第十九章其の参 安心
「……」
「……」
薄暗いテントの中で、鉛よりも重い沈黙がハヤテと天音の間に漂っていた。
意識を取り戻し、元気な天音の姿を見た瞬間、衝動的に彼女の事を抱きしめてしまったハヤテだったが、すぐに我に返って、自分が何をしでかしたのか察した途端、慌てて身体を離す。
一方、抱きしめられた天音の方は、しばし放心状態といった様子だったが、時間が経つにつれ、その頬が林檎のように真っ赤に染まっていった。
それから既に十分ほどが経過したが、ふたりは相変わらず目を逸らしたまま、お互い頭の中で必死に話しかけるきっかけの言葉をずっと探している。
――遂に痺れを切らして、ハヤテが先に口を開いた。
「あ……あの、さ……」
「ひゃ、ひゃいっ!」
「あ! い、いや……ゴメン! 何でもない……」
天音の大げさな反応に驚いたハヤテは、慌てて首を横に振り、口を噤む。
――と、
「――ふふ……」
「……え?」
微かな笑い声を耳にしたハヤテは、思わず顔を上げ、傍らに座る天音の方を見た。
天音が、手の甲を口に当てながら、愉快そうに笑っている。
その懐かしい笑顔を見た瞬間、ハヤテは、目の前を覆っていた薄黒い靄が一瞬で晴れたように感じた。
「――何だよ」
と、彼は、以前――天音と一緒に家路を歩いていた頃のような笑みを浮かべながら尋ねる。
「何がそんなに可笑しいんだよ、アマネ……」
「あ、いや……だって……」
口を尖らせるハヤテに小さく頭を振りながら、天音は答えた。
「何だか変だなぁ……って。確かに、しょうちゃんと会ったのは久しぶりだけど、そっちだけずっと大人になっちゃっててさ……ものすごい違和感だったんだよね」
「ま……そうだな……」
天音の言葉に、ハヤテは気まずげに頷き、指で顎を撫でた。
高校一年生の頃よりも、ずっと太くなった骨格。固くなった皮膚。うっすらと生える無精髭……。
確かに、高校生のままの天音から見たら、随分と変わってしまったように見えるだろう。
そう思い至ったハヤテは、心がズキリと疼くのを感じた。
だが、
「――でもね」
天音が僅かに俯きながら、静かに言葉を継いだ。
「何か、今のしょうちゃんの反応とか見たら、『あぁ、やっぱりしょうちゃんなんだ』って分かったっていうか、確信したっていうか……。何だか、すごく安心しちゃった」
彼女はそう言うと、はにかみ笑いを浮かべた顔をハヤテに向ける。
「……そっか」
その表情を見た瞬間、ハヤテも確信し――安心した。
(ああ……間違いない。アマネだ)
彼は、グッと唇を噛みしめる。
(目の前にちゃんと起きているアマネが座っていて、俺と話をして、俺に向かって笑ってくれてる……)
「――ッ!」
彼は、急に視界が揺らいだのに気付いて、慌てて顔を背けた。
そして、包帯がグルグルに巻かれた手の甲を口元に当てる。
「な……何よ? あたし、何か変な事言った? 笑うなんてひどくない?」
「あ……いや……いや、うん……悪ぃ……」
憤慨する天音の声を聞きながら、ハヤテは、込み上げる嗚咽を懸命に堪えるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆
それから、
「あ、あのさ……アマネ」
お互いがやや落ち着いた頃合いを見計らって、ハヤテは意を決して天音に尋ねかけた。
その声に、天音がちょこんと頷いたのを確認して、ハヤテは言葉を継ぐ。
「お……お前がこの世界に堕ちてから、どのくらい経つんだ……?」
「あ……うん、そうね……」
ハヤテの問いかけに、天音は少し考え込んでから答える。
「多分……大体一年くらい……かな?」
「一年……」
彼女の言葉に、ハヤテは顎に手を当て考え込む。
そして、アマネの顔をじっと見つめ、更に言葉を継ぐ。
「じゃ……じゃあ、さ」
舌を動かす事に対し、僅かに躊躇いを覚えつつ、ハヤテは問いを重ねた。
「あの……お前が異世界に来る直前の――つまり、最後の日本での記憶は……何なんだ?」
「最後の……日本での――記憶……」
微かに震えた声で紡がれたハヤテの質問に、天音は当惑と困惑の表情を浮かべたが、彼の真剣な表情を見てハッとした顔になると、視線を宙に彷徨わせ、僅かに目を細めて考え込む。
そして、
「……そうね。正直、そのあたりの記憶はモヤモヤしてる感じなんだけど、多分――」
そう言うと、彼女は頬を赤く染め、更に言葉を続けた。
「一番最後に覚えてるのは……高校一年生の七月三十日……。しょうちゃんと出かける約束だった日の朝――」
「……!」
天音の言葉に、目を見開くハヤテ。
「やっぱり……あの日か……」
胸の中に、あの日味わった辛く苦しい感情が蘇る。
そんな彼の表情を見た天音が、不安そうな表情を浮かべ、おずおずと尋ねかけた。
「ど……どうしたの? その事が、そんなに大切な事なの?」
「それは……」
天音の問いに、ハヤテは思わず口ごもった。
(アマネに、あの日の事――そして、その後の事を話すべきか……)
彼は、心の中で激しく葛藤する。
天音本人に、彼女が事故に遭い、その後植物状態となって十二年間眠り続けている事を伝えてしまっていいのか……それは、ハヤテにとって実に難しい選択だった。
「……」
ハヤテは、唇を噛むと、僅かに顔を俯く。
――と、その時、
「――!」
掌に巻かれた包帯越しに、仄かな温もりを感じたハヤテは、驚いて顔を上げると――彼の目の前に、真剣な表情を浮かべた天音の顔があった。
「しょうちゃん」
眼鏡越しの瞳に真剣な光を宿しながら、彼女は決然とした声でハヤテの事を呼び、力強く頷く。
「……何かあったのね。あたしがここに来た後に、向こうで」
「そ……それは……」
「――大丈夫よ」
天音は、そう囁くように言うと、微かに笑みを浮かべてみせた。
そして、ハヤテの手の甲に重ねた手に僅かに力を込めると、もう一度頷きかける。
「あたしなら大丈夫。だから、教えて。何が起こったのかを」
「でも……」
「しょうちゃんがそんなに躊躇ってるって事は、よっぽどの事なんでしょ? だったら……いえ、だからこそ、今ここに居るあたしが知っておかなきゃいけない事なんだと思う」
「……」
「安心して」
そう言うと、天音はニコリと笑ってみせた。だが、その言葉とは裏腹に、彼女の表情は強張り、ハヤテの手に重ねた掌は震えている。
だが――それでも、天音は知り、そして受け容れようとしている。彼女の知らない彼女の事を……。
ハヤテは、彼女の真剣な顔をじっと見つめ、
「……分かった」
小さく息を吐くと、遂に頷いた。
そして、手首を返して天音の手をグッと握ると、静かに口を開く。
「――話すよ。あの日、お前の身に何が起こったのかを……」




