ロベルトとフランカ 1
従兄のエリオットのやらかしで、親戚筋のバルトリーニ伯爵家が存続の危機に陥っていた。
伯爵家には何度か遊びに行ったことがあるが、伯父夫妻は自分の弟の家族を格下に見ているところがあり、エリオットは親を見習ってか何かと偉そうな態度をとる奴で、到底仲良くなれなかった。
ロベルトは伯爵家がどうなろうと自分に関わりはないと思っていたのだが、突如伯父に伯爵家の後継にしてやると言われた。ただでさえ今商会で受け持っている仕事が忙しく、時には泊まりがけで国の端にある土地に足を向け、王都に戻っても自分の部屋より商会で寝泊まりしていることが増えているのに、こっちの都合も考えず頻繁に呼び出され、まだ継ぐとも言っていないのに伯爵領にまで足を運ばされる。そんな状況にとかくうんざりしていた。
さらに伯父からどこぞの令嬢との縁談を持ち込まれるようになった。すぐさま断ったが、危機感を持ったロベルトは早々にフランカと結婚できるよう手を打つことにした。
ラツォーリ家へ訪問の先触れを送った日、両親への挨拶くらい共に行くべきだと思い直したロベルトは、仕事の合間にフランカの元を訪れた。フランカの住んでいる建物の前まで送ったことはあったが、部屋を訪ねたのはこれが初めてだった。
その日フランカは休みだったはずだが、留守にしていた。
夕方に訪れても戻った様子はなく、日を改めるには訪問の日も近い。明日はまた一日働き通しだろう。早くそんな生活から解放してやりたいのに、なかなか時間が取れず、会うこともままならない。
夜には戻っていると思ったのだが、再度訪れた部屋に明かりはなかった。そのまま部屋の前で待っていると、三十分ほどしてフランカが戻ってきた。
フランカはうつむいていて、なかなかロベルトに気が付かなかった。目が合うと怯えるように身をすくませ、その目は赤く腫れていた。泣いていたのは明らかだった。
「何があった」
フランカはロベルトが声をかけても目を背け、問いかけに答えることもなく部屋の鍵を開けて一人中に入り、扉を閉めようとした。足と腕で扉が閉ざされるのを遮り、無理矢理体をねじ込んだが、懸命に押し出そうとしてくる。ここで追い出されたらすべてが終わってしまうと直感した。フランカを抱き寄せ、本気で叩いてくる痛みを受け止め、自分から逃げる以外のことなら気が済むまでしたいようにさせた。
やがて殴りつける手は撫でるのと変わらなくなり、ペシペシと大して威力もない攻撃さえも止まり、フランカはロベルトのシャツにしがみついて嗚咽を漏らした。
「どうし…、お姉さ…」
ようやく言葉を口にしたものの、フランカは本音を飲み込んだ。
「私が、…口を出せることじゃ…」
フランカはぎゅっと歯を食いしばり、泣きそうな思いを隠して笑顔を作った。
「……お薬、ありがとう、ございます。母もずいぶん良くなって、ました」
「フラン?」
他人行儀な言葉遣いにロベルトは戸惑ったが、もう少し様子を見てみることにした。
「家がきれいになってて、家族も、身なりを整えて、見違えました。まるで、お祖父様が生きていた頃のようで」
「黙って金を出して悪かった。援助することでおまえの負担が軽くなることを願ったんだが、…変わらなかったな」
「いえ…」
やっぱり、恨めない。
フランカは自分を思って援助したというロベルトの言葉を聞き、これ以上責めたくなかった。
「本当に、ありがとうございます。これからは、姉を、…家族を、わがままな人達ですけど、よろしくお願いしますね」
「よろしくされる気はないんだが…。家に戻ったんだな?」
ロベルトの問いに、フランカは頷いた。
「姉に結婚を申し込んだと聞きました。ショックでしたけど、反対はしません」
「…しないのか?」
「だって、私はただ、援助してもらった、契約の恋人で」
はああぁと深い溜息をつき、フランカを抱きしめていた手が下ろされると、フランカはこれで終わったのだと思った。
しかしロベルトは、頭痛でもするかのように頭を押さえた後、今まで見せたことのない冷たい視線を向けてきた。
「約束の紙、持ってるか?」
フランカが頷くと、
「持って来い」
と有無を言わせない口調で命令した。
お気に入りの本を棚から抜き出すと、中に挟んだあのメモ書きのような契約の紙を取り出し、ロベルトに手渡そうとした。しかしロベルトは手を触れることなく
「読んでみろ」
と言った。
捨てることもできず、罪悪感から本に閉じ込めていた小さな紙。そこに書かれた文章を、フランカは始めは声を出し、途中からは目で追った。
薬の援助をする。南聖堂が処方する薬を月に一度一瓶を実家に届ける。配達の証拠として受領書を渡す。期間は母親の病状が治まるまで。この婚約が無効になっても援助は中止することはない。結婚に向けて、互いに相手に対し誠実であることを誓う。
ロベルト バルトリーニ
フランカ ラツォーリ
最後の署名は、確かにフランカ自身が書いたものだった。
