第二十四章其の玖 宿酔
翌日――。
「痛たた……頭痛ぇ……」
いつもよりも遅めに起きたハヤテは、ふらふらと覚束ない足取りでようやく辿り着いた主殿の井戸端の脇にしゃがみ込み、まるで頭蓋骨の裏側で掘削工事でもしているのではないかと思うくらいにズキズキと痛む頭を押さえながら顔を顰めていた。
「うぅ……完全に二日酔いだ、コレ……。キッツい……」
取り敢えず、汲み上げた井戸の水で口を濯いだ後に、喉を潤す。
冷たい水が喉から胃の中へと通り抜けるのを感じながら、ハヤテは小さく息を吐き、口元を伝い落ちる雫を拭こうと手の甲を当てた。
「……」
その瞬間、彼の脳裏に、昨夜の事がまざまざと蘇る。
満天の星空。
その中で一際大きく明るく輝く“月”によく似た星。
その光景を一緒に眺めていた天音の顔。
頬を赤らめた彼女が口にした言葉。
そして、急に暗くなった視界と、唇に感じた柔らかな感触――。
「――ッ!」
それを思い出した途端、ハヤテは顔を真っ赤にして、目を大きく見開いた。
そして、恐る恐る指を伸ばし、自分の唇にそっと触れてみる。
「夢……じゃ、ないよな……?」
思わず自問するが、あの瞬間に唇に触れた感触と、包まれていた温もりが夢だったとは到底思えない。
(――じゃあ、やっぱり、アマネは俺に……!)
そう確信すると、彼は顔が耳の先まで燃えるように熱くなったのを感じ、慌てて桶の中に残った水の中に頭から突っ込んだ。
井戸水の刺すような冷たさを顔全体に感じ、熱に浮かされた感情が少しだけ落ち着いたのを感じ、ハヤテは水に漬けていた顔を上げる。
――その時、
「は……ハヤテ様?」
「……ッ!」
彼の背後から、驚きで上ずった声が聞こえてきて、ハヤテは慌てて振り向いた。
そこには――、
「あの……ど、どうかなさったんですか、ハヤテ様……?」
その大きな金色の目を真ん丸に丸めて、ハヤテの事をじっと見つめているフラニィの姿があった。
「ふ、フラニィ?」
「あ……あの、おはよう……ございます」
フラニィは、ビックリした様子のハヤテに挨拶の言葉をかけながら、手に持っていた白い布をおずおずと差し出し、恐る恐るといった様子で尋ねる。
「だ、大丈夫ですか、ハヤテ様……?」
「あ……う、うん。大丈夫だよ」
自分の事を心配してくれているフラニィにバツの悪い表情を浮かべながら、ハヤテは小さく頷いた。
彼女の手から白布を受け取り、ぐっしょりと濡れた顔を拭くと、改めて白無垢の毛柄の少女の顔を見つめる。
そして、小さく首を傾げながら尋ねた。
「どうしたんだ、フラニィ? こんな所に……」
「……あたしもさっき起きたばっかりで、顔を洗おうと思って……」
「あ……そっか……」
フラニィの答えに、何の気なしに頷いたハヤテだったが、ハタと気付いて、自分が持っている濡れた布に目を落とした。
「あ……。じゃあ、この布は、君が顔を拭く為に持って来た……あ、ゴメン! 先に使っちゃって……。待ってろ! 今、俺が新しいのを取りに――」
「あ……だ、大丈夫です!」
主殿の方に走り出そうとしたハヤテの事を、フラニィは慌てて制止する。
そして、彼の手からするりと白布を取ると、ニコリと微笑みかけた。
「あたしは、これを使いますから」
「え? いや、でも……それは俺が使っちゃったから――」
「構いません。……むしろ、こっちの方がいいんです……」
「……え?」
「あ、い、いえっ!」
思わず漏らした呟きを、ハヤテに聞き留められてしまったフラニィは、鼻の頭を真っ赤にしながら、ブンブンと激しく首を左右に振りながら叫ぶ。
そして、布をしっかりと握りしめたまま、井戸から汲み上げた水に布を浸し、固く絞ってから顔の毛に沿うようにして、ゆっくりと顔を拭いた。
そして、
「ふ、ふ~! さ、サッパリしました!」
わざとらしく大きな声でそう言うと、ハヤテに向かってニッコリと笑いかけた。
「あ、ああ……そっか」
そんなフラニィの様子に、ハヤテは戸惑いながらも頷くが、彼女のピンと立った尻尾がゆらゆらと左右に揺れているのを見て、彼女の機嫌がそう悪くない事を悟って、密かに安堵する。
そして、彼女の笑顔を見て心の落ち着きを取り戻したハヤテは、口元に微笑みを浮かべながら尋ねた。
「……昨日は、よく眠れたかい?」
「あ、はい!」
ハヤテの問いに、フラニィは満面の笑みを浮かべて、大きく頷いた。
「正直……キヤフェに居た時は、心配と不安と……寂しさで、夜もほとんど眠れなかったんですけど、昨夜は、本当に久しぶりにぐっすりと眠れました。というか……眠り過ぎて、寝坊しちゃったくらいで……」
彼女はそう答えると、恥ずかしそうに東の空を指さす。
確かに……もう“朝”というよりは“昼前”と言った方が近い程、高く日が昇っている。
鼻の頭を赤らめて俯くフラニィの様子に、ハヤテも苦笑を浮かべながら頷いた。
「それを言ったら、俺も同じだよ。……まあ、俺は酒を飲み過ぎてダウンしてただけだけどさ」
そう言って、照れくさげに頬を掻いたハヤテ。
そんな彼の様子に、フラニィの顔にも柔らかな笑みが浮かぶ。
「じゃあ……あたしとハヤテ様は寝坊仲間ですね!」
「ははは、寝坊仲間か……。うん、確かに」
フラニィの冗談交じりの言葉に、ハヤテも相好を崩す。
そして、彼女の浮かべる笑顔に一点の曇りも見られないのに気付くと、心の中に暖かな火が灯るような感覚を覚えた。
彼は無意識に腕を伸ばし、フラニィの頭に優しく乗せる。
「ふぇっ? は、ハヤテ様……な、何を……?」
突然のハヤテの行動に驚き、金色の目を大きく見開いて狼狽えるフラニィの顔を見つめながら、ハヤテは静かに囁いた。
「……良かったな、フラニィ」
「……!」
ハヤテの言葉を聞いた瞬間、フラニィの目が潤む。
彼女は、黙ったままハヤテの手首を掴むと、さらに強く自分の頭に押し付けた。
そのまま、彼女は半ば強引にハヤテの掌で自分の髪の毛をわしゃわしゃと撫でさせながら、「……はい」と、小さく頷く。
そして、
「全部……ハヤテ様のおかげです。本当に……ありがとうございました」
と、微かに声を震わせながら囁くと、ハヤテに向かって穏やかな笑みを浮かべるのだった。




