エーテル邸の怪
その、夜の闇を固めたような、黒ずんだ、というより、もう黒そのものの屋敷を目にした私は、思った。
あ、これは駄目だ。無理。
30年間、こんな私に付き合ってくれた体は正直である。その場で回れ右をして、黒屋敷に背を向ける。
ふっ、私ほどのスカウトの達者になれば、危険なヤマかどうか、直感が教えてくれるというものだ。
「おい、何をしている」
今回の雇い主『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
灰色のとんがり帽子。灰色のマント。手には杖。見るからに魔法使いだ。
油で顎髭を尖らせた、40男。バルザックという名前だが、私は彼を見た時、路地裏で、ため息をつくネズミを連想した。
「……例えるなら」
「例えなくていいから、手短に言え」
気の利いた例えは、ダンディズムと切っては切れない中である、と私は考えている。
要するに、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、まるでダンディではない男だということだ。
「私の勘が告げている。あの屋敷に入るのは危険だと」
「貴様の勘など知ったことか。さっさと行くぞ。もう前金は払っているんだから」
ええ……、なんなの、この人。すごい感じ悪いんだけど。ついさっき会ったばかりなのに、貴様とか言っちゃうわけ? 人として、どうなの?
『憂鬱なる灰色ネズミ』が人として終わっているということは、これで証明できたことだろう。
このような無粋な人間とは、さっさと手を切るに限る。
私は、『憂鬱なる灰色ネズミ』に別れを告げる言葉を探す。ダンディズムはこんな時にこそ発揮されなくてはならないのだ。
「やめるんなら、金を返してもらおう。50ジット(50万円)、すぐに返せ」
「水は高いところから低いところへ落ちる。金もそうであったのなら、世の中はもう少し生きやすいのかもしれない」
「わけのわからんことを言ってないで、すぐに返せ」
私は両手の平を上に向けて、やれやれ、と、つぶやいた。
「こんな私のポケットに金貨の一枚でも入っているように見えるかい」
前金50ジットはすでに滞納していた家賃に当ててしまった。
「ずいぶん、長いこと待たせてしまったな、約束の金だよ」と持っていったら、大家に「まだ半年分足りないじゃないか」と言われた。
世知辛い世の中だ。
「返せないなら、黙って仕事をしろ。まったく、この街にデクスト団なんてものがあるから、いけないんだ。こんなクズに依頼しなきゃあならん」
ぶつぶつと文句を言う『憂鬱なる灰色ネズミ』。
私は顎に手を当てて、深い思考を巡らせているのでまったく聞こえていません、というようなポーズでやり過ごした。
大きな街なら、大抵は、盗賊団のようなものがある。要するにアウトロー組織だ。
このクラングランにも、デクスト団という老舗の盗賊団がある。だが、そいつは、ずいぶん前に、組織改革が行われ、請け負うのはグレーの仕事までになった。真っ黒な仕事とはおさらばというわけだ。
おかげで私のような昼と夜の中間、まるで黄昏のような者に声がかかったのだが。
おっ、我ながらいい感じの文句になったな。
黄昏の探偵。いい……。
「ところで、君。なぜ、あのような怪しげな屋敷に忍び込む必要があるんだ」
ともかく、『憂鬱なる灰色ネズミ』の動機を聞こう。もしかしたら、そこに活路が見出せるかもしれない。
仕事をせずに、かつ前金を返さなくても済む、そんな道が。
「『勇者アルフレッド』は知っているな」
「ああ、この街に住む者で彼を知らない奴はいないだろう」
『勇者アルフレッド』。あの『不死身カーラッド』の実の息子にして、自身も数々の偉業を成し遂げた、今やもっとも有名な冒険者。
5年前に、このクラングランの地下から現れたアルタードラゴンと戦い、現在、行方不明となっている。
「彼の仲間で、天才魔法少女と呼ばれていた魔法使いを知っているか?」
「エーテルたんのことか?」
「たん?」
コホンコホン。
しまった。つい、エーテルたん呼ばわりしてしまった。
魔導師エーテル。
史上最年少で、魔導師となった天才。『勇者アルフレッド』の妹的存在で、アルタードラゴンとも彼ともに戦った。
氷のような無表情に、突然浮かぶ邪悪なる笑みが、トレードマークの女性だ。
情け容赦なく相手を侮蔑し、見下すその毒々しい笑みは、9割の人間に不快感を与える。だが、残りの1割の人間には、ゾクゾクとした刺激を与えるのだ。
そんな彼女の笑みの虜になったファンの間では、『エーテルたん』の愛称で親しまれている。
かういう私も、かつて一度だけ、彼女に笑顔を向けられ、その虜になった人間である。
あの時の、彼女のゴキブリを見るような目。嘲笑う唇。ああ、思いだしただけで、背中にゾクゾクとした快感が……。
失敬。
今はそんな場合ではなかった。
「その天才魔導師エーテルがどうかしたのか?」
「あれは、彼女の屋敷だ。もっとも、今、彼女はサーベル陛下に従軍しているため、留守にしているがな」
「なん、だと……」
エーテルたんの住まい……。
実に興味深い。いや、別に、なにかやましい気持ちがあるわけではない。私はとてもストイックだし、そもそも根本からして女性には興味がない。
ただ、一ファンとして、彼女のことをもっと知りたいと願うのは自然な感情であり……。
「これはチャンスだ。あの天才的な頭脳から生み出された産物を、盗み……、いや参考にすれば、素晴らしい成果をあげることができるかもしれん。それこそ歴史に名を残すような」
つまり、『憂鬱なる灰色ネズミ』は天才の研究成果をかっさらって、成り上がろうと考えているらしい。
つくづく見下げ果てた奴だ。
もちろん、私が彼のそんな自分勝手な動機に共感するわけがない。
「仕方ない。一度引き受けた仕事だ。君に手を貸そう」
エーテルたんの屋敷に入って、その生活の痕跡を見たい、と願うのはファンならば仕方のないことではないだろうか。
◇
「やはり、正面の門から入るしかないな」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
「厳重な結界だ。さすが天才といったところか」
忍び込むための隙が無いか、屋敷を黒色の塀沿いに、ひと回りした後のことである。
「正門には、それこそ、厳重な仕掛けがしてあるのではないのかね」
「あれを見ろ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が指さしたのは、屋敷の塀に設けられた真っ赤な門。そこには不気味な人面がいくつも浮かび上がっている。
「恐ろしく、古いタイプの認証システムだ。私のように魔法装置に精通していれば、破ることなど造作もない。そう思わんか?」
「確かにそうだな」
なるほど、という風に頷いた。
もちろん、私に魔法のことなどわかるわけがない。適当に話を合わせただけのことである。
「よし、行くぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が胸を張って、堂々と門前に向かう。
私は、ここはお手並み拝見といこう、というような雰囲気をかもしだしながら、彼のあとを追った。
危なかったら、さっさと逃げよう。
「誰だ」
門に浮かび上がった顔が言った。
「魔導師バルザックだ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が本名を名乗った。良いのだろうか?
