第四章其の参 鏡像
太陽が中天に昇り、ハヤテの部屋の扉がノックされた。
「……ハヤテ様。お昼ご飯をお持ちしました」
「ああ、フラニィ。どうぞ」
する事もなく、粗末な寝具の上でただ寝転がっていたハヤテは、フラニィの声にむくりと身を起こす。
ハヤテが靴を履いて立ち上がると同時に、ドアを開けてフラニィが入ってきた。
彼女は朝食の時と同様、いくつかの皿がのった盆を運んでいる。
「――ありがとう。いい匂いだね」
ハヤテは、テーブルの席に腰を下ろしながら、穏やかな笑みをフラニィに向けた。
彼女は、焼いた塊肉の載った小皿をハヤテの前に置きながら、はにかみ笑いを浮かべた。
「朝、ハヤテ様に言われた通りに、ハヤテ様の料理にタリツを多めに入れさせました。お口に合えばいいんですけど」
「そうか。ありがとう」
ハヤテは頷くと、姿勢を伸ばして、
「じゃあ……いただきま――」
「あ、ハヤテ様。――その前に」
早速食べようとしたハヤテを制したフラニィは、懐から小さな丸い板状のものを取り出した。
「ん? ――それは?」
「これも、朝頼まれていた――鏡です。少し小さいですけど」
「あ……」
ハヤテは、思わず頭を掻いた。
「そういえば……確かに頼んでいたね。ありがとう、さっそく持って来てくれて」
「いえ、他ならぬハヤテ様のお頼みでしたから!」
ハヤテに礼を言われたフラニィは、嬉しそうに尻尾をブンブンと振りながら、丸い鏡をハヤテに差し出す。
「どうぞ」
「……うん」
ハヤテは頷き、自分の顎を指で一撫でしてから、彼女から丸鏡を受け取った。
そして、鏡を自分の顔に向けるが、思わず目を伏せてしまう。
彼の様子を見たフラニィが、心配そうに声をかける。
「……どうなさいましたか?」
「あ……いや……」
フラニィの問いかけに、ハヤテは目を閉じたまま困り笑いを浮かべた。
「……実のところ、俺はこの世界で目覚めてから、一度も自分の顔をきちんと見た事が無いんだ」
「あ……」
「森の中には鏡なんて無かったしね。川の水の反射で確認する事も出来たかもしれないけど、あの時は、わざわざ自分の顔を確認しようなんて考えもしなかったし……。ここに来てからは、顔を映せるものが周りになかった……」
「……そうですね。――でも」
ハヤテの話に頷きつつ、フラニィは眉根に皺を寄せながら首を傾げた。
「それは当然じゃないですか? 自分の顔なんて、ずっと前から見慣れていますし。普通は、わざわざ確認しようなんて考えないと思います」
「……そうだよね」
神妙な顔のフラニィに苦笑いを向けて、ハヤテは言葉を継ぐ。
「――でも、今の俺は、そこに自信を持てないんだ。……今の自分の顔が、果たして自分が思い描いている通りの顔なんだろうか――ってね」
「……今の顔が、別人の顔かもしれないって――事ですか?」
「……いや」
ハヤテは、驚きに満ちたフラニィの言葉に、静かに首を横に振った。
「――どちらかと言うと、逆だな」
「逆……?」
「うん」
訝しげに訊き返したフラニィに頷いたハヤテは、微かに震える声で言葉を続ける。
「……『俺が自分のものだと思い込んでいる顔は、本当は全くの赤の他人の顔なのではないか?』……つまり」
――『自分を、焔良疾風だと思い込んでいる何処かの誰か』
数日前、捕らわれた山小屋で牛島に言われた言葉が脳裏を過り、ハヤテは小さく息を吐いた。
そして、丸鏡を掴む汗ばんだ手にギュッと力を籠める。
「……いつまでも、こうしている訳にもいかないな。せっかくの料理が冷めちゃうし。――よし!」
そう自分に喝を入れて、ハヤテは閉じている瞼を開こうとするが――なかなか、自分の顔を見る勇気が出なかった。
全身を廻る血液の流れる音が、やけに大きく鼓膜に響く……。
――と、その時、
「……ッ!」
自分の手が、柔らかいものにそっと包まれたのを感じたハヤテは、ハッと顔を上げる。
「……大丈夫です。どんな顔をしていようと、ハヤテ様はハヤテ様ですから……」
彼の耳元で、優しく囁きかける声が聞こえた。
「ふ……フラニィ……?」
「それに……、正直、ニンゲン? の顔は、良く分からないですけど……、ハヤテ様の顔はお優しいと――思います」
「……優しい――か」
「はい……」
フラニィは小さく頷くと、仄かに鼻の頭を染めて、言葉を継ぐ。
「だから……、あたしは好きです。ハヤテ様の顔――」
そこまで言ってから、フラニィは目を真ん丸に見開き、あわあわと口をパクパクさせた。
無意識に口をついた言葉が何だったのか、遅ればせながら気が付いたからだ。
「あ――! ち……違うんです! い……今のは、決してそういう意味のす……す……じゃなくて――その……」
「……ふふ」
あたふたと弁解し始めるフラニィの慌てふためいた声を聴きながら、ハヤテの口元は綻んでいた。
ハヤテは、自分の手を包むフラニィの手の温もりも相俟って、さっきまでの緊張が嘘のように溶けていくのを感じる。
彼は首を巡らせると、目を閉じたままフラニィに微笑みかけた。
「ありがとう、フラニィ。……君は、いつも俺に勇気をくれるね」
「は……ハヤテ様……」
鼻を真っ赤にして照れているフラニィにもう一度笑いかけると、ハヤテは首を基に戻し、静かに息を整えた。
――そして、ゆっくりと眼を開く。
「……」
「……」
しばしの間、部屋には沈黙が満ちた。
「……」
「……」
「…………」
「……ハヤテ……様?」
無言で鏡とにらめっこし続けるばかりのハヤテに、堪らずフラニィが声をかける。
その声が耳に届き、我に返った様子で、ハヤテはようやく鏡から目を離した。
そして、心配そうな表情のフラニィを安心させるように、微笑みながら頷いた。が、その表情は、どこか力が無い。
その表情で、彼女は察した。
フラニィは、恐る恐るハヤテに訊く。
「……ハヤテ様。――どうでした、か?」
「……うん」
ハヤテは、それだけ言うと、視線を鏡に戻した。
ひとりの、無精髭を生やした男の顔が、鏡越しに自分を見つめている。
「……やっぱり、思った通りだった」
「そ、それじゃ……」
「うん……この顔は、俺の知っている“焔良疾風”の顔じゃない」
「――!」
隣のフラニィが、息を呑んだ気配がした。
だが、ハヤテはそれには構わず、鏡の中の己の顔を凝視し続けながら、静かに言葉を紡ぐ。
「でも――、良く見知った顔だ」
ハヤテはそう呟くと、焔良疾風とは似ても似つかない、凡庸で冴えない――でも、猫獣人の少女に“優しい”と評された通りの顔が映った鏡に向かって、懐かしげに呼びかけた。
「……よぉ、久しぶりだな。――仁科勝悟」