あの時、二枚の紙にサインを書き、それぞれが一枚づつ持っている。それは、薬の援助の約束の体を取りながら、実は、これは、どう見ても、
「やっぱり、ちゃんと読んでなかったか」
呆れて力の抜けた溜め息をつき、恐げな表情を崩したロベルトさえも目に入らず、フランカはその小さな紙片をわなわなと震わせていた。
「あの日の朝、もう一度確認するつもりだったんだ、俺達の関係を…。撤回するなら最後のチャンスをやろうと思ってた。それなのに起きたらいなくなってるし、もう撤回はさせないと決めた」
フランカは逃げた自分を思い出した。逃げたつもりだったのは自分だけ。逃げたことで逆に逃げられなくなっていた。
「俺と付き合うのが嫌で逃げたのかもしれないとも思ったが、確信もないことでおまえを手放す気はなかった。だから即約束を果たして、言い訳させないようにした」
言い訳、できなかった。
「酔った女に手を出すなんて卑怯者だと言われようと、数分前だろうと好きだと伝え、恋人になることにOKをもらい、結婚の約束だってした。やっと手に入れたおまえがあんな間近にいて、あんなふうに見つめられたら、……我慢できなかった」
あんなに不機嫌だったロベルトは、いつの間にか友達のような、恋人のような、いつもフランカに向ける顔に戻っていた。
「やっとって、…私のこと、知ってたの?」
「あいつと付き合う前から知ってた。ずっと好きだったんだ。言い出せなくて、出遅れて、掻っ攫われて、本当にショックだった。でもおまえが幸せになるならそれでいいと諦めた。…なのにあいつと別れてやけ酒食らってるところに出くわすなんて。このチャンスを逃す訳がないだろ」
作り話のようだった。誰かが自分のことを想っていてくれたなんて。長い間想い続けてくれていたなんて。あの日もようやく叶った恋心を抑えきれなかったなんて。
薬の援助を理由にした契約の関係じゃなかった。
胸がいっぱいになり、ポロポロと涙をこぼしたフランカに、ロベルトはデコピンを食らわせた。
「ちゃんと読めよ、サインする前に」
大して痛くもなかったが、正論は心にグサッと突き刺さった。
契約文はよく読む。安易にサインしない。そんなことは基本中の基本だ。
「とはいえ、俺がもう一日自制できてたらこんな誤解はなかったよな。酔ってない時なら、酒のせいだと思わせなければ……。そこは俺が悪かったと、思ってる」
フランカはううん、と首を横に振りかけて、はたと気付き、ロベルトを見た。
「もう……、一日?」
ロベルトは至って真面目な顔で
「うん」
と頷いた。
聞けばロベルトは二年半も片思いを拗らせていた。自分はいかにフランカ一筋かをとうとうと語られ、聞いているのも恥ずかしくなった。
フランカもまた契約の恋人なのを悲しく思うくらいにロベルトのことを想っていると正直に伝えた。だからこそ、姉と結婚すると聞いて大泣きしたのだと。
「あー、今日来てよかった。今日会えてなかったら大変なことになっていた。恋の女神は俺達を祝福する気満々だな」
ロベルトはフランカの頬に口づけを落とし、肩を引き寄せた。
「今日はなぜここに?」
「家の事情で早々に結婚したほうが良さそうで、いつでも結婚できるようおまえの親に結婚の承諾をとっておこうと思ったんだが、よく考えれば行くなら二人で行くもんだなと」
「一人で行く気だったの?」
確かに世間ではまだまだ親の一任で結婚を決めることが多いが、恋愛結婚なら二人揃って挨拶に行くのが一般的だろう。しかしフランカは苦笑しながら答えた。
「行かなくていいわよ。私、勘当されたから」
「勘当??」
もはやフランカは自分の悪評を流したのがロベルトかもしれないなどと疑うことはなかった。少し話をすれば、それだけで信じられる相手だ。
「結婚前なのに男と関係を持つふしだらな女は家の恥だ。縁を切るって。うちの父はそういうところは厳格なの」
フランカは、父親の書いた絶縁を宣告した書類を取り出し、ロベルトに見せた。こんな大事なのに平然としているフランカを見て、
「このまま縁切りでいいんだな?」
と確認し、迷いがないことを知ると、ロベルトはにやりと笑った
「これでおまえの一存で結婚できて助かるな。…一緒におまえの両親に会いに行くのはなしにしよう。夜のアルバイトも程々にな。できればやめてもらいたいが、無理強いはしない。あの酒場はフランと出会い、フランを手に入れた大事な場所だからな」
フランカはこくりと頷いた。
親から絶縁されても卑下されない。アルバイトだってフランカの自由にさせてくれる。思い出の場所を大切にしてくれる。ちゃんと自分の事をわかってくれる。尊重してくれる。
だから私はこの人が好きなんだ。フランカは自分の想いに確信を持った。
目と目が合って、照れた笑顔が引いていくと、どちらからともなく唇を重ねた。フランカにとっては想いの通じ合った恋人として初めての口づけだったが、何も変わるところはなかった。