「バルザック? 聞かぬ名だな」
「エーテル様の友人か?」
「魔導師であるからには、同僚という線はあるかもしれん」
「無下には追い払うのは危険だな。以前、エーテル様の同僚を追い返したことで、ひどく怒られからな」
「とりあえず、入れた方が良かろう」
門が開いた。
ザル過ぎないだろうか?
もっと、こう高度な頭脳戦のようなものを経て、門が開くという感じじゃなくて良いのだろうか?
拍子抜けする私をよそに、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、さっさと門をくぐって敷地内へと入っていく。
私も平然を装って入った。
内心は、おっかなびっくりだったが、もちろん、そんな様子は見せない。
優れた探偵は、いついかなる時も平静を装うものである。
いびつに歪み、曲がりくねった黒い樹木。
黒い芝が茂る庭。
原色のカラフル過ぎる花々。毒々しくも巨大なキノコがそこらかしこから生えている。
ひと言で言えば、そう、悪趣味な庭である。
その先に建っているのは、闇を塗り固めたような黒い石造りの建物。
煙突が様々なところから飛びだし、真っ赤な蔦が網の目状に絡んでいる。
さすが邪悪淑女エーテルたんの住まいである。
転がっている小石(人面が浮かび上がっている)一つとってみても、邪悪としか言いようがない。
「い、行くぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が裏返った声で言った。
だいぶ怯んでいるようだ。
かくいう私も結構、怯んでいる。エーテルたんは、人体実験などの、人の道を踏み外したことを平然とやりそうだ。
屋敷の中には、一体、どんな恐怖が詰まっているのか。
彼女の内面を覗き見たいという好奇心と、肌がヒリヒリとするような危機感がせめぎ合う。
ねちょり、ねちょり、という、不気味な音に急き立てられるように、私たちは屋敷へと入った。
◇
予想はしていたが、屋敷の中は暗かった。だが、真っ暗闇ではない。
廊下には点々と小さな灯りがともっている。それこそ、ボンヤリとした薄い光だ。
「おい、灯り」
『憂鬱なる灰色ネズミ』に言われ、私はベルトのバックルに触れ、仕込んである光石をつけた。
その途端、耳をつんざくような悲鳴が轟いた。
えっ、なに、今の。
すごく怖いんだけど。
「な、なにをした」
「い、いや、灯りをつけただけだが」
そうこうするうちに、また悲鳴だ。
しかも、先ほどよりも近いところから聞こえた。
「お、おい。消せ。それを消せ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
悲鳴が、すぐ近くの壁から聞こえた。
なにか、人型に壁が盛り上がっている。
私は、すぐにベルトの灯りを消した。
壁の盛り上がりが、無くなり、元の平坦さを取り戻した。
一体なにがあったのかはわからないが、この屋敷で灯りをともすのは、危険なようだ。
「なんだったんだ、今のは。魔法装置? それとも魔法生命か? さっぱりわからんぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言いながら、先ほど盛り上がったあたりを撫でている。
うっ、とうめいた。
「ちょ、ちょっと来てくれ」
「どうかしたのか?」
「いいから、来てくれ」
これまでの態度から、いかにこの『憂鬱なる灰色ネズミ』が、好感の持てない、信用もならない相手だと、分かったことだろう。
私は彼の言葉に反し、距離を取った。
「貴様、なんで離れる」
「君が近づくからだ」
ジリジリと近づく『憂鬱なる灰色ネズミ』
。ジリジリと下がる私。
その時、ボトリ、ボトリ、と後ろの方で、なにかが大量に落ちるような音がした。
ガサガサガサッと言う音が、近づいてくる。
大量の虫が走ってくるような音に似ている。私は幸運にも、そんな恐ろしい目にあったことはないので、確信は持てないが。
振り返った。
黒くてツヤツヤしていて足がたくさんあるが、虫というには、あまりにも邪悪な見た目の生き物が、大量に走ってくる。
私は走った。
声にならない声をあげて走った。
たぶん、うひぃっ、とか、そんな感じの声だ。
長い廊下を必死で走る。
私の前を『憂鬱なる灰色ネズミ』が走る。
あっ、転んだ。
私は、どてっと、すっころんだ『憂鬱なる灰色ネズミ』を無視して、走った。
昔、ある人が言っていた。
誰かを助けるには、助けるだけの余裕が必要だ、と。だから、せいぜい、自分の損にならない程度に手を貸せばよいのだ、と。
それは悲しいな、と当時の私は思った。だが、今ならわかる。
私自身があの、虫というには、はばかりがある生き物にまみれるよりも、『憂鬱なる灰色ネズミ』が、まみれる方がずっと良い。
あの気持ち悪い、虫みたいだが、どうも虫とはカテゴリーが違う生理的に受け付けない生き物に、体中を這われるというトラウマになること請負いの苦すぎる記憶は、『憂鬱なる灰色ネズミ』だけのもので良い。
彼だけの特別な記憶なのだ。それを邪魔することは私にはできない。
扉が見えた。
私は中に飛び込んで、固く扉を閉めた。
私をひどい奴だ、と思うだろうか?
