第十九章其の壱 温度
「ねえ、しょうちゃん」
「ん?」
西の空に沈みかけた初夏の太陽がオレンジ色に染めた空の下、唐突に呼びかけられた勝悟は、先ほど立ち寄ったコンビニで買ったソーダ味のアイスに齧りつきながら、横目で隣を見た。
「……何だ? これは、俺の金で買ったアイスだから、お前にはやらねーよ、アマネ」
「別にいらないわよ、そんな食べかけのアイス」
勝悟の言葉に頬を膨らませながら、白い半袖ブラウスの制服姿の天音は、黒縁メガネ越しに彼の事を睨んだ。
「あっそ……」
天音に睨まれた勝悟は、肩を竦ませると、アイスを口に運び、もう一口齧り取った。
本当は、天音が欲しがってもいいようにと思って、ビッグサイズを買ったのだが、今更そう言うのも気恥ずかしい……。
(溶ける前に一人で食い切れるかな……?)と、圧倒的な存在感を持つアイスとにらめっこする勝悟の耳に、再び天音の声が届く。
「そうじゃなくて……。何か、今ふと思ったんだけどさ」
「――ん?」
天音の声に、いつもと少し違う雰囲気を感じた勝悟は、怪訝な表情を浮かべて、傍らを歩く幼馴染の顔を見た。
「ふと思ったって……何を?」
「うん……」
勝悟の問いかけに、天音はやや顔を俯かせながら、ぽつぽつと答える。
「……あたし達、さ。今までずっと一緒だったじゃん。小さい頃から……」
「あ、うん。そうだな……」
天音の言葉に、勝悟は戸惑いながらも頷いた。
何故だか知らないが、その先の言葉を聞く事に、僅かな抵抗を覚える。
だが、そんな勝悟の内心を知る由も無い天音は、さらに新たな言葉を紡ぐ。
「小学校も、中学も……こうやって、一緒に並んで通ってるよね」
「うん。……つか、何を今更――」
「……でも、これからはどうかな?」
「……え?」
天音の言葉に、心臓が跳ねたのが分かった。
一瞬歩みを止める勝悟に気付いた天音は、顔を上げると、身体を勝悟の方に向けて、言葉を続ける。
「今、高校生で……これから大学生になって……就職して……それでも、こんな風にしょうちゃんと一緒に並んで歩く事……出来るのかな?」
「え……」
勝悟は、天音の言葉に呆然として、思わず言葉を失った。
(ちょ、ちょっと待って? そ、それって、どういう意味……?)
彼の脳内は、今のアマネの言葉をどう解釈すべきか迷って、盛大に混迷する。
とにかく、彼女の問いかけに何か言葉を返さなければならない。……だが、何を答えればいいのか? 全く思考が纏まらない。
――いや、
(ええと……アマネは、俺にどんな答えを求めているんだ……?)
下手な事を言ってしまったら、ふたりの関係に大きな亀裂を生む事になる。
……だが、無難な事を言っても前に進まない――むしろ後退してしまう。そんな確信もあった。
彼は、口の中の水分が一瞬で蒸発したのを感じながら、ぎこちなく舌を動かそうと――
「え……と……」
「……あ! や、やっぱり、今の無し!」
口を開こうとした勝悟を、天音は裏返った声で遮った。
ぎこちない笑いを浮かべた彼女は、何かをごまかすかのように両手を顔の前でブンブンと振る。
「な、何言ってんだろうね、あたし! ご、ゴメンね、しょうちゃん。急に変な事言っちゃってさ!」
「え……? あ、う……ん?」
「――もーらいっ!」
突然の言葉に戸惑い、頭の上に「?」を浮かべている勝悟の手首を掴んだ天音は、その手に握られていたアイスに齧りついた。
「は、はっ? お、おい! いきなり何するんだよ、お前!」
「ん~! 冷たッ!」
口の中を刺激する氷菓の冷たさに顔を顰めながら、天音は大げさに仰け反る。
そして、悪戯っぽい笑顔を勝悟へ向けた。
「だって、しょうちゃんがいつまで経っても食べないから、アイスが溶けかけてたんだもん。落ちちゃったらもったいないじゃない!」
「え……溶け……って、うわっ!」
訝しげに手元を見ようとした勝悟は、手の甲に伝う冷たい感触に、思わず悲鳴を上げる。
――天音の言う通り、手に持ったアイスからは、雫がぽたぽたと滴り始めていたからだ。
「うわ、マジだ!」
慌ててアイスに口を近付けて、滴る雫を受け止めた勝悟は、急いでアイスを数口齧り取るが、ビッグサイズのソーダアイスは容易に減らない。
