第二十二章其の拾 化粧
「ふふふ……」
インセクトは、艶めいた嗤い声を上げながら、右腕の手甲から垂れ下がったスパイダーズ・スレッドの切れ端を左手で掴み、無造作に引き千切った。
そして、フラニィとマーレルを背中で庇うように立つハーモニーを、冷たい光を放つ複眼で睨めつける。
「……」
一方のハーモニーは、何時でも攻撃の音色を奏でられるよう、口元に聖者のフルートを添えながら、インセクトに向かって口を開いた。
「……あの」
「なあに、ハーモニー?」
ハーモニーの問いかけに、少しだけ首を傾げながら答えるインセクト。
そんな彼女に向かって、ハーモニーは率直な疑問を投げかける。
「あなた……本当に、沙紀さんなの? あたしの知ってる沙紀さんは、こんな人じゃないわ。もっとずっと穏やかで、優しくって……」
「ふふ……『優しい』ねえ。その言葉、ついこの間も聞かされたわ」
ハーモニーの言葉を聞いたインセクトは、愉快そうな含み笑いを漏らし、八つの複眼を妖しく輝かせた。
「――この前聞いたのは、ツールズの坊やを始末した時よ」
「――ッ!」
インセクトの言葉に、ハーモニーは身体を強張らせる。
そんな彼女の反応に構わず、ハーモニーは愉しそうに言葉を継ぐ。
「だから、私はこう答えたの。『女って、いくつもの顔を持っているものなのよ』って。――今のあなたの言葉にも、同じセリフを返してあげる」
「……あたしも女だけど、今の言葉の意味は良く分かりません」
ハーモニーは、インセクトの言葉にキッパリと頭を振り、そんな彼女の答えに、インセクトは失笑を漏らした。
「ふふ……。それは、あなたがまだ若い……いえ、幼いからよ」
「……」
「女ってね、生きれば生きるほど、煩わしい縛りや理不尽な柵が増えていくものなのよ」
そう言うと、インセクトは自分の顔を指さす。
「それに耐えようとして、周りの目を欺こうとして、女はどんどん厚く化粧を塗っていくの。顔だけじゃなくて、自分の心にもね。うんざりするぐらい念入りに」
「……」
「環境や立場によって化粧も変えるから、年齢を重ねれば重ねるほど、全く違う顔を作るのが上手くなって、周囲を欺く事にも慣れてきて――」
「――今まであたし達に見せてきた顔も、化粧で作った偽りの顔だったって事ですか?」
「……そういう事ね」
ハーモニーの問いかけに、インセクトはあっさりと頷いた。
その答えに、覆面の下でグッと奥歯を噛みしめたハーモニーは、押し殺した声でインセクトに訊ねる。
「じゃあ……本当の槙田沙紀の姿は――」
「――もちろん、今の私が、本当の私よ」
一瞬の間をおいて発せられたインセクトの言葉は、自信と喜びに満ちたものだった。
彼女は胸に手を当て、言葉を継ぐ。
「鳴瀬先生を愛し、最愛の彼に自分のすべてを捧げ、忠実な手足としてその望みを叶えてあげる為には何もかもを差し出す……これこそが、偽らざる本当の私――」
「……沙紀さんは、牛島の為だったら、何でもするんですか?」
「当然よ」
「――それまで仲間だった人間であっても、彼の為なら殺すんですか?」
「そうよ」
インセクトはあっさりと頷くと、その複眼を妖しく輝かせる。
「――実際に、そうしたわ」
「……あなたって人は!」
身を強張らせたハーモニーは、インセクトの顔を睨みつけた。
そんな彼女に、
「まあ……碌に恋も知らない十五の小娘でしかないあなたには、今の私の気持ちはまだ分からないかもしれないわね」
と言って、わざとらしく肩を竦めてみせたインセクトは、小さく息を吐くと、つと腕を伸ばして、ハーモニーの背後を指さす。
「それを踏まえて、判断して頂戴」
「……!」
「実は、これから鳴瀬先生が進めようとなさっている計画に、このお姫様が必要になるらしいのよ」
「計画……?」
怪訝な表情を浮かべるハーモニーに小さく頷いたインセクトは、言葉を続ける。
「――なのに、あなた達に連れて行かれちゃうと、鳴瀬先生がお困りになってしまうの。――だから、今日はそのお姫様を置いて、おとなしく帰ってくれないかしら? そうすれば、あなたの事は見逃してあげるわ」
「「……ッ!」」
イノセントの言葉に、自分の背後にいるふたりの猫獣人の少女が身体を強張らせた気配を感じつつ、ハーモニーは静かに首を横に振った。
「……ごめんなさい。このふたりは、連れて行きます」
ハーモニーは、インセクトの願いに対し、キッパリと首を横に振った。
そして、その八つの複眼を真正面から睨み返して、毅然とした声で言葉を継ぐ。
「――あなたの言う“計画”がどんなものなのかは知りませんけど、あたしにとっては、そんなものどうでもいいんです」
「……」
「今は、あたしがしなければならない……いえ、あたしがしたい事をします。あなたには悪いけど!」
「ふふふ……」
ハーモニーの言葉を聞いたインセクトは、呆れたと言わんばかりに首を傾げながら嘲笑を漏らした。
「あなたのしたい事――お姫様を助け出す事って、結局は、装甲戦士テラがしたい事なんでしょ? それって、結局あなたも私と同じじゃない?」
「同じ……?」
「『愛している男の役に立ちたい』――ほら、動機が同じじゃない?」
「だ……ッ! だから、違いますって!」
「違わないわよ」
ムキになって否定しようとするハーモニーを嗤ったインセクトは、小さく息を吐くと、小さく頷いた。
「……分かったわ。あなたがそういう決意を固めているというのなら、私はこれ以上何も言わないわ」
「それじゃ……!」
「勘違いしないで。あなたとお姫様を見逃してあげるって意味じゃない」
「――!」
一瞬安堵しかけたハーモニーだったが、インセクトが続けた言葉に、再び警戒の度を上げる。
そんな彼女に向けて、だらりと下げていた右腕をゆっくりと向けながら、インセクトは静かに言葉を継いだ。
「互いの目的が正反対で、互いに退けない以上は、ぶつかり合って我を通すしかないでしょう?」
そう言うと同時に、インセクトの八つの複眼が禍々しい赤い光を放つ。
「戦いましょう。お互いの目的の為――お互いが愛する男の為に」
「――だから、あたしとしょうちゃんは、別にそういう関係じゃ……でも、分かりました」
ハーモニーも小さく息を吐くと、その目を鋭く光らせて、聖者のフルートのリップフレートに覆面の口元をそっと当てた。
小さな部屋の中に、ふたりの放つ濃密な闘気が満ち、静かにぶつかり合った。
――そして、
「――スパイダーズ・スレッド・ウィップ!」
「狂詩曲・魔弾ッ!」
ふたりが同時に動いた――!