私は扉に背を預け、うつむいた。
『憂鬱なる灰色ネズミ』、君のことは忘れない。
たぶん、二週間くらいは。
◇
そこはホールだった。
中央に大きな階段があり、二階へと続いている。
床や壁に、どう見ても人型の黒色や赤黒い染みのようなものがあり、心を揺り動かさずにはおられない。
さて、どうしたものだろうか。
できれば、我が敬愛すべき邪悪淑女エーテルたんの痕跡が、ありありと残った場所。要するに寝室だとか、執務室だとか、そういうところを散策したいところである。
このホールからは、奥の廊下と二階の廊下が伸びている。
選択肢が多いことは良いことばかりではない。人は必ず、別の可能性を偲ぶものなのだ。
私が、ど、れ、に、し、よ、う、か、な、と二つの廊下を交互に指さして選んでいると、背後で扉が開いた。
『憂鬱なる灰色ネズミ』が立っていた。満身創痍という様子である。
「き、さ、ま」
両手を伸ばして寄ってくる。
「君、無事で良かった」
私は、彼との距離を適切に保ちながら言った。
彼の体に一匹たりとも、あの不気味な生き物が取りついていないことを確認するまでは、決して近づかないでおこう。
「不運にも君が転倒し、災厄にまみれたことは痛み入る。だが、今は進む時だ。過去を振り返るよりも、前にね」
説得とは、必要な時に、それっぽいことを言うことだ。
「見ろ、三つの道がある。せっかくだから、君が選ぶといい」
怒りを逸らすには、すぐに判断し、決定すべき事項を、提示してやるのが効果的だ。
はたして、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、私への怒りをよそへおいて、階段と奥の廊下を交互に見た。
「まずは上の階だ。彼女の執務室が見てみたい。日記などがあれば……」
エーテルたんの日記だとっ。
なんということだ、私にその発想はなかった。
確かに彼女のことを知るには、日記を読むのが一番だ。
きっと嬉し恥ずかし内面が、つづられていることだろう。
いや、彼女の心の闇が永延とつづられている可能性もあるのだが。
「よし、上だ。上に行くぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が元気になって言った。
私の肩をポンと叩く。
なにかネットリとしたものが、服についた。
「おい、君、なんだ、このネチョッとしたものは」
「知らん。壁を触ったら手についた」
私は、イライラしながら腰に差してある小ぶりのナイフで、プルプルねっとりしたものを、こそぎ落とした。
クソっ、『憂鬱なる灰色ネズミ』め。
今度なにかあっても、助けてやるまい、と私は固く心に誓った。
もっとも、すでになにかあったが助けなかったので、彼に対するスタンスはまったく変わらないのだが。
階段を上り、回廊沿いに歩いて、二階廊下へ進む。
扉が両側にいくつかある。
『憂鬱なる灰色ネズミ』が、ひとつ目の扉を開けた。
「衣裳部屋のようだな」
つまらん、といった感じに吐き捨てる。
私は『憂鬱なる灰色ネズミ』の脇を通って、中へ入った。
壁から壁に何本もポールが伸びており、そこに服がかかっている。服は黒、灰色、白の三色。マントと帽子はやたらと種類がある。
ピンク色のフリフリのドレスなんかがあったら、そのギャップに大いに興奮したことだろう。
だが、大抵の現実とは、つまらなく当たり前のものなのである。エーテルたんの衣裳部屋として、相応しくも、まるで面白みのない様子であった。
念のため、エーテルたんが着ていそうな灰色のワンピースを、くんくんと嗅いでみる。
カビ臭さに、思わず咳き込んだ。
「おい、なにをしてる。さっさと次に行くぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』に急かされて、衣裳部屋を後にする。
◇
そういえば、エーテルたんは以前、聖女マリアンと同居していたはずだ。彼女の服は無かったが、別の部屋にあるのだろうか?
聖女マリアンは一度、クラングラン教会に戻った後、旧カザイン領に住まいを移したと聞く。
引っ越しの際にすべてを持っていったのかもしれない。
私がつらつらとそんなことを考えている間にも、『憂鬱なる灰色ネズミ』が次なる部屋のドアを開けた。
そこは小部屋だった。
ベッドに本棚。机、チェスト。屋敷に似合わない細々とした質素な家具。
恐らく、これが聖女マリアンの部屋だったのだろう。
『憂鬱なる灰色ネズミ』がズカズカと踏み入って、ベッドのシーツをめくったり、チェストを開けたりした。
チェストの中には女の子らしい服がいくつか残っていた。それらを、ポイッポイッと放り出し、あさる。
まったく、なんというデリカシーのない男だ。
私は放り出された服を、ひとつひとつ丁寧に畳んでいった。
親友の部屋のあらされた惨状を目にしたエーテルたんが、どんな気持ちになるか、考えろ、と言いたい。
「どこにもない。なんだこの部屋は。怪しいものの一つもないじゃないか」
『憂鬱なる灰色ネズミ』がわめいた。
うら若い女性の部屋に、怪しいものがないからといって怒るのは、理不尽というものだ。
ましてや、聖女と呼ばれた女性の部屋である。
「なにが天才だ。こんな普通な部屋に住みおってからに」
『憂鬱なる灰色ネズミ』は、まだいきりたっている。
「そもそもここは、彼女の部屋じゃないと思うがね。かつて、この屋敷に同居していた聖女マリアンの部屋だろう」
ピタリと『憂鬱なる灰色ネズミ』が動きを止めた。
「それを早く言え、馬鹿が」
ええ……。なに、この人。最悪なんだけど。
だが、物事とは中々に良くできているものだ。
聖女の部屋をあらしにあらして、尊い協力者の私に罵声まで吐いた『憂鬱なる灰色ネズミ』は、早々に罰を受けることになった。
次の部屋へ向かう途上、廊下に椅子が一脚ポツンと置かれていた。
それもひじ掛けつき、クッションありの、座り心地の良さそうな椅子だ。
ふん、気が利くじゃないか、というような偉そうな態度で、『憂鬱なる灰色ネズミ』が座る。
ガチャンと音がした。
ひじ掛けから金属の手枷が伸び、背もたれから、胴を縛める金属枷が伸び、『憂鬱なる灰色ネズミ』を一瞬で拘束した。
「おい、なんだこれは。どういうつもりだ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が私を睨む。
私に言われても困る。勝手に座るからだ。
「見てないで、なんとかしろ」
私はゆっくりと『憂鬱なる灰色ネズミ』を拘束する枷を調べた。
あまり熱心ではなかったことは、言うまでもないだろう。
「さっぱりわからない。諦めてくれ」
適当に調べる振りをしてから、言った。
人間、諦めは重要だ。
『憂鬱なる灰色ネズミ』には、残りの人生をこの椅子とともに歩んで欲しい。
「ふざけるなよ。この役立たず」
「君、口を慎みたまえ。状況は君にとって、とても不利だぞ」
私は『憂鬱なる灰色ネズミ』の額に、指を突き付けて言った。勢いがありすぎて爪がプスッと突き刺さった。
