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「ヴァネッサが王子を殺したことにも理由があった」
それからの映像はフィオネの記憶で見たものと大差なかった。負の感情に呑まれて力を暴走させて、人々を傷つけて首都を闇で吞み込んだ。だがヴァネッサが全て悪かったわけではなかったのだ。
竜の乙女が処女でなくてはいけない理由も王子が原因だったらしい。ネロ以外の竜が話し合って決めたそうだ。曰く、白いものも黒に触れれば黒く染まるということだ。
男女の関係になれば少なからず男の影響を受ける。男がいい心の持ち主であればよいが、良からぬことを考えていればそれに染まり、悪い方へと変化する可能性が高い。その尺度として肉体的関係を挙げたのだという。フィーネはネロの説明に納得した。
「事実を知ってもらいたかった。知った上で、彼女に向き合ってほしい」
彼女を救ってほしい。
ネロが歩みを止めたため、視線を前方に向ける。花道の向こう、花冠を作るヴァネッサと傍に寄り添う黒い竜がいた。黒い竜は眠っている。ネロの本体である。
前を歩いていたネロの分身がぱたりと地面に倒れた。本体に戻ったのだろう。
ヴァネッサはフィーネに気づいていない。何もなかったかのように、楽しげだった。その姿はヴァネッサとフィオネが竜に出会う直前の姿に酷似していた。
もしかしたら彼女はあの頃に戻りたかったのかもしれない。周りから蔑まれていても穏やかに、フィオネと仲良く話をしながら暮らしていたあの頃に。
一歩踏み出すとヴァネッサがこちらに気づいて振り返る。フィオネ?と聞く彼女の顔はとても楽しそうだ。だが違うとわかるとだんだん顔が青白くなっていく。
今度はわかったんだ。
フィーネをフィオネとは別の人と認識できたらしい。それはここが彼女の心の中心部分、闇に侵されていない部分だからかもしれない。ネロが守ってきた場所だから、まだヴァネッサは彼女らしさを保っていられる。
「誰?私は何もしてない。誰にも迷惑かけてない…」
頭を両手で抱えて、体を震えさせながら蹲る。フィーネを恐れている。それは何故か。過去を見てきたフィーネにはわかった。
ヴァネッサは竜の乙女になる前は時々他者から暴力をふるわれていた。髪が黒くて不吉だから、災いを呼ぶから、理由はなんだってよかった。ただ内に燻る鬱憤の捌け口にされていた。自分より小さい子供からも石を投げられていた。親の行動を見て学び、模倣していたのだ。そういった類の者だと認識されたのだろう。
「大丈夫だよ。私はあなたを傷つけない」
両手を広げて一歩近づく。びくっと肩を震わせたヴァネッサは来ないで!と声を荒げて、影を伸ばしてフィーネを攻撃してきた。
光の球体を出し、フィーネに届く前に伸びてきた影を飲み込む。何度も何度も、闇を癒やしていった。一歩一歩近づかれる度に攻撃しても、光で消されることでヴァネッサの顔は青白いを通り越して真っ白になる。後ずさろうにも背後にはネロがいる。彼女はネロを置いてどこかに行かないと、フィーネは感じた。
ヴァネッサの攻撃は結局一回も当たることはなかった。目の前まで来てフィーネは膝をつき、ヴァネッサの手に触れた。彼女ははっと息を飲み、暫くしてほろほろと泣き始めた。
「ごめんな、さい。ごめんなさい。皆を傷つけて…」
彼女の心は現実に戻ってきたのだ。王子を殺して、仲間を傷つけて、魔物を放って町を壊していた記憶を思い出した。それが闇にのまれて起こしたことだとしても、彼女がしたことに変わりはない。
ヴァネッサはよろよろと手をフィーネの顔へと近づける。
「ごめんなさい、私はこれしかできなくて…」
「だめ」
近づいてきた手を止める。ちらりと見るとヴァネッサの手の表面が黒く輝いていた。闇の竜の乙女としての力だろう。彼女はフィーネの負の感情を取り込もうとしたのだ。
フィーネも手の表面に光を作り、ヴァネッサの手を握りしめて力を相殺する。彼女の顔が絶望に染まった。
「私はこれしかできないの!皆の負の感情を受け止めることしかできない!あなたにだってあるでしょう?なんで私から役割をとるの?」
「…もちろんあるよ」
