第二十一章其の壱拾壱 希望
「ほ……ホムラハヤテが?」
近衛兵の報告に目を吊り上げ、愕然とするイドゥン。
その足元で、力無く床に蹲っていたフラニィの耳がピクリと動いた。
「は、はいっ!」
それには気付かず、近衛兵は上ずった声で更に捲し立てる。
「凱旋ノ門に現れたホムラハヤテは、フラニィ様の身柄を自分に引き渡すよう要求しております! フラニィ様さえ渡してくれれば、おとなしく引き上げる……とも!」
「え、ええい! “森の悪魔”の言う事など、信じられるか! そんな口約束、あいつらが守るはずが無かろうが!」
近衛兵の報告に、苛立たしげに声を荒げるグスターブ。
その怒声に、近衛兵は思わず耳を伏せたが、大きく頷く。
「も……もちろん、我らもそう考え、現在奴を撃退すべく攻撃を仕掛けております。……ですが、奴はなかなかに手強く、未だ仕留められず……その為、陛下の御判断を仰ごうと……」
「……チッ! 使えぬ奴らめ!」
イドゥンは、近衛兵の言葉に対し、憎々しげに舌を打つ。
「二個小隊がかりでも、たかがニンゲンひとり討ち取る事も出来んのか! 最精鋭を謳われた近衛隊も、所詮はその程度か!」
「も……申し訳ございません……」
王の剣幕に恐縮し、深々と頭を垂れる近衛兵。――その伏せた顔には、ありありと憤懣が現れていた。
一方、グスターブは落ち着かない様子で爪を噛みながら、焦燥に満ちた声で呟く。
「くそっ……! こんな時に、あの毒蜘蛛女は、どこに行っておるのだ? こんな時こそ、奴の出番だろうに――」
「……は? 毒蜘蛛……女?」
「グスターブッ!」
総軍司令の呟きを聞き咎めた近衛兵が怪訝な表情を浮かべるのを見たイドゥンは、慌てて彼を制した。
「止めろ、馬鹿めが!」
「あ……! し、失礼いたしました!」
王に叱咤され、自身の失言に気付いたグスターブは、慌てて口を押さえる。
――この王宮の中に、よりにもよって“森の悪魔”のひとりであるアームドファイターインセクトが潜んでいて、水面下で自分たちと手を組んでいるという事は、イドゥンとグスターブだけの秘密だったからだ。
そんな都合の悪い事この上ない事実を、下っ端の近衛兵に気取られる訳にはいかない……。
「――おい! それで! 今、ホムラハヤテはどこにおるのだ!」
イドゥンは、グスターブの失言を誤魔化すように、大きな声で荒々しく叫んだ。
近衛兵は、王の問いかけに慌てて背筋をピンと伸ばし、上ずった声で答える。
「は、はっ! ――我ら近衛隊の奮戦により、ホムラハヤテは未だに凱旋ノ門の内側へは入れないまま、戦線は膠着しております!」
「……そうか。まだ、奴は王都の中までは入ってきておらんのだな」
イドゥンは、少しだけ安堵の表情を浮かべる。
「……前回、銀色の鎧を纏った“森の悪魔”が攻め込んできた時は、防備が整わず、敵の侵入を許したが……今回は大丈夫そうか――」
「とはいえ! 敵は手強く……予断を許さない戦況であります!」
イドゥンの楽観的な言葉は、近衛兵の緊迫した声に遮られた。
彼は、悲壮な表情を浮かべながら、更に言葉を継ぐ。
「……前回の“森の悪魔”の侵入の際に破壊された凱旋ノ門は、未だに修復が手付かずですから、門の防禦は無きに等しいです。……包囲を破られたら最後、一気に押し込まれてしまう恐れは、十分に有り得ます! 市内に入り込まれてからでは、奴を止めるのは更に困難に――」
「……クソッ!」
近衛兵の言葉に、イドゥンは悔しげに歯を噛みしめた。
そして、苛立ちに満ちた目で近衛兵を睨みつけながら言った。
「どいつもこいつも愚図ばかり! ええい、もう良い! こうなったら、私が自ら指揮を執る! ついてこい、グスターブ!」