ぐおっ、と、うめく『憂鬱なる灰色ネズミ』。どうだ、思い知ったか。
負けないと分かっている状況では強気になる。人とはそういう生き物なのだ。
『憂鬱なる灰色ネズミ』が口ぎたなく私を罵る。これぞ、負け犬の遠吠えというものだろう。
人間、こうはなりたくないものである。
とはいえ、いつまでもこのままというわけにはいかない。
どうやら、椅子は床から離れないようで、椅子と拘束された『憂鬱なる灰色ネズミ』は、立ち上がることもできない。
「魔法でどうにかできないのか? 君、一応、魔法使いなのだろう?」
「一応とはなんだ。私は魔導師だぞ」
「それなら、魔法でなんとかしてみたらいい」
「杖がない」
「そういえば、持っていないじゃないか。どこに置いてきたんだ」
まったく、杖のない魔法使いなど、ただの『使い』ではないか。
「あそこだ。あの虫みたいなやつに襲われたところに忘れてきたんだ。おい、取ってきてく」
「それは無理だ。杖のことは諦めてくれ」
あんな気持ち悪い生き物が、群れをなしている場所に行くのは、絶対に嫌である。
「冗談を言ってる場合じゃないぞ」
「君だってあの廊下に戻りたいとは思わないだろ? つまりそういうことだ」
「私の杖だぞ」
「もちろん、そうだ、君の杖だからだ」
自分の大切なものを取りに行くのならばいざ知らず、である。
「ともかく、君はそこで待っていたまえ。なにか、方法を探してこよう」
「おい、待て」
私が『憂鬱なる灰色ネズミ』に背を向けて、別の部屋へ向かおうとした時である。
ガチャンと天井から銀色の金属の巨大な筒のような物が落ちてきて、『憂鬱なる灰色ネズミ』を椅子ごとスッポリと覆ってしまった。
ぐあああっ、とくぐもった悲鳴。
「お~い。大丈夫か?」
金属筒に呼びかけてみた。
返答はなく悲鳴だけが続いている。
金属筒に触るのは危険だ。かといって見ていてもどうしようもない。『憂鬱なる灰色ネズミ』が憎たらしい奴だとはいえ、彼の悲鳴を聞いても嫌な気分になるだけである。
私は彼を置いて次なる部屋へと向かった。煮詰まったら一度現場から離れてみると、案外良い解決策が生まれるものである。
◇
その部屋は、まるで大きなすり鉢だった。部屋の床に穴が開いており、中央に向かって急角度で傾斜している。
一体、なにに使われていた部屋なのか、さっぱりわからないまま、私は穴の中に入ってみた。
すると、突然、なんの兆候もなしに、床が回り出したのだ。もちろん、私も一緒に回った。
グルグル、グルグル。
次第に回転が速くなる。
やばい、これは、マジで死ぬ。
遠心力によって、私の体の中のいろんなものが片側に寄っていく。
かといって、脱出できるような状況ではなかった。
吹っ飛ばされないように四つん這いになって、床にしがみつくように耐えるのが精いっぱいだ。
うう死ぬ、もう駄目、死んじゃう。
私の頭の中を、過去の映像がよぎっていく。人が死ぬ間際に見るという、アレである。
幼なじみに愛の告白をして、こっぴどく振られたことや、冒険者として初めての仕事で魔物を目にして小便を漏らしたことや、恋人に金を貸してそのまま行方をくらまされたこと、などなど、できれば思いだしたくなかったことが、思いだされていく。
死ぬ前にこれはひどい仕打ちである。できれば、もっと楽しい思い出がよかった。
始まりと同じように、唐突に、回転が止まった。
ひいひい、言いながら、穴から出る。
命が助かったという幸福感よりも、私の人生はろくなことがなかったな、という地味に不幸せな気分であった。
ふらふらしながら廊下に戻る。
結局、なんの部屋だったのかはわからないが、一秒たりともあの部屋に留まりたくはなかった。
見ると、『憂鬱なる灰色ネズミ』を覆っていた金属筒が、無くなっていた。
彼を拘束していた枷も無い。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は無事に解放されていた。
グッタリとして肩に頭を預けている。気を失っているようだ。
そして、ここが肝心なのだが、彼の腹部辺りから、もう一つ頭が生えていた。
どうやら、『憂鬱なる灰色ネズミ』は人間を辞めてしまったらしい。
私はかなり迷った挙句、『憂鬱なる灰色ネズミ』に近づいた。不気味だし近づきたくはなかったのだが、放り出しておくには私の血は温かすぎた。
腹の辺りから生えている頭は、緑色の肌に白い髪の老人のものだった。
ギョロッとした目が、私をジロリと見て、それからニタリと笑った。
凍り付く私。
老人の生首がポロっと『憂鬱なる灰色ネズミ』の腹から落ちた。
生首の下には、ドロッとした黒っぽいスライムのようなものが、くっついていた。
ベッタン、ベッタン、と奇妙な音を鳴らして、緑色の生首は廊下の奥へと消えていった。
私は『憂鬱なる灰色ネズミ』の頬をパンパンと張った。
あんな恐怖体験をした後である。一人でいるのは心細すぎる。
うっ、と『憂鬱なる灰色ネズミ』が声をあげた。目を開ける。
「いったい、なにがあったんだ? うん? 拘束が解けているじゃないか」
椅子から立ち上がる。
「なんだか、頭がスッキリしているな。体も軽い。実にいい気分だぞ」
拘束されたまま金属筒に閉じ込められたことが作用したのか、あの不気味な生首に取りつかれていたことが作用したのか、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、元気になっていた。
顔の血色も良い。
まあ、元気になったのならば良しとしよう。体になにか寄生されているかもしれないが。
ある日、突然、『憂鬱なる灰色ネズミ』の腹から、緑色の老人の生首が生えて……。
よそう、気分が悪くなってしまう。
◇
元気になった『憂鬱なる灰色ネズミ』と一緒に、続きの部屋へと入る。
その部屋には、緑色の蔦がまるで蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。
しかも、ウネウネと動いている。
「おお、これは白の塔に巻き付いたという魔法生命ではないか?」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が、蔦に誘われるように、フラフラと部屋へ入っていく。
そして、たちどころに蔦に絡めとらてしまった。
「おい、見てないで、なんとかしろ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が私を睨んで言った。
なぜ、彼は無防備にも罠にかかっておいて、こんなにも偉そうなのだろうか。
もし、私が彼の立場だったら、泣いて懇願するだろう。
ともかく、私が部屋に踏み込んでも、ミイラ取りがミイラになるだけのことである。
「放っておいたら、解けるんじゃないのか。さっきもそうだったじゃないか」
その可能性は低そうだが、私は保身のために言った。大人とは常に保身に走るものなのだ。
ぐおぉぉ、と『憂鬱なる灰色ネズミ』が、凄い顔で声をあげる。
「ち、力が、みなぎる、みなぎるぞ」
どん、と『憂鬱なる灰色ネズミ』の体が二回りほど膨らんだ。
