、書き終えるとすぐにロベルトは書類を取り上げ、立ち上がった。
「あのっ」
オルガは立ち上がってロベルトを呼び止めた。夫の許可なくオルガが来客に声をかけるなどこの家では許されていなかったが、後で叱られるのは覚悟の上で思い切らずにはいられなかった。
「薬を、…送っていただいたのは、娘の、フランカの依頼だったのでしょうか」
「当然ですよ。フランカに聞いたからこそ、姉君の分まで追加で手配したのです。もっとも姉君は仮病で、薬を転売していたようですがね」
仮病だったことも、転売していたことも把握されていた。オリヴィエラは青ざめ、緊張でスカートを握った手を震わせていた。ロベルトは一瞥し、はぁ、と呆れたように息をついた。
「差し上げた物を返せとは言いません。だが、あなた方は私から援助を受けてもフランカにそれを伝えることもなく、フランカからも金を受け取り続け、援助に甘えて働こうとはしなかった。フランカはあなたたち家族のために無理して金を工面していたというのに…。元気になられたなら結構。今後、自分の食いぶちは自分で稼ぐことだ。薬は医者に任せるが、支援金は打ち切らせていただく」
「そんな馬鹿な!」
ミルコは机を叩き、その勢いで茶器が音を立ててひっくり返った。
「支援金を切るなら娘はやらん!」
「あなたは援助と引き換えに娘を売る気なのか? だが、親子の縁を切っておきながら、金は搾り取れるなどと都合のいいことを考えないことだ」
ロベルトはフランカが絶縁されているのを知っていた。知らないわけがなかった。知っていながらあえて予定通り来たのだ。フランカの代わりに怒り、フランカがつなげた縁をも精算するために。今となってはロベルトとこの家をつなぐものは何もないのだ。
ロベルトはラツォーリ家家長のサインが入った婚姻を承諾する書類を広げ、ミルコ本人に見せつけた。
「…こんなものがなくても婚姻できるようにしていただいたが、これがあると話が早いのでね。ありがたくいただいておく。…失礼する」
項垂れるミルコ達に背を向けると、ロベルトは振り返ることなく立ち去った。
受け取った支援金は残りわずか。
つい先日発注した靴の支払いもまだだ。
カルデローネ家との婚約はまだ破棄は申し出ていないが、周囲に余計なことを言っていなかったか。今更破棄とみなされても払う賠償金もない。
確信していた贅沢三昧な未来図を引き裂かれ、ミルコはただ呆然としていた。




