第三章其の壱拾陸 懇願
シーフが脳天から床に叩きつけられた瞬間、石畳は粉々に砕け、周囲に飛び散った。
アシュガト二世と兵たちは、舞い上がる塵埃と飛んでくる飛礫を前に、思わず顔を覆って身を竦ませる。
やがて、朦々と垂れこめた塵煙が、ゆっくりと晴れてくると――蹲るふたつの人影が見えてきた。
そのうちのひとりが、ゆっくりと立ち上がる。
それは、灰色の装甲に身を包んだ、象の仮面を被った戦士――テラだった。
一方の、蹲ったままの人影は――、
「う……うぅ……」
苦しそうに呻きながら、ごろんと仰向けに転がった。
同時に、その身体のあちこちから、ピシピシという亀裂音が鳴り始める。それと同時に、その身に纏うゴエモン・ザ・ラフネックの黒い装甲がボロボロと剥がれ落ち始めた。
次の瞬間、パァンと弾ける音と共にシーフの装甲が勢いよく吹き飛び――最初に出現した時と同じ、痩せぎすの中年男の生身が露わになる。
「く……そ……」
男は、朦朧とした意識の中で震える両腕を揚げ、虚しく空を掻いた。
そして、身体が満足に動かない事を悟ると、血塗れの顔にシニカルな薄笑みを浮かべ、傍らに立つテラを見上げる。
「ひ……ひひ……こいつぁ参ったねェ。体が痺れちまって……動けねえや……」
「……」
かすれた笑い声を上げる男をじっと見下ろしていたテラは、無言のままで胸のコンセプト・ディスク・ドライブを取り外すと、静かに『排出』ボタンを押した。
『イジェクト』
という機械音声と共に、微かなモーターの駆動音が聞こえ、ディスクトレイがゆっくりとせり出る。
そして、トレイに乗ったマウンテンエレファントディスクを取り出すと同時に、淡い光がテラの身体から漏れ出て、音もなく弾けた。
「……ふぅ」
装甲戦士テラから生身へと戻ったハヤテは、大きく息を吐くと、シーフのボイリング・デスペナルティのダメージで灼け爛れた胸を押さえる。
そんなハヤテの様子に眉を顰めたのは、仰向けに倒れたままの男だ。
「ど……どうなさったんですかい? 装甲を解いちまって……」
彼は、訝し気に声を上げる。
「もうアンタは、あっしにとどめを刺すだけでしょう? ……なのに、何で生身に戻っちまったんです?」
「……そんな気は無いさ」
ハヤテは、男の問いかけに対し、静かに首を横に振った。
その言葉を聞いた男が、驚いた様子で目を丸くする。
「……はぁ?」
そして、その口から漏れたのは、当惑と苛立ちに満ちた声だった。
「そりゃあ……どういう意味でさ? どんな気が無いって――?」
「……俺は、抵抗できないお前にとどめを刺す気は無い。――そういう意味だ」
「は……はあ?」
ハヤテの答えに、男は大きく目を剥く。そして、顔を蒼白にしながら腕を伸ばし、ハヤテのカーゴパンツの裾をきつく握った。
そして、鬼気迫る表情で、ハヤテに向けて声を荒げる。
「ふ……ふざけるのはよしておくんなせえ! そんなバカみたいな戯言を言わずに、は……早くあっしにとどめを!」
「……勝負はもうついてる。俺はもうこれ以上、お前と戦う気も、ましてやお前の命を奪う気もない」
「な……何で!」
「……決まってるさ」
ハヤテは、必死の形相で足元に縋りつく男を静かに見下ろしながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「装甲戦士テラは、決して必要以上の暴力を振るわない男だからだ」
「……ッ!」
ハヤテの言葉に一瞬呆けた表情を浮かべた男は、次の瞬間には泣きそうな顔をして、縋りついたハヤテの脚を激しく揺さぶった。
「あ、アンタ、ば、馬鹿な事を言っちゃいけねえ! そんなキレイ事をほざいて許されるのは、テレビの中だけでさ! ――現実では、そんな甘い事は通用しねえんだッ!」
「……それでも俺は、この信念を曲げるつもりは――」
「アンタの信念なんざ、どうでもいいんだよ!」
ハヤテの言葉に、男は眼を血走らせて、真っ向から否定した。
「アンタ! もし、あっしがこのまま大人しく降伏したら、どうなると思ってるんでさぁ?」
「――それは……」
男から突然浴びせかけられた問いかけに、ハヤテは戸惑いながらも律儀に答える。
「お前の身柄は、王様たちに委ねられるだろう。……俺も詳しくは分からないけど、地下の牢に収容されて、然るべき裁きを受ける――」
「はっ! そういう発想が、ガキくせえって言ってんだ!」