「え……ええっ! わ、私めもですか……?」
「当たり前だ! 総軍司令だろうが、貴様!」
「は……はっ!」
イドゥンに血走った目で睨みつけられ、全身の毛を逆立てたグスターブは、恐怖で顔を引き攣らせながら慌てて敬礼する。
そんな総軍司令の情けない姿を冷ややかに見たイドゥンだったが、ふと気が付くと、足元に蹲っていたフラニィへと目を向けた。
「……は……ハヤテ……様? ハヤテ様が……凱旋ノ門まで……」
彼女は、今しがた聞いた名前が幻聴では無い事を願いながら、ヨロヨロと起き上がろうとする。
その涙で濡れた瞳には、先ほどには無かった希望の光が確かに宿っていた。
「……チッ!」
それを見たイドゥンは憎々しげに顔を歪めると、フラニィの胸倉を掴み、無理矢理立ち上がらせる。
「う……」
「――いいか、愚妹よ」
苦しげに呻くフラニィを威圧的に睨み据えながら、イドゥンは押し殺した声で彼女に告げる。
「貴様がいくら希望を持とうと無駄だ。ホムラハヤテ……あの悪魔と貴様が生きて再会する事など、決して無いぞ!」
「そ……そんな事……無い!」
イドゥンに酷薄な言葉を浴びせられたフラニィは、敵意に満ちた目で兄の顔を睨み返すと、毅然と首を横に振った。
「ハヤテ様は、あたしの事を絶対に守ってくれるもの! 絶対に……絶対に助けに来てくれるわ! ――たとえ、このキヤフェの全てのピシィナを敵に回したとしても!」
「くっ……!」
確信に満ちた声で敢然と言い放ったフラニィの爛々と輝く金色の瞳に思わず気圧されたイドゥンは、たじろぎながら声を荒げる。
「え……ええい! しゃらくさい鬼子めが!」
「くぅっ……!」
激昂したイドゥンに突き飛ばされ、壁に背中を打ちつけられたフラニィは、苦痛に表情を歪めたが、その目の光は消えなかった。
そんな彼女の態度にますます苛立ちを募らせたイドゥンは、グスターブの手から小壺をひったくり、彼女に向けて歩み出そうとしたが――、
「……おのれっ!」
そう忌々しそうに吐き捨てると、小壺を傍らのテーブルの上に荒々しく置いた。
そして、壁にもたれたまま反抗的な目を向けるフラニィを睨みつける。
「――良いか! 我らは必ずあの忌々しいホムラハヤテを討ち取って来る! 奴の亡骸と再会したくないのなら、私が戻ってくる前に、自らこの薬を飲むがいい! 分かったな!」
彼はそう言い捨てると、ローブを翻して部屋を出て行った。
その背中を、グスターブと近衛兵が慌てて追う。
三人が出ていってから、錆びついた鉄扉が再び閉められ、ガチンという無機質な音を立てて錠がかけられた。
「……」
暫くの間、フラニィは壁にもたれたまま動かなかったが、やがてヨロヨロと壁から離れると、テーブルの元へと歩み寄り、その上に乗った小壺に手を伸ばす。
「……」
そして、震える手で小壺を持ち上げると、
「えいっ!」
大きく振りかぶって、イドゥンタチが出て行った鉄扉に向けて思い切り叩きつけた。
けたたましい音を立てて壺が粉々に割れ、中に入っていた“薬”が四方八方に飛び散る。
「ふ……ふふ、ふふふ……」
フラニィは、それを見て満足げな笑い声を漏らすと、今度は小さな窓へと歩み寄り、鉄格子越しの景色に目を遣った。
(あそこに……ハヤテ様がいるんだ。あたしの事を救いに……危険を顧みずに……!)
そう考えるだけで、彼女の左胸が高鳴る。
フラニィは、嬉し涙を流しながらニッコリと笑い、それから目を瞑って、心の中で静かに祈った。
(ハヤテ様……あたし、信じますね。あなたがあたしの事を助けに来てくれるのを――決して、諦めずに……!)




