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フィーネはイエリナに色々なことを教えた。食器の使い方、調理の仕方、洗濯など身の回りのこと、お金のことや文字について。もし森林から出て、一人で何かをしようとしたとき、生活しようと考えたときに困らないように必要最低限のことは教えようと考えたためだ。
最初は興味津々だったイエリナだったが、集中力が続かず逃げたり癇癪を起こしたりした。一緒にきてもらうために、自分達を理解してもらうのが目的で森林にて生活を始めたのに、だんだん方向性が変わってきている気もした。
人との関わりにおいて最適解など存在しないのだ。やりたいことをやるのが一番、と自分に言い聞かせてフィーネはイエリナと接していた。
ときにはイエリナから教わることもあった。狩りの仕方や食べられるきのこの見分け方、木登りの仕方など。イエリナの身のこなしは常人離れしており、自分ではできないなと思いつつすごいすごいと褒め称えた。
他の者たちとの関わりにも変化があった。食事を共にするうちに警戒心が薄れていったのか、エレツとファムの傍には寄るようになった。主に食事を彼らが作っているからかもしれない。
エレツとは普通に会話ができるものの、フレイヤはあまり好きではないのか距離を保ったままだった。もしかしたら自分たちの力の木と火という関係が影響しているのかもしれない、とフィーネは思った。
フレイヤが話しかけてもフィーネの肩越しでしか返事をしないし眉間に皺を寄せている。天敵にあった動物のような行動で苦笑する。一方アースとルブリム、他の竜は平気らしい。火の竜のルブリムとも普通に接している。むしろトーリよりはるかに小さいため遊ばれることもしばしばあった。その度にアースとルブリムはげんなりしていた。
その様子を木の影から時折狼が覗いていた。見定めているのかもしれない。最初のうちは気になっていたものの、それでぎこちなくなっては本末転倒だと思い最近は狼をあまり気にしなくなった。
魔物も現れず、天候もよく、平穏な日々が続いていた。
未だイエリナから色好い返事はもらえていない。手詰まりでもあった。あまりに森林の外と隔絶されているため、魔物や他の村町の状況など全くわからなかった。
イエリナがいなければいけない、と思うがこれ以上時間を費やしてもいいものかとも思い、二つの考えの間で悩んでいた。他の方法を探すほうがよっぽど有意義なのではないか、と。
そんなある日、転機が訪れた。
いつもと同じようにフィーネとイエリナはトーリと一緒に力を使う特訓をしていた。最近のイエリナは木の成長を促進したり、木を動かす速度もぐんと速くなっていた。凄まじい成長速度だった。
「…なんかやな感じ」
「えっ?」
イエリナが空を見て唸っていたため、つられて顔をあげると空に暗雲が立ち込めていた。否、あれは暗闇といっても過言ではない。夜空や雨雲とは異なる、背筋が凍りつくようなおぞましさがあった。体が震え、目を離せなくなる。
「あれはいけません!」
トーリはばっとイエリナとフィーネを抱き上げて飛翔し、闇から逃げるように飛んでいく。頭が追い付かず何も質問できずにいた。
イエリナは相変わらず唸っており、フィーネは闇を見続けていた。闇はやがて進行を止め、ある一定の場所から広がらなくなった。やがて森から鳥が四方に飛び立ち、動物たちの悲鳴が聞こえる。暗闇は徐々に霧散し、元の空の青へが見えた。
ほっとしてイエリナを見ると、目を見開いて闇が消えたほうへと視線を向けたまま戦慄いている。
「…お母さん、あそこいる」
必死にもがいてトーリの腕の中から抜け出そうとする。
「落ち着いて!あれを見たでしょ!嫌な感じだっていってた!一人で行っちゃだめだよ、一緒にお母さん見に行こう?」
フィーネが説得するとだんだん落ち着いてきてこくりと頷いた。トーリは旋回して闇が消えた方角へと飛ぶ。
「トーリ、あれが何か知っているの?」
「あれは、動物を魔物へと変える闇です。島の中央から枝を伸ばしてきたのかもしれません」