シャツが破れ、ムキムキの胸筋がむき出しになる。顔には血管が浮き上がり、目は血走っている。
えっ、なにそれ。意味がわかんないんだけど。
呆気に取られる私の前で、『憂鬱なる灰色ネズミ』がブチブチと蔦を引きちぎった。
わっはっは、と豪快に笑う。
明らかに別人格に入れ替わっている。
「なんだか知らんが、無敵な気分だ」
マッチョになった『憂鬱なる灰色ネズミ』が、ムキムキと筋肉を動かしながら言った。
「なんだか知らんがな」
明らかに、後から副作用がくるパターンだ。きっと『憂鬱なる灰色ネズミ』は突然苦しみだして、体が、体があぁ、とかもだえるに違いない。
「なにをぼさっと突っ立ってる。ほら、行くぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が私の背中を叩いた。
バチンと大きな音がして、背骨が折れそうな強烈な痛みが、私を襲った。
副作用が出たら、たっぷりと仕返しをしてやろう。
鼻歌を歌いながら隣を歩く『憂鬱なる灰色ネズミ』は、変身前の三倍は鬱陶しかった。
うんざりとしながらも、彼とともに次々と部屋を探索していく。
基本的に、一体、どういう用途なのか謎に満ちた部屋ばかりだった。
怪しく、危険な匂いが満ちていた。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は臆することなく、それらの部屋に立ち入り、散々な目にあっていた。
だが、ポジティブなマッチョマンに変身した彼は、まったくへこたれなかった。
◇
やがて、とうとう私たちは、目的の部屋にたどり着いた。
恐らく、この屋敷の中枢ともいうべき、研究室だ。
巨大な円筒形の青い色の液体に満たされたガラス筒。
やたらとでっぱりの多いなにかの装置。
棚にずらりと並ぶ瓶詰。中に入っているのは、どう見ても人体の一部っぽく、おぞましさが漂っている。
山積みになった本。
バケツに入った謎のヌメヌメした生き物。そして床に、ところ狭しと描かれた魔法陣の数々。
「ついに突き止めたぞ。ここにあの天才の研究成果の痕跡が残っているに違いない。横取りしてやるぞ」
あっはっはっは、と笑う『憂鬱なる灰色ネズミ』。そんな情けない宣言を、声高らかにしなくても良いだろうに。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は、今までの部屋でもそうだったのだが、ズカズカと無遠慮に研究室に踏み込み、本を倒したり、魔法陣を踏んづけたりしながら奥へと進んだ。
エーテルたんへのリスペクトをまったく感じないこの態度に、私は不快感を感じた。
こんな輩に、エーテルたんの研究を盗まれても良いのだろうか?
この屋敷で起こったできごとを鑑みるに、エーテルたんがろくな人間ではないことは良く分かっている。
きっと彼女は研究成果を、私的でなおかつ迷惑な方向に役立てていくに違いない。まさに邪悪淑女エーテルたんである。
一方、『憂鬱なる灰色ネズミ』はどうだ?
彼は自分の出世のために、社会にとって役に立つ方向に横取りした研究成果を展開していくことだろう。
……あれ、まったく問題ないじゃん。
むしろ、『憂鬱なる灰色ネズミ』が横取りした方が、世の中のためになりそうだ。
私の義憤は、すうっと消えてしまった。
とりあえず、『憂鬱なる灰色ネズミ』が倒した本を、ちまちまと戻す。
それらの本の一冊一冊、タイトルは魔法文字で書かれていて読めないのだが、なにかおどろおどろしさを感じる。
きっと、人道的にいけないことが、たくさん書かれているのだろう。
「なんだと。『巨大空中生首アルフレッド』……。なんという壮大な構想だ」
奥の机で研究資料らしきものを読んでいた『憂鬱なる灰色ネズミ』が、声をあげた。
飛びだした単語からして、ものすごく陳腐なのだが、彼の興奮だけは伝ってくる。むしろ、それ以外はまったく伝わってこなかった。
おおっ、うおうっ、と研究資料を読んで興奮する『憂鬱なる灰色ネズミ』。
私はだんだん退屈になってきた。だからといって、この部屋の中は、暇つぶしに見て回るには不快すぎた。
三百六十度、どこを見ても生理的にアウトな感じである。
「なあ、君。ともかくその本を持って外に出ないか?」
私は『憂鬱なる灰色ネズミ』の背中に言った。
「『遠距離通信型魔法生命』だと……。なるほど、そんな方法が。すごいぞ、さすが天才だ」
相変わらず興奮気味に研究資料をめくる『憂鬱なる灰色ネズミ』。
仕方がない。彼はこのままにして、私は廊下で待とうか。だが、すぐに頭を振った。
あの気持ち悪い生首が現れたら、怖いではないか。
もう一度『憂鬱なる灰色ネズミ』に声をかけた。だが、相変わらず、なしのつぶて。
私は部屋を出ることを諦め、壁に背を預けた。腕を組んで目を閉じる。
こうしていれば、眠っていても何か考え事をしているように見えることだろう。
◇
どれくらい時が経っただろうか。
すっかり眠っていた私は、体を傾がせてしまい、あわや横倒しになるところだった。
やべ、危ない、危ない、と慌てて踏ん張る。その時、壁に手をついたのだが、その壁が、ズズズっと、へこんだ。
「隠ぺいモード発動します」
無機質な声が部屋に響いた。
部屋がグラグラと激しく揺れる。
「おい、なにをした」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が叫んだ。
「わからない。出るぞ」
危険を感じ、部屋を出ようと走る。
だが、その時、ふいに、足をつくべき床が消えた。
浮遊感。落ちていく感覚。
私は悲鳴をあげた。ほわわあっ、とか変な声だったと思う。
落ちる、落ちる。
一体、どこまで落ちるのか。
おかしい。
屋敷の高さを越えるくらいは落ちているはずなのに、まだ落ち続ける。
勢いよく水面に叩きつけられた。
激しい痛みが全身を襲う。だが、そんなことに構っている余裕はなかった。
なにしろ、水中に放り込まれたのだ。しかも、暗闇。
中々体験する機会はないと思うが、真っ暗な水の中というのは、とても怖いものである。並大抵の恐怖ではない。
私は必死に水をかいた。
水面がどちらかすらわからないまま、もがいた。
幸運にも、その手が空気をつかんだ。
水の外だ。
私は水から頭を上げると、存分に空気を吸った。
だが、水の外も真っ暗闇だ。
私は急いでベルトのバックルにつけている光石を灯した。
ぽうっと私の腰が明るく光る。
私は上を見上げた。
はるか上方に四角い光が見えた。どうやら、あそこから落ちてきたようだ。
それにしても、屋敷の地下にこんな空間があるとは。
暗いので、はっきりとはわからないが、地底湖といった雰囲気がある。遠くに見える壁面はゴツゴツとした岩壁だ。
ともかく、水から上がるとしよう。
私は立ち泳ぎしながら、少しずつ移動した。そういえば、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、どうしたのだろうか?
おぼれ死んでしまったのだろうか?
