第二章其の玖 結界
それから、岩と木の根で歩きづらい森の中をしばらく歩き続けた後――、
「――ハヤテ様、ちょっとお待ち下さい」
ハヤテの前を歩いていたフラニィが、ピクリと鼻を動かすと、片手を挙げて彼を制止した。
「……ど、どうした?」
「……」
ハッとした顔をしたハヤテの問いかけにも応えず、朝日が射し込む森の中を見回した彼女は、鬱蒼と茂る草を掻き分ける。
そして、一際高い草の向こうに顔を突っ込むと、その尻尾をピンと立てた。
「――ありました!」
「あ……あった? 何がだ――?」
ハヤテは、上ずったフラニィの声に怪訝な顔をしながら、彼女に続いて草の中に頭を突っ込む。
そして――、
「――あ」
草を掻き分けた向こう側の光景に、思わず声を漏らした。
「蒼い……光の壁――?」
彼の眼前十五メートルほど離れた地面から、仄かに蒼く輝く透明の光が、正に壁のように空に向かって伸びていた。
「これが……結界……?」
「はい……」
フラニィは、ハヤテが漏らした呟きに小さく頷くと、躊躇いも見せずに脚を前に踏み出した。
そのまま、スタスタと蒼い光壁に向かって歩みを進める。
そして、ハヤテの方に振り返ると、彼に向かって手招きした。
「さあ、ハヤテ様。お近くに――」
「う……うん。――でも、フラニィ……俺も近付いて大丈夫なのか……?」
ハヤテは、彼女の手招きに頷きつつも、半信半疑で光の壁を見上げる。
そんな彼の様子に思わず苦笑を浮かべながら、フラニィはこくんと頷いた。
「はい! 大丈夫ですよ、ハヤテ様。……でも、決して私の側から離れないで下さいね」
そう言うと、彼女はハヤテの腕に自分の腕を絡める。
「ん……? こうしないとダメなのか?」
「……え、ええ……まあ」
訝しげな表情を浮かべて尋ねるハヤテに、ほんのりと鼻の頭を赤くしたフラニィがぎこちなく頷いた。
そして、空いた方の腕を口元に近付けると、唐突に自らの牙を突き立てる。
「――ッ!」
「お――おいッ! フラニィ……何を――?」
突然のフラニィの振る舞いに、ハヤテは驚いて声を上げた。だが、フラニィはハヤテの言葉にも応えぬまま、目に涙を浮かべながら、手の甲に突き立てた牙に、更に力を込める。
白い毛に覆われた手から、ポタポタと真っ赤な鮮血が滴り落ちる。
そこでやっと、フラニィは自分の腕から口を離した。
「ふぅ……」
小さく息を吐いた彼女は、血が滴る腕を真っ直ぐに伸ばし、目の前で天に向かって伸びている蒼い光の壁に近付けていく。
――血で赤く染まったフラニィの手が、蒼い光壁に触れた。
と――、信じがたい光景に、ハヤテは目を見開く。
「ひ――光が……消えていく……?」
フラニィが触れた瞬間、彼女の手を中心にして、光がその色を紫色に変えた。まるで、蒼い光が、真っ赤な彼女の血液と混ざり合ったかのように――。
その紫の光は、まるで波紋のように広がり、人一人が通れるほどの大きさになる。
それを見たフラニィは、ハヤテの方に振り向き、大きく頷いた。
「これで結界を通れるようになります。ハヤテ様、急いで通りましょう。……すぐに閉じてしまいますから」
「あ……ああ」
フラニィの言葉に戸惑いながら頷いたハヤテは、恐る恐る紫の光に向けて足を踏み出す。
「――本当だ。大丈夫そうだな……」
光に触れても異状が起こらない事を確認したハヤテは、安堵の息を漏らした。
その言葉を耳にしたフラニィは、眉根を顰めて、頬を膨らませる。
「……何ですか? あたしが大丈夫って言ったのを、ハヤテ様は信じてくれてなかったんですか?」
「あ……いや、そういう訳じゃないんだけど……」
ハヤテは、機嫌を損ねたフラニィに向かって、慌てて頭を振った。
「やっぱり……どんなに口で大丈夫だと言われても、万が一っていうのが頭を過ぎるというか、何というか……」
「……ふふ、冗談です」
焦るハヤテの顔を怖い目で睨んでいたフラニィは、そう言って相好を崩した。
「何だ、そうか……。驚かさないでくれよ……」
ハヤテは、クスクスと無邪気な笑い声を上げるフラニィの顔を見て、ホッと胸を撫で下ろし、目を前に向ける。
――結界を抜けるまで、もう少しだ。
◆ ◆ ◆ ◆
ハヤテとフラニィが、紫色に色を変えた結界の中に入ってから間もなく、
「…………」
朝日が作る木影の一角が、不意にユラリと蠢く。
その影の中から、まるで水面から跳ね上がる魚のように、ひとつの黒い影が勢いよく飛び出してきた。
黒い影は、空中で一回転すると、音も無く地面に着地する。
「……」
影は、その場で蹲ったまま、暫しの間ジッとしていたが、他に動くものの気配が無い事を確認すると、ゆっくり立ち上がった。
その影は――灰色の迷彩柄の装甲に身を包んだ、ひとりの装甲戦士だった。
彼は足音も立てずに結界へと歩を進め、紫に色を変えた部分に向けて手を伸ばす。
結界の中に入れた手が、何の抵抗も感じずに結界の中に入ったのを見て、彼は小さく口笛を吹いた。
「……なるほどねェ。確かに、紫に光ってる間なら、すんなりと通れそうだなァ」
彼は、そう呟くと、迷いなく紫の光の中に足を踏み入れようとし――、
「――おっと。いけねえいけねェ……」
そう独り言ちると、腰のベルトに付けた、ネズミを摸した小さなガジェットを手に取った。
彼は、ネズミの鼻をちょこんと押してから自分の口元に近付け、背面のマイクユニットに囁く。
「ええと――、こちら、装甲戦士シーフ。対象の結界通過を確認。引き続き追跡し、後に作戦の第二段階へと移行する予定。……結界内に入る為、今後の連絡は難しいと思われるので、これが最終連絡となる」
彼――装甲戦士シーフは、そこで言葉を切ると、狡猾なネズミを擬した仮面の下で、ニヤリと薄笑みを浮かべ、言葉を継いだ。
「じゃあ――“石棺”の前で待ってますゼ、牛島サン。……以上」