「つ……つべふぁい! あ……頭痛ぇ……!」
左手で頭を抱えて悶絶する勝悟。
と、急にアイスを持つ右手を引っ張られた。
「え……?」
「しょ、しょうがないから、一緒に食べてあげるよ、しょうちゃん!」
天音はそう言うと、ソーダアイスを一口齧る。
「……お、おう」
勝悟は、左胸が鳴らす間隔の速い鼓動を聞きながら、ぎこちなく頷く。
右手の甲を滴る溶けたアイスの冷たさは感じず、その代わりに、彼の手首を掴む天音の掌の温かさと柔らかさをハッキリと感じた。
「……」
彼は無言で、アイスを頬張る天音の顔を見下ろす。
その顔は、夕焼けの光に照らされて真っ赤だった。
……多分、その顔を見つめる勝悟の顔も、同じ色に染められていたのだろう。
勝悟は、小さく息を吸うと、ぎこちなく唇を開く――。
「あ……アマネ、あのさ――」
◆ ◆ ◆ ◆
「……はっ!」
勝悟は、カッと目を見開くと、慌てて顔を上げた。
そして、戸惑った様子で、周囲を見回す。
「ここは……?」
彼がいたのは、初夏の夕焼けの光に照らされた下校途中の道では無かった。
鼻をつく消毒液の匂い。四方を囲む殺風景な白い壁。同じ波形を刻み続ける心電図モニター。
――そして、部屋の片隅に置かれた白いシーツの医療用ベッド。
その上に、到る所に包帯を巻きつけられた痛々しい姿で横たえられている、窶れ切った顔の少女――。
勝悟は、震える声でベッドの上に横たわる少女の名を呼ぶ。
「ア……マネ……」
だが、彼の声に応じて、固く瞑られた目が開く事も、きつく結ばれた唇が動く事も無かった。
さっき見たのは夢だったのか……? と考えながら、勝悟は自分の右手をじっと見下ろす。
だが――その手には、さっきまで確かに握っていたはずの棒アイスは無く、手の甲を濡らす溶けたアイスや、手首を掴んだ天音の掌の温かく柔らかな感触は残っていなかった。
「あ……あぁ……」
勝悟は、胸の中にぽっかりと大穴が開いた様な空虚感に苛まれながら、医療用ベッドの側へと歩み寄る。
そして、震える手を伸ばして、ベッドに横たわる天音の白い頬に触れた。
――冷たい。
彼女の頬は、残酷なまでに冷たかった。
「……アマネ」
勝悟は、かすれた声で彼女の名を呼ぶが、その呼びかけに天音が応える兆候は無い。
――ぽたぽたと音を立てて落ちた小さな水の滴が、白いシーツを濡らした。
「うぅ……アマネ……アマネ! 頼む、起きてくれ……」
彼は、両目から落ちる涙を拭う事も忘れ、固く目を瞑った天音に声をかけ続ける。
「アマネ……! もう一度、俺の事を見てくれ。俺に、声を聞かせてくれ……頼む……一言でいいから……!」
ベッドの傍に跪き、懇願する勝悟。
――その時、彼の耳元で、声がした。
『……ちゃん? ――しょうちゃん?』
◆ ◆ ◆ ◆
「――ッ!」
目をカッと見開いて、ハヤテは跳ね起きた。
「ぐっ……!」
同時に、全身に激しい痛みが走り、彼は呻き声を上げる。
彼は、激痛を堪えながら首を左に巡らし、思わず戸惑いの声を上げた。
「こ……ここは?」
彼の視界に入ったのは、茶色い布地だった。
ほどなくハヤテは、自分が大きなテントの中で横たわっていた事に気付いた。
「俺は……何で……?」
自分の胸にかけられていた、独特な匂いのする白毛の毛皮を持ち上げながら、まだ状況が理解できないハヤテは、呻き声を上げながら痛む頭を押さえる。
その時――、
「……しょうちゃん。やっと起きた……?」
「……ッ!」
自分にかけられた静かな声を聞いたハヤテは、目を飛び出さんばかりに見開いたまま、動きを止めた。
まるで油の切れたおもちゃのロボットのようなぎこちない動きで、ハヤテは声のした方に首を巡らせる。
彼の目に飛び込んできたのは――かつては見慣れていて、最近では見られなかった、黒縁メガネをかけた三つ編みおさげの少女の姿。
彼女は、あの日の夕暮れ時の帰り道で見た時と同じはにかみ笑いを浮かべる。
「良かった……。しょうちゃん、起きなくて心配し――」
「……ッ!」
言葉が終わる前に、ハヤテ――勝悟は、少女に抱きついた。
そして、温かな体温を感じながら、
「アマネ……会いたかった……ッ!」
彼女の華奢な身体を、きつくきつく抱きしめるのだった――。