特に残念な気持ちは起こらないが、心細さはある。
そんなことを思っていると、後方でバシャバシャ、と泳ぐというよりは水を叩くような音が聞こえてきた。
「なんだ、生きていたのか」
私は思わずつぶやいてしまった。
まあ、あんな男でもいた方がいい。孤独を楽しむには、ここは暗く広すぎる。
振り返ると『憂鬱なる灰色ネズミ』が、溺れかけているのが見えた。
仕方がない、助けてやろう。そして、思いっきり恩に着せてやろう。
溺れかけた『憂鬱なる灰色ネズミ』にしがみつかれ、あわや私まで溺れそうになったが、なんとかかんとか、陸地までたどり着いた。
二人とも濡れそぼっている。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は『憂鬱なる濡れネズミ』になっていた。
クションクション、と二人してクシャミを繰り返しながらも、水辺に座る。
「おい、ここはどこだ。どうなってるんだ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が、寒そうに震えながら言った。
私に目を向けては、そらすというような態度である。
きっと水中でしがみついたときに、ダボっとした服の上からではわからなかった私のナイスなボディに、圧倒されたのだろう。
「どうやら屋敷の地下のようだ。侵入者を排除するための仕掛けかもしれない」
壁の仕掛けを作動させてしまったことは黙っていた。
隠ぺいモードを発動すると言っていたことを鑑みるに、エーテルたんが、実験を隠ぺいするための装置なのだろう。
要するに、あの部屋で研究されていたことは、見つかったら、非常にまずいものらしい。
さすがは我らが邪悪淑女エーテルたんである。
◇
私は探偵の嗜みとして、大帝石は一通り持ち歩くことにしている。
水石、熱石、光石、火石。
火石を使って、火を起こす。少しでも凍えた体を温めねば、と思ったのだ。
よく見ると、『憂鬱なる灰色ネズミ』は、マッチョマンから、もとの痩せっぽっちに戻っている。
一体、あれがなんだったのかわからないが、間の悪いことである。
こういうサバイバル的な状況でこそ、筋肉がものをいいそうだというのに。
火石が出している小さな火で、二人して温まる。
「ともかく、中を見て回った方がいいな。脱出口が見つかるかもしれん」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
相変わらず視線を泳がせ気味である。
「そうだな。ここに座っていてもどうしようもない」
私は立ち上がった。
光石はベルトのバックルのほかにも二つ持っていたので、一つを『憂鬱なる灰色ネズミ』に渡した。
親切心というよりは、光源を求めて寄り添われると気持ち悪いからである。
すぐに探索は終わった。
だいたい、半径五十メートルといったところだろうか。
地下空間は円形になっていた。
囲う岸壁はゴツゴツとした岩肌ながら、垂直に切り立っており、上っていくのは不可能に見える。
しかも、半透明のドロッとした粘体がそこらかしこにくっついていて、気持ち悪い。
「あとは水中を調べるしかないな」
ひと回りした後、ため息をついて言った。
「君、なにか魔法は使えないのかね?」
「だから杖がないと言っているだろう。貴様があの時、取りにいかなかったからだ。杖さえあればこんなところ簡単に脱出できるというのに」
えっ、なにそれ、人のせいにして。
私が悪いと言わんばかりである。というか、はっきりと私を責めている。『憂鬱なる灰色ネズミ』は、本当にろくでなしである。
「そもそも、大切な杖を落とす方が悪いのでは」
「貴様が私を置き去りにして逃げるからだ」
「あの状況で逃げるなという方が、不可能というものだね」
私たちは口ぎたなく罵りあった。
脱出口が見つからなかったという徒労感のせいである。
終盤は「馬鹿」「アホ」と言った幼稚な罵り言葉となり、最後は、お前とは口きかないもんね、という感じで顔を背け合った。
闇の中、膝を抱えて座る私たち二人。
重苦しい沈黙を破ったのは、『憂鬱なる灰色ネズミ』の腹の音だった。
一度は聞こえない振りをしたのだが、『憂鬱なる灰色ネズミ』の腹は、激しく空腹を訴えてやまなかった。つくづく身も心も迷惑な男である。
「なにか食べられそうなものを探してくるよ」
私は立ち上がると、言った。
どうだ、この私の懐の大きさは。
ケンカして、口も聞きたくないのに、仲直りのきっかけを作る度量。偏狭なる『憂鬱なる灰色ネズミ』にも見習って欲しいものである。
だが、『憂鬱なる灰色ネズミ』は無視した。そっぽを向いたままである。人がせっかく仲直りの一歩を踏み出してやったというのに。
まあいい。
ここで座っていても埒が明かないのは確かである。食料を探すついでに、水中を探索してみよう。
私は全裸になると、頭にベルトを鉢巻のようにつけた。
「気をつけろよ」
ボソリ、と『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
えっ、なにそれ、可愛いんだけど。
中年男の態度にハートフルな気持ちにさせられてしまった。
普段ツンツンしたあいつがふいに見せた優しさ、的なやつである。
「ああ、まかせておいてくれ。泳ぎは得意なんだ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』に言うと、私は意気揚々と水の中に入った。
段々と深くなるというタイプではなく、いきなり深いタイプである。
私はまず、壁面沿いに下に向かって潜っていった。一体、どのくらいの深さがあるのか調べたかったのだ。
ほどなくして底が見えた。
岸壁と同じく、ゴツゴツとした底。砂のようなものが沈殿している。
生き物らしきものは見あたら……。
いや、なにかニョロニョロとしたものが生えているのが見えた。
赤黒い触手のようなものが、ワッサワッサと揺れている。
ひょっとしたら食べられるかもしれない。
触手に近づくと、触手の方でも近づいてきた。私の体にニュルニュルと巻き付いてくる。
拘束されるというほどの強い力ではない。泳ぐのに支障はない。
私は触手を体に巻き付けたまま水面に浮上した。
よっこらせっ、と陸に上がる。
触手はピタリと体に巻き付いたままである。
ついでに、岩壁にくっついている半透明のブヨブヨしたものも採っていく。
これもひょっとしたら食べられるかもしれない。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は、戻ってきた私を見ると、ギョッとした顔になった。慌てて目をそらす。
きっと、触手が私のナイスなボディに巻きついた様が、卑猥だったのだろう。
「遅かったな。死んだかと思ったぞ。まあ、死んだところで惜しくはないがな」
言葉の割には声が優しげである。
『憂鬱なる灰色ネズミ』はツンデレなのだろうか。
私は、手に集めてきた半透明のブヨブヨを地面に置くと、体に巻き付いている触手を引っぺがして、それも置いた。
「おい、なんだ、これは」
「食べられるかもしれない」