人が亡くなるところを見るのは辛かった。エレツが自分を守るために傷ついて昏睡状態になって、ヴァネッサを、自分を恨んだこともあった。たった十二歳の子供なのに、過度な期待を抱かれて非難されて、苦しくなるときもあった。でも…
「負の感情だって、私のものだから、あなたにはあげない」
感じたことをなくしてしまっていいわけないのだ。それがどんなに辛くて重いものだろうと、今の私を構成する一部となってしまっているのだから。村の人や両親からの期待も、身近に感じた人の死も、そのとき感じたものがなければ今、きっとフィーネはここにいはない。
ヴァネッサはぽかんと口を開けている。なんだか幼く感じた。
「負の感情を受け止めるだけが、あなたのできることだなんて言わないで。あなたは色んなことができるはずだよ。やりたいことはないの?」
「でも私がやらなかったら、皆が大変になっちゃう」
眉間に皺を寄せて俯くヴァネッサの頬を優しく包んで上を向かせる。下を向いてばかりでは悪いことばかり考えてしまうものだから。
「あなたが負の感情を受け止めなかったからって、人類が滅んだりしないよ。人はそんなにやわじゃない。押しつぶされることもあるかもしれないけど、皆立ち上がる力を持っている」
悪い考えの人もいるかもしれない。でもそうではない人も大勢いるから、ヴァネッサだって生まれたのだ。
「ねえ、あなたのやりたいことを教えて?」
「私は、普通に暮らしたかった…っ」
ヴァネッサは大粒の涙をこぼしながらフィーネに抱きついた。
「…両親がほしかった。…愛されたかった。普通の女の子みたいに」
フィーネの胸に顔を埋める。声はくぐもって聞こえたが、溜め込んだ感情を吐き出すように巻き付いた腕は力強かった。
「今は、皆に謝りたい…本心じゃないこともいっぱい言って、傷つけて…」
「きっと聞こえてるよ。皆、あなたのことを皆思ってた」
火の竜の乙女リアナはヴァネッサが酷いことを言われていたら、自分のことのように怒っていた。
木の竜の乙女メルトはヴァネッサの優しさを一番気づいてくれて、寄り添ってくれていた。
土の竜の乙女ハルノアは共に土に触れることで、わかり合おうとしてくれた。
水の竜の乙女スレイはヴァネッサを仲間と認めていた。
「フィオネは夢の中で、大木の中で魂の残滓となりながらあなたを案じていた」
亡くなってもフィーネにメッセージを送っていた彼女は、婚約者を殺されてかっとなってしまい酷いことをいってしまったことをずっと後悔したのだろう。
本心はわからない。でも決して憎んでいたわけではないと思った。
フィーネはヴァネッサの黒い髪を一房持ち、自分の一房だけ黒い髪を反対の手で掴んだ。
「ねぇ、私達お揃いだね」
満面の笑みでいった。
黒い髪が不吉だなんて、誰がいったのだ。髪が黒くなくても悪い者はいくらでもいる。大事なのはその人の人となりだろう。
フィーネは白に混じる黒い髪を気に入っていた。善人ではないけれど、正しい人でありたいと思っていた。見た目にとらわれるような人にもなりたくなかった。
白い髪で生まれてきて、竜の乙女じゃないか?と言われた日々を思い浮かべる。大事なのは見た目じゃない。自分の見た目に囚われないでほしいと思った。
「そんなこと言われたのは初めて」
ありがとう。とヴァネッサは微笑んだ。
やがてヴァネッサの体が光に包まれて、足からどんどん消えていった。本来彼女はここにいてはいけない存在なのだ。闇の力のおかげで現世にとどまっていたのだろう。
「皆のところにいけるかな」
「行けるよ、きっと」
一度真っ暗な結界に包まれた空を見上げて、傍らのネロを見る。ほとんど透けて消えている手で、触れた。
「お願い。ネロだけは助けて。彼はずっと私を助けてくれていた。もう、ネロも皆のところに帰らなきゃ」
ネロはぴくりとも動かない。フィーネもネロに触れて力を使うが、のれんに腕押しで全く効果がなかった。
生きているかわからないのだ。魂はきっと体にあるのだろうが、鼓動も感じない。ネロを助ける術がわからなかった。
ヴァネッサが負の感情を集めていないため、彼女の魂を守る必要もないのにネロは目を覚まさない。ネロの体はとっくに限界だったのだろうか。
ヴァネッサは胸元まで消えている。フィーネは自分の無力さに唇を噛み締めた。
「術はあります」
声がふってくると共に、黒い空間にヒビが入った。