ハヤテの答えを、男は即座に切り捨てた。
彼は、今度はガチガチと歯を鳴らし、ハヤテのカーゴパンツの裾を強く握りしめながら、怯えた声で捲し立てる。
「収容? 裁き? あっしが、そんなまともな扱いなんてされるはずがねえでしょうが!」
「……!」
「後ろを見ておくんなさい……!」
男に促され、思わずハヤテは振り返り――、
全身が一気に粟立つのを感じた。
「……こ、これは……」
爛々と光る無数の目が、男を睨みつけていたからだ。
その黄色い眼光には、男に対する畏怖と憎悪と――この上なく純度の高い殺意が含まれていた。
無数の剥き出しの敵意に中てられ、ハヤテは言葉を喪う。
「……わ、分かりましたかい?」
と、男がかすれた声で囁いた。
「……アンタが、寛大な心だか何だかであっしを生かしたところで、どうせすぐに、あの化け猫どもに惨たらしく殺されちまうんですよ……。多分――猫が鼠をいたぶり殺すよりも、もっと執拗で凄惨で……できるだけ長く苦しませてから……」
「だ……だけど……」
「……分かってやす」
男は、乾いた笑いを上げる。
「確かに……あっしらは、こいつらにそこまで恨まれるようなことをしやした。殺られて当然――ですがね。だからといってあっしは、あいつらの鬱憤晴らしに付き合う気なんざ、さらさら無いんでさ!」
「そ……そうとは限らないだろう?」
ハヤテは、口の中がカラカラに乾いているのを感じながら、縺れる舌を懸命に動かした。
「この世界の猫は、格段に進化している。きっと、俺たち人類と同じくらいの倫理観だって、兼ね備えているはず――」
「ヒヒッ! 人類と同じくらいの倫理観を持ち合わせてるんだったら、尚の事でさ!」
「……」
男は、荒い息を吐きながら、ハヤテの言葉を皮肉気に嗤い飛ばす。
「知らないんですかい? 二十一世紀に入っても、中東やアフリカのそこかしこで、相変わらず中世みてえに凄惨な復讐の仕合いっていうのが起こってた事を! ……それは、アンタが来た時代になっても、大して変わってねえでしょ?」
「……」
男の舌鋒に、ハヤテは返す言葉を持たない。
よろよろと身を起こした男は、ハヤテのシャツの裾を引っ張りながら、懇願するように言った。
「……ですから、後生ですから――あいつらに嬲り殺しにされる前に、アンタがあっしの息の根を止めて下せえ。……その後に、あの化け猫どもがあっしの亡骸をどうしようと構いやしねえんで……」
「……」
「頼みます! アンタに、人としての心があるんだったら――」
「……う」
ハヤテは、涙すら流して希う男の言葉に気圧されて、喉の奥が詰まったように呻いた。
そして、顔を上げ、呆然とした顔で周囲を見回し――ギョッとする。
「――!」
彼らの周りをぐるりと取り囲んだ猫獣人たちは、明らかに先ほどよりもその包囲を縮めてきていた……!
男もそれに気づき、怯えた顔で、ハヤテの服をさらに強く掴んだ。
「は……早く! 早くして下せえ! ……アンタに、人としての心があるのなら――!」
「……!」
男の懇願に、ハヤテはビクリと体を震わせるが……、その手を動かすことは出来なかった。
ハヤテが動かないのを見て、男は絶望と恐怖で顔を歪める。
「……チッ!」
彼はハヤテの服を掴む手を離し、身を翻した。
「あっ! 逃げるぞ!」
「絶対に逃がすなッ! 捕まえて、同胞の恨みを晴らすんだ!」
「己のした事をたっぷりと悔やませながら殺してやる!」
取り巻く兵士の間から、一斉に怒号が上がる。
その声を背中に聞きながら、男はおぼつかない足取りで必死に走った。
と、突然屈み込み、何かを拾う。
「あ! あの悪魔野郎……剣を拾ったぞ!」
兵士たちの顔に、一気に緊張が走った。
「き、気をつけろ! 何をしてくるか分からんぞ!」
「ひ……ヒヒヒッ……」
警戒を促す兵士の声に、嘲笑を上げる男。
彼はクルリと振り返ると、彼を背後から追いかけていた猫獣人の一団に向かってニイと笑ってみせると、しわがれた声で言った。
「ヒヒッ……安心なせえ。もう……アンタらになんかする気も力も……皆無でさぁ」
「な……何を……するつもりだ……」
その表情にただならぬものを感じたハヤテは、男に声をかける。
男は、ハヤテに凄惨な笑顔を向けると――手にした剣を逆手に握った。
「そりゃあ、もちろん……こうするんでさ!」
彼はそう叫ぶと、逆手に持った剣の先を、己の左胸に深々と突き刺した――。