「ふざけるな。こんな怪しげなもの食べられるわけがなかろう」
「だが、ほかに食べられそうなものは見当たらなかった」
「こんなものを食べるくらいなら、飢え死にした方がましだ」
せっかく人が苦労して採ってきたというのにこの態度である。まあ、かくいう私も、自分が食べろと言われたら断固として断るが。
幸い、水には事欠かなかった。水石も持っているし、なによりも、目の前には大量の水がある。飲料水にして大丈夫かどうかは定かではないが、とにかく水はある。
人間、水があれば、すぐには死なない。
◇
私はしばらく休んだ後、再び、水中探索へと赴いた。
『憂鬱なる灰色ネズミ』と二人して座っていても。苦痛なだけである。
潜るたびに、触手を巻き付けて戻ってくるので、『憂鬱なる灰色ネズミ』の側にはワサワサと、うごめく触手が山積みになっていった。
発見したものといえば、いくつかの人骨や、恐らく部屋の底が抜けたことで一緒に落ちてきた研究室のもろもろくらいである。
役立ちそうなものは手当たり次第に拾ってきた。
おかげで、『憂鬱なる灰色ネズミ』の側には触手の山のほかに、ガラクタの山が積み上がった。
そんなことをしていると、さすがに私の腹も限界にきた。
出す方は、水中でこっそりしていたが、入れる方は、まったくのノータッチである。要するに私は空腹になったのだ。
それも、不気味な触手でも腹に入れられるんなら、それでいいんじゃなかろうか、というほど切羽詰まった空腹感である。
「それを食べたらいいんじゃないのか?」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
私の圧倒的な自己主張をする腹の音を、聞きとがめてのことだ。
その『憂鬱なる灰色ネズミ』の方は、腹が減りすぎて辛いのか、それともただ拗ねているだけなのか、ゴロンと横になって背を向けている。
「君こそ、そろそろ限界だろう? 食べたらいいんじゃないのか?」
「いや、私はまだ平気だが、貴様は厳しいだろう。なにしろ、さんざん動き回っていたのだからな」
『憂鬱なる灰色ネズミ』も私と同じことを考えている。
つまり、これはもはや、怪しげな触手か半透明のプルプルを食べるしかないのだが、自分が先に食べるのは嫌だ。安全を確かめてからにしたい、という考えである。
「どうぞ先に食べてくれ。私は君の後からでいい」
「貴様こそ、先に食べるんだ。なに、遠慮することはない」
そんなやり取りの末に、結局、どちらも食べずに終わる。
だが、互いに押し付け合い、引き延ばすにも限界があった。
どれくらいの時間が経っただろう。
空腹のあまり、どちらも動けなくなり、寝たり、起きたりしながら、たまに口を利く、というような状態になっていった。
とうとう目がかすみだし、食べるか、あるいは死か、というまでに私たちは追い詰められた。
私はついに決断した。
水中で目にした人骨が、ここで死ぬのは割とありふれていることである、という認識を与えていたのだ。
あんな風になるのはごめんだ。
まだしも食べやすそうな、半透明のブヨブヨを口に含む。
味はない。触感は思った通り、硬めのゼリーといったところか。よく噛んで、嚥下する。喉ごしも、まあ、悪くはない。
もう食べてしまったから、後はどれだけ食べても同じだろう、というような考えで、私は残りのブヨブヨをがっついた。
胃袋が突然の食べ物に驚いているのがわかる。
食べたら急に眠くなった。
私は、自分がこのまま死んでしまわないことを祈りつつも、眠りについた。
◇
再び目を覚ました時、私はかつてないほど気力も体力も充実していた。
あの半透明のブヨブヨは、ひょっとしたら、とんでもない栄養があるのではないか?
すっかり元気になった私は、壁に行って、採れるだけのブヨブヨを採ってきた。
「君も、食べたまえ。特にまずくもないし、毒もないぞ。それどころか、元気になれる。こんなことなら、もっと早く食べれば良かったよ」
私は、むしゃむしゃとブヨブヨを食べながら、言った。
グッタリとして死にかけていた『憂鬱なる灰色ネズミ』が、最後の力を振り絞るように、私と、こんもりとしたブヨブヨの山を見比べる。
そして、ついにブヨブヨに手を伸ばした。
私は彼の弱々しい手に、ちぎったブヨブヨを渡した。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は、何度か躊躇しながらも、それを口の中に入れた。ゆっくりと咀嚼。飲み下す。
「うまい」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言って、笑った。
「そうだろう」
私も笑い返す。
同じ物を食べ、笑いあう。それは心を繋げるための近道である。
私と『憂鬱なる灰色ネズミ』は、そのことをきっかけにして、急速に親しくなった。
互いの今までの人生について話したり、愚痴を言ったり、のろけたり。
打ち解けてみると『憂鬱なる灰色ネズミ』は、いい奴だった。ユーモアもあり、情に厚い部分もある。
私たちは協力し合って、何度となく脱出を試みた。
だが、垂直に切り立った壁はあまりにも高く、どうやっても半分以上のぼることはできなかった。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は早々に諦め、半透明のブヨブヨを食べては寝て、食べては寝て、を繰り返すようになった。
私は諦めなかった。
特に待っている人がいるというわけではない。家族もいないし、恋人もいない。友達もいない。
私は、ただ行きつけの酒場で、仕事終わりの一杯を飲みたいだけなのだ。
そのためには、何度だって上ろう。
何度だって……。
◇
「なあ、君。今、何月だろうな?」
「あ~ん? さあなあ」
「夏かな、冬かな」
「さあなあ。どうでもいいだろ。私たちには関係ないことだ」
「まあ、そうなんだが」
私は、ため息をついた。
暗闇だ。
いや、薄っすらと、はるか高みに光は見える。だが、その光は私たちのいるところまで届かない。
持っていた光石の効果が切れた後、私たちは暗闇に取り残された。
『憂鬱なる灰色ネズミ』は魔法使いの癖に、灯りも灯せなかった。
いや、これを本人のせいにするのは酷だろう。杖もなく、魔法陣すら描けない状況では、魔法使いといえど、ただの『使い』なのだ。
幸い、私たちは壁のすぐ近くに拠点を移していた。
手探りで、半透明のブヨブヨを取れるし、水場もすぐ側にある。
暗闇でもなんとかなった。
とはいえ、暗闇の中、壁上りをするのは、さすがに無謀だった。
一度、試みた後、あまりの恐怖に、二度とチャレンジする気は起きなかった。
そういったわけで、私も『憂鬱なる灰色ネズミ』と同じく、食っちゃ寝の怠惰な生活をしている。
もはや、時間の感覚は完全に失われており、ここに来た日から何日が経ったのか、まるで見当がつかなかった。
「なあ、エーテルたんがいつか、見つけてくれると思うかい?」
「さあなあ。天才の考えることはわからん」
『憂鬱なる灰色ネズミ』は、すっかり投げやりになってしまった。
貴様とか言っていた頃が懐かしい。
私たちはこのまま、ここで死んでいくのだろうか?
