第十六章其の壱拾壱 星天
真空状態となった空間に空気が一気に吹き込んだ為に巻き起こった突風がようやく収まり、舞い上がっていた土埃もようやく収まった。
「か……は……っ」
突風が吹き込んだ中心部で、大の字になって横たわっていたのは、白い装甲を纏ったハーモニーだった。
彼女の胸の装甲は、蜘蛛の巣状の亀裂が走って大きく凹んでいる。それは、先ほど交差法気味に食らったルナの拳によるものだ。
やがて、胸に走った亀裂は、ピシピシと音を立てながらだんだんと全身の装甲に及び、そして――“びしぃ……ッ!”という一際大きな音を立てると、ハーモニーの全身を覆っていた装甲は、淡い光を放ちながら消え去る。
光が消え去ると、そこには、胸を上下させて浅い息を吐く、メガネをかけたおさげ髪の少女の姿が横たわっていた。
一方――。
「――ぷはぁっ!」
ウルブズ・バキューム・テリトリーで、自分の周囲の空気を弾き飛ばして真空状態にしたルナは、拳撃を放った体勢のまま、それまでずっと止めていた息を一気に吐き出した。
そして、肩を激しく上下させながら、一心不乱に新鮮な空気を肺に取り入れていたが――急に口元を押さえる。
「うっ……! き、気持ち悪……うっぷ!」
左手で仮面の口元を押さえながら、彼女は右手でコンセプト・ディスク・ドライブのイジェクトボタンを押した。
『イジェクト』
淡白な機械音声と微かなモーター音を上げながら、ディスクトレイがゆっくりとせり出す。
それと同時に、ルナの体を覆う蒼いウィンディウルフの装甲が溶ける様に消え去った。
「うぅ……あ、頭がグルングルンするぅ……」
装甲を解除した碧は、口元と鳩尾を押さえながら、その場に蹲った。
「うぅ……目が回る……。マジで吐きそぅう……」
戦いの間には忘れていた、ハーモニーの狂詩曲・音の壁によって与えられた三半規管と脳への影響が、津波のように彼女を襲う。
「うぅ……う……はぁ……」
「……ちょっと、アナタ……大丈夫……?」
その傍らで横たわったままの天音が、思わず彼女に声をかけた。
天音の声を聞いて、碧は蹲ったまま、軽く右手を上げてみせる。
「う……うん……。大丈夫……たぶ――うぷっ!」
「無理しない方がいいわよ……! 吐きたいんなら、我慢しないで吐いちゃった方が楽になるって」
天音の心配げな声を耳にしながらも、碧は小刻みに首を横に振ってみせた。
「う、ううん……大丈夫。す……少し楽になってきた……気がする。っていうか……と、年頃の女の子が、人前で吐いちゃったらダメでしょ。色々と……」
「そんな事言ってる場合じゃないと思う……。そんな風にしちゃったあたしが言うのもなんだけど」
意固地な碧の言葉に、天音は思わず呆れる。
小さく息を吐いた彼女は、寝ころんだまま空を見上げた。
空には、宝石箱の中身を巻き散らかしたような満天の星空が広がっている。
「……綺麗――」
かつて自分が住んでいた日本ではとても見られなかった絶景に、彼女の心は大きく揺り動かされた。
――同時に、ずっと胸に蟠っていた澱のような何かが、スッと消えた様な気がした。
天音は、首を横に向けると、自分に背を向けて蹲っている碧に向けて、ぼそりと呟く。
「……ごめんね」
「……え? 何か言った?」
「……ううん、何でもない」
振り返った碧の問いかけに、天音は口の端に微笑を浮かべながら首を横に振った。
と、
「うぅ……やっぱり無理ぃ。横になる……」
碧は顔を顰めながらそう言うと、その場にゴロンと寝転ぶ。
そして、先ほどの天音と同じように空を仰ぎ見ると、その眼を大きく見開きながら小さく叫んだ。
「ねえ! 見てみなよ! 空が凄いよ! 星だらけ!」
「……もう見たわよ。――っていうか、『星だらけ』って……。アナタ、もう少し女の子っぽい、可愛らしい言い方が出来ないの?」
「いいじゃん! ホントに星だらけなんだからさ! それとも、『お空キレイ~』の方が良かった?」
「……ぷっ!」
碧の口調に、天音は思わず噴き出した。
胸の痛みを堪えつつ、それでも愉快そうにクスクスと笑い声を上げる天音の横顔を不思議そうに見ながら、碧は首を傾げる。
「今のやり取りで、そんなにウケる要素あった?」
「ふふ……いえ、そうじゃなくってね……」
碧の問いかけに対し、軽く頭を振りながら天音は言葉を継いだ。
「……ついさっきまで、命を懸けて戦ってたはずのアナタとこんな風に話をしてるのが、何だか不思議って言うか面白いって言うか……」
「……そういえばそうだね」
天音の言葉に、碧も微笑みを浮かべて頷いた。
そして、ふと表情を引き締めて、再び口を開く。
「……で、どうする? まだやる?」
「……ううん」
碧の問いかけに、天音は小さく頭を振る。
そして、掌の中の小さな鈴を掲げるように見せながら言った。
「今のアナタの攻撃で、あたしのカナリアラプソディはボロボロになっちゃったからね。すぐには使えないわ」
「そっか……じゃあ――」
「……うん」
天音が、今度は小さく頷いた。
「この戦い……アナタの勝ちよ。ええと……」
そう言いかけると、天音はふと言い淀んだ。
そして、戸惑う様な表情を浮かべ、それから苦笑した。
「……そういえば、あたし、アナタの名前をまだ知らなかったわ。――おかしいね。あんなに本気で戦ってた相手の名前も知らないなんて――」
「――香月碧」
「え……?」
思わずキョトンとする天音に向かって優しく微笑みかけた碧は、自分の顔を指さした。
「私の名前。香月碧って言うんだ。アオイって呼んで。アマネちゃん」
「……アタシの名前は知ってるんだ」
「ハヤテさん――勝悟さんから聞いたからね」
「……そっか」
碧の口から幼馴染の名が出た事に、一瞬顔を強張らせた天音だったが、すぐに表情を緩めると、碧と同じように自分を指さしながら言った。
「……でも、アナタが名乗ったんだから、あたしもちゃんと名乗るべきよね。――あたし、秋原天音。呼び方は……好きにしていいわ」
「うん。よろしくね、アマネちゃん」
「よ……よろしく――」
「……」
「な……何よ……?」
真顔で自分を見つめる碧を前にたじろぐ天音だったが、碧が何を言いたいかを察すると、口を尖らせた。
そして、一瞬視線を彷徨わせた彼女だった、小さく息を吐くと、僅かに頬を染めて口を開く。
「……宜しく、コウヅキ――」
「え~! 苗字呼びなの? 私は下の名前で呼んでるのに?」
「う……わ、分かったわよ……」
碧の言葉に、アマネは観念した様子で言い直す。
「よ、宜しく……アオイ……」
「よろしくね、アマネちゃん!」
そう言い交わしたふたりの少女は、互いに表情を和らげると、満天の星空の下で朗らかに笑い合うのだった。




