フランカ 3
「ちゃんと送ってあげてねー!」
レベッカの声に見送られながらお店を出た。
温かーい背中に背負われて、左、右、左、右、歩みに合わせて揺れる。たまにはこういう役得な日もあっていいよね。
背中に頬をすり寄せてうとろうとろといい気分だったのに、急に下ろされて、柔らかい床に背中が着いた。
仰向けに大の字に寝転んで、遠のいていく腕をつかむと頭を撫でられた。笑い声にむっとして
「子供じゃないよ」
とぷうっと頬を膨らませると、頭を撫でていた手が降りて来て頬にピタリと吸いつくように止まった。
親指で唇をくすぐりながらじっと見つめていた顔が近づいてくる。
「子供じゃないなら、……いいか?」
こくりと頷くとそっと唇が触れた。触れてるだけなのにドキドキする。ああ、お酒臭いかも。でもどっちも飲んでるんだからわからないか。
離れて、また触れて、そのたびに少しづつ押しつける力が増していく。舌先が私の唇をなぞり、その湿り気で滑るように唇が何度も往復する。口づけだけで酔いにも増して顔が熱を帯びて、頭が回らなくなっていく。
マテオに押し倒された時は受け入れられなかったのに、何でだろう。同じように仰向けになって上に人が覆い被さっているのに、払いのける気にならない。
胸に当たる体が熱い。背中に手を回すと強く抱きしめ返された。足に風を感じ、しっとりとくっつく肌がこのまま癒着してしまいそうで、触れる度に優しく溶かされていく…
朝。
目覚めれば、そこは知らない場所だった。
服も着ずに寝転がり、隣で自分とは違う寝息を立てる人が小さく寝返りを打った。
…誰?
体に変な痛みが残り、やってしまった、と自覚させる。
やばい。
いわゆる、酒の上の失敗。
一夜の過ち。
一体何故こんな事態に…。
何も覚えていないわけじゃない。
同意の上と言われればそうだった、んだろう。
嫌じゃなかった、ような気がする。
だけど、だけどこれは…。彼でもない、もちろん夫でもない、昨日酒場で会った人とそのまま、…。
ひゃあああああ! 逃げるしかない!
相手が目覚めてないのをいいことに、急ぎ服を着て、とりあえず書置きを残し、できるだけ音を立てないようにしてそーっと部屋を飛び出した。
このことは二人だけの秘密で
早朝の街。外に出ればすぐに自分がどのあたりにいるかがわかった。酒場からも家からもそんなに遠くない。真っ直ぐ家に戻り服を着替え、これから仕事に行かなければいけない。
とりあえず、忘れよう。
意外と何でもなかったのでは?
互いに合意だし、襲われたわけでもないし、多分襲ってもないし、もしかしたら夢だったりして…。
そんな都合のいいことを考えていた私の鞄の中には、二つに折られたメモが入っていた。昨日渡されたものだ。記憶にもある、小さな文字で小さな紙に書かれた約束。
薬の援助をする。南聖堂が処方する薬を月に一度一瓶を実家に届ける。配達の証拠として受領書を…
いろいろ細かいので、以下略。
最後に署名。自分の名前ともう一人、ロベルト・バルトリーニ。
これがさっきの人の名前? 聞き覚えがない。私は名前さえよく知らない人と深い仲になってしまったわけで…。
しかもこれは、この状況だと、もしかして、薬を買ってもらうための、……援助目的ってことにならない?
ダメでしょう、私―っ! 何やってるの!
…ほんとーに、つくづく自分が嫌になった。
心がざわつき、身が入らないなりに仕事はこなす。
昼は小さな商会の事務をしていて、帳簿の管理、発注の受付、在庫管理に配達と任されるまま何でもやっている。お給料はあまり高くはないけど、ほぼ定時で終わる、安定した仕事。
それが終わると、レストランか酒場でアルバイト。大した美人でもなく、愛想も振れない私の適職は皿洗いながら、人手が足りない時にはお皿を下げたり、注文品をテーブルに運ぶこともある。看板娘じゃない私が運んでも、あんまり喜ばれないけど。
週三回だったアルバイトは、薬代がかさむようになってからは入れる限り毎日入っていた。もし、本当に薬代の援助が受けられるなら、少しは休めるようになるかもしれない。
…当てにしていいんだろうか。
変わらない毎日を過ごし、何の連絡もないのでそろそろ夢ということにしようと思いはじめた五日後、家のドアの隙間に封筒が差し込まれていた。
中にはあの一瓶金貨二枚の薬の名前と、その下に母の字で母の名前が書いてあった。薬の受領証だ。
本当に送ってくれたんだ。
ジーン、と嬉しくなった反面、はたと気付く。
私のことも、うちの住所も、実家の住所もばれてる。恐らく母の病名も。
どうしよう、逃げたのに。あんなことがあった部屋から、相手が寝ている隙に逃げたのに。
でも、私のことを知らなければ約束の果たしようがないんだし、当然と言えば当然か。調べてまで援助してくれるなんて、義理堅いというか……。たかが平民相手とは言え簡単に調べあげられる力を持っている人。相手はただ者じゃないとみた。
約束を破るような人でなくてありがたいと思う反面、住所を知りながらも受領書をドアに差し込んだだけ、私信の一行もないってことは、もう会う気はないってことだろう。その時限りの「大人の恋」、援助と引き換えの遊びってやつかも。
まあ私相手ではそんなものか。それなのに、マテオの浮気を見た時よりも心が痛い。この痛みは、自分のしでかしに対する罪悪感、だろうか。