愕然とした。魔物の元凶の一端をこんなところで見ることになるとは。そしてあんなに恐ろしいものだとは思いもしなかった。得体のしれない、体の芯から凍えるような恐怖だった。
「通常、あれは島の中央から動きません。近くにいた動物を魔物にしていくのです。ですが分離してここまでやってこれたということは闇が深くなっている可能性が高い」
私たちは全然魔物の元凶について知らないんだ、と実感した。
「闇をなんとかしないとだめってこと?」
「いえ、もう闇の気配は感じません。通常通り、魔物の対処をすれば大丈夫です」
魔物の対処なら何度も経験したことがあるため安堵した。トーリに運ばれていると左右からエレツとフレイヤとファムがやってきた。アースとルブリムもそれぞれ肩に乗っている。
「今の異様な気配はなんなんだ!」
「詳しい話はあとで!あそこに魔物とイエリナのお母さんがいるの!」
フィーネは前方を指差した。エレツは息をのみ、驚愕する。ここは滅多に魔物が現れないはずなのに、と顔に書いてあるようだ。
「じゃああたしと兄さん、エレツで魔物をなんとかするからあなたたちは狼のもとへ向かって」
フレイヤの指示に一瞬で気を引き締め、エレツは剣に手をかけ頷いた。
ありがとう、とフィーネが返事をすると各々散開する。木が折られ倒れる音や魔物の声が次第に近づいてきた。
イエリナは終始静かだったがずっと青ざめた表情でカタカタと震えていた。どうか無事で、と願わずにはいられない。道中、飛びながら光の布で魔物を包み癒していった。優先順位はイエリナの母が高いため、可能な限りではあったが。
唸り声が聞こえてきて、イエリナがバタつき始めたのを確認し、この先に狼がいるのだろうと予測する。木々を抜けると体の半分ほど黒く染まった狼が唸り声をあげながら何かに抵抗するように首を振っていた。
「お母さん!」
イエリナが飛び出し、狼に近づこうとするとさっと避けられる。それと同時に体の黒い部分が侵食し始め、狼は悶え苦しんだ。
身悶えしていた狼がパタリと動きを止めて顔をあげると、唸り声は苦しみを耐えるものからフィーネたちへの敵意を含むものへと変わり、牙を剥き出しにして睨み始めた。
「離れて!彼女はもう魔物です!」
トーリが制止するがなおもイエリナは狼に近づこうとする。近づいてくる獲物に狼は容赦なく爪を振り下ろした。母が自分に手をあげたのが信じられなかったのだろう。一瞬動きを止めたものの、イエリナは爪を避ける。ザクッと少し腕を掠めて血が落ちた。傷口を圧迫しながら狼と距離をとり、悲痛な面持ちでイエリナは言葉を紡ぐ。
「お母さん!イエリナ!わからない?」
「イエリナ、彼女にはもう言葉は届かないのです。魔物となったら、もう人を殺すという本能しかありません」
「私じゃできない?!」
フィーネの癒しの力なら、浄化したあと動物の姿で戻ってこれる。今まで浄化したあと、生きていたものはいなかったが。
「彼女は先程まで闇に抵抗していました。早く浄化すればあるいは…」
トーリの言葉をうけてフィーネはさっと光の玉から布状のものを作り、狼へと伸ばす。しかし狼のほうが動きが速く、なかなか捕らえることができなかった。これは時間との勝負だ。
「イエリナ!お母さんを捕まえて!」
「つかっ…捕まえる?」
「イエリナの力で!お母さんを押さえて!早く!」
母が常とは異なり森も荒れている状況で頭が混乱し、フィーネに促されてもどうすればいいかわからずイエリナは手をぎゅっと握ることしかできなかった。
「お母さんがいなくなってもいいの!?」
その言葉にはっとして意識を引き締めた。
イエリナは神経を集中させ木の根を動かす。木の幹を駆け登り軽やかに動く狼に一つの根では容易く逃げられてしまう。ならばもう一本、二本でだめなら三本、と避けられる度に動かす根の本数を増やし、木の枝を伸ばし、四方八方から攻めてやっと狼を拘束した。前足で抜け出そうと試みるため、拘束を強くする。
動きが止まったところですかさず光の布で包み込んだ。闇が浄化され、徐々に元の狼の姿に戻ると共に呼吸も弱くなっていった。このままでは浄化できても狼は生きられないかもしれない。
そんなの絶対駄目!