その時だった。
突然、まばゆい光が世界を照らした。
私はそのまぶしさに、悲鳴をあげて目を押さえた。
「おや、誰かいらっしゃるのですか?」
女性の声がした。
まぶしさに目を開けることができない。
側で、『憂鬱なる灰色ネズミ』も私と同様、うめいている。
「なるほど。あなた方が『隠ぺいモード』を作動させたのですね。納得しました」
女性が言った。すぐ側に来ているようだ。
「私はこの屋敷の主。エーテルと申します。よろしくお願いします」
淡々とした口調である。
「ひ、光を消してくれ。ま、まぶしい」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
目を閉じているにも関わらず、瞼を通して、ひりつくような痛みが目玉を刺すのだ。
「すみません」
言って、エーテルたんが光を消した。
私は顔を覆っていた手を剥がした。目を開ける。
もとの通り暗闇だ。だが、その中で、じんわりとシルエットが浮かび上がっていた。
とんがり帽子にマント。肩のところで切りそろえた髪。
「お二人は侵入者ということで、よろしいのですよね」
「そうだ。私は探偵。こちらのバルザック氏の依頼で、この屋敷の調査に来た者だ」
長い暗闇での怠惰な生活は、嘘をつく手間を惜しませた。
「おや、ずいぶんと恰幅が良くなられていますから気が付きませんでしたが、確かにバルザック様ではありませんか」
「そうだ。君とは初対面ではないぞ」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が、偉そうな口調で言った。
「これは困りましたね。素人ならば解放してさしあげようかと思ったのですが。同業者では支障があります。トゥリスが消滅したとはいえ、禁術を嫌う輩も多いですし」
エーテルたんの口調は相変わらず淡々としており、言葉とは裏腹に特に困っているようには聞こえなかった。
「仕方がありません。殺しましょう」
なんの葛藤も躊躇もせずに、彼女は言い切った。
「そもそも勝手に屋敷に侵入した方が悪いわけですし」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君の研究成果を調べることは、ほとんどできなかった。本当だ。禁術など私は知らん」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が言った。
「そうですか。ですが、もう私が禁術の研究を行っていることはバレてしまいましたね。やはり殺しましょう」
ボッと宙に大きなオレンジ色の球体が現れた。
突然の強い光に、私と『憂鬱なる灰色ネズミ』が悲鳴をあげる。
「灰も残さずに焼きます。さようなら」
私は必死で瞼を開けた。
オレンジの光に照らされ、エーテルたんの顔が見えた。
彼女の整った相貌は、まさに邪悪としか言いようがないほどの、いびつな笑みによって彩られていた。
「待ってくれ。殺すのは私だけにしてくれ。そいつは、見逃してやってくれ。頼む」
『憂鬱なる灰色ネズミ』が叫んだ。
次の瞬間、光の爆発が起こり、私の感覚は飲み込まれていった。
◇
この日、私はいつものように『三日月』亭のカウンターの端に陣取り、仕事終わりの一杯を楽しんでいた。
「いつもありがとう、助かったよ」
中性的なバーテンダーが言って、私に微笑みかける。
ロビンの妙に色気のある微笑に、私はゾクリとした。彼、あるいは彼女目当ての客が多いのも頷ける。
私は、ロビンがそっとカウンターに置いた小袋を、ポケットにしまった。
今回の仕事の報酬である。ロビンは私の大得意だ。
「そういえば、あなたに会いたいというお客さんがいてね。もうそろそろ来るんじゃないかな」
私は挙動不審になった。
すっかりオフモードになっていたというのに、いきなり、なんだよ、という気分である。
「ああ、仕事じゃないよ。ここ半年ほどの記憶がないと言っていたよね。彼もそうらしいんだ。会ってみたら、あなたたちになにがあったのかわかるかもしれないよ」
そう、私は、今年の三月末から九月末までの記憶がない。スッポリと抜け落ちているのだ。実に不可解なことである。
そんな私と同じ症状のある人物。確かに、会う価値がある。
ドアが開く音。
私は勢いよく振り向いた。
灰色のマントに灰色の帽子。見るからに魔法使いという装いの中年男が入ってきた。
小太りで目元に険がある。
私は既視感を覚えた。最近、どこかで会った気がする。
ロビンの笑顔に誘われるように、魔法使いはカウンターにやってきて、私とひとつ席を開けた場所に座った。
「ちょうどあなたの話をしていたところなんですよ、バルザックさん。こちらが、例の探偵さんですよ」
ロビンが私をそう紹介する。
バルザックが私の方を向いた。その目が見開かれる。
この反応にはなれている。探偵という職業柄だろうか、私は若い男性と誤解されていることが多いようだ。
だが、バルザックが驚いた理由は、私にとっては馴染みのあるそれではなかった。
「どこかで会ったか。どうも見覚えがある気がするのだが……」
彼も私と同じように既視感を覚えたようだ。
「私も君に会ったことがある気がするよ。どこで会ったのか、まったく覚えていないのが不思議なんだ。つい最近のような気がするんだけどな」
「記憶を失くしている間に会ったんじゃない?」
たぶんロビンの言う通りなのだろう。
私はバルザックに手を出した。
「よろしく、『憂鬱なる灰色ネズミ』さん」
言ったあとに、私は首を傾げた。
なぜ、バルザックをそんな風に呼んだのだろうか。しかも、妙にそれが馴染んでいた。
一方、ネズミ呼ばわりされたにも関わらず、バルザックは気にした様子もなく、むしろ照れ臭そうにしながら、私の手を握った。
今日の仕事は娼婦への聞き取り調査だったこともあり、歓楽街で浮かないように私の服装は露出度が高い。それで照れたのかもしれない。
「なんだか、二人ともしっくりくるね。お似合いだよ」
ロビンが言って、バルザックの前にグラスを置く。
「忘れられた半年に」
私はグラスを掲げた。
ぼおっと私を見ていたバルザックがグラスを掲げる。それから悩まし気な顔で、うなった。
「絶対に会ったことがあるのだがなあ」
私を見て、グラスを見て、また私を見る。そんな姿が、どこか戸惑うネズミを連想させた。
『憂鬱なる灰色ネズミ』、確かに彼にピッタリのあだ名だ。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
楽しんでいただけたのならば幸いです。