フィーネは狼に抱きついた。浄化しても生きているように、イエリナの母でいられるように強く願った。
だって家族って大切だもん。私もお母さんやお父さんがいなくなっちゃったらって思ったら堪らなく辛い。瞼をきつく閉じ、イメージする。元気な狼の姿を。自分ならできると何度も鼓舞して。
光が狼とフィーネを包み込む。あまりの眩しさにトーリもイエリナも目を開いていることができなかった。浄化と癒しの光が迸る。
徐々に光が弱くなり、目を凝らすと狼とフィーネが地面で重なるように倒れていた。イエリナは慌てて二人に近づいて呼吸と意識を確認する。フィーネは意識があるようだがかなり疲労を感じている様子で、狼は意識はなかったものの細い呼吸があった。
思わずほろりと涙がイエリナの頬を伝う。よかったですね、とトーリがイエリナの肩を撫でた。
「…イエリナ、お母さん、無事だよ」
「うん、うん…ありがとう」
弱々しくフィーネは自身の手をイエリナの手に重ねて握った。目を開けるのも億劫だった。
イエリナは様々な初めての感情がぐちゃぐちゃにまぜこぜになって、大粒の涙が止まらなかった。フィーネの手を両手で包んで神に感謝をするように額をつけた。嗚咽だけが響いた。
フィーネと狼が横になっている間にやってきた魔物はイエリナとトーリが片付けていた。その間、フィーネは意識を失っていた。
フィーネが目を覚ますといつの間にか日は傾いており、四人と三匹の竜に囲まれていた。皆無事な様子だ。隣を見ると狼の背中がゆっくりと上下していてほっと息をついた。
「魔物は?」
「もう全部片付けたと思うわ」
フレイヤの煮え切らない回答に疑問を浮かべるとファムが補足してくれた。
「着いたときには魔物は四方に散っていた。粗方倒したがもしかしたらとり漏らしがあるかもしれない、ということだ」
辺りは暗くなり、昨日まで聞こえていた自然の声は鳴りをひそめ、死んだようにしーんと静まり返っている。
フィーネはエレツに支えられながら食事をとった。お通夜みたいな雰囲気だった。それも仕方ないだろう。魔物の元凶を見て、今まで滅多に現れない場所に大量の魔物が発生したのだから、心が沈むのも無理はない。
カチャカチャという食器の音と咀嚼音だけが暗闇に響いていた。フィーネたちが食事を終えたあと、やっと狼は目を覚ました。食事と水を渡したところ、ゆっくりと口を動かし食べていたためひとまず安心だな、と思った。
体が鉛のように重くて体を洗うのも億劫だったため、その日はすぐに寝床に入った。イエリナも狼の傍で体を丸めて寝ていた。
目を閉じると狼を抱き締めたとき、光に包まれて瞼の裏で見えた光景が思い浮かんだ。
あのとき白い髪をした女性がフィーネに微笑んで狼は大丈夫、と言ってくれた。それからフィーネを抱き締めて頭を撫でてくれた。温かくて落ち着く匂いだった。
あの子があなたの前に現れるかもしれない。あなたに任せるのは間違っているってわかっているけど、私にはもうどうすることもできないから。お願い。
女性が一言ずつ、丁寧に言葉を溢していった。あの子って誰だろう、お願いって何を。色んな疑問が湧くのに喉から音は何もでなかった。ならこの辛そうな優しい声の主を拝もうと顔をあげる。そこにはどこかで会ったような、目尻を下げた女性の顔があった。
それからすぐに意識は現実に引き戻されたため、彼女の顔を見たのはほんの一瞬だった。忘れてはいけないと、あの人はきっと何かを知っていると思うのに、もう彼女の顔は靄がかかったみたいに思い出せなかった。
狼を救いたいと思ったとき、いつもよりはるかに強い力を出せたように感じた。あれは彼女のおかげだったのかもしれない。
色々なことが起こり思案を巡らせているとだんだん頭と瞼が重くなり、いつの間にか眠っていた。
闇はずっと彼女を探していた、求めていた。ずっとずっとずっと。それは闇が闇となってもなお、意思だけは存在し続けた。もう理由なんて覚えていないのに。
見つけた。今度は本当にあなたよね。迎えにいくね。待っててね。
闇は凝縮し、一つの塊になる。それは女性の形をしていた。
今度こそはあなたを―…




