第十六章其の弐 永暇
テラは、鋭い光を宿らせたアイユニットで、立ち竦むニンジャを睨んでいたが、
「……は……ヤテ……殿……」
「――ッ! ヴァルトーさんッ!」
弱々しく自分を呼ぶ声を聞きつけ、慌てて振り向いた。
再びその手を取り、瀕死の猫獣人の顔に自分の顔を近付ける。
「しっかりして下さい、ヴァルトーさん! すぐに傷の手当てを――」
「は……ははは……。それは……もう、結構……」
上ずった声で呼びかけるテラに霞んだ目を向けながら、ヴァルトーは弱々しく微笑んだ。
そんな彼に向かって、テラは激しく首を横に振る。
「諦めないで下さい! まだ……まだ間に合います……!」
「はは……。いや……自分の身の事は、自分が一番良く解っております。……これは、もう……ダメですな」
「……ッ」
ヴァルトーの言葉に、思わず声を詰まらせるテラ。
そんな彼に向けて、ヴァルトーは小さく頭を下げてみせた。
「ハヤテ殿……よくぞ……よくぞ戻って来て下さった。おかげで……ドリューシュ殿下のお命が救われました。……感謝いたします」
「……違う! 俺は……全然間に合ってなんかいない……ッ!」
ヴァルトーの言葉に、激しく頭を振るテラ。
「俺が、もっと早くここに来ていれば……いや、あの時、別れなければ……あなたがこんな事になる事は無かったんだ! 俺は……あなたを救えなかった……」
「いえ……貴方は、私の事もキチンと救ってくださいましたよ……」
「……え?」
意外な言葉をかけられて、テラは思わず戸惑いの声を上げる。
そんな彼の手を力強く握り返すと、ヴァルトーは大きく頷いてみせた。
「……あのまま、殿下を“森の悪魔”に斃されてしまっていたら、我々は『主君を護れなかった兵』との誹りを免れなかったでしょう。ハヤテ殿……貴方は、ドリューシュ殿下のお命と共に、我々の名誉と誇りをも救ってくれたのです。……かたじけのうござった」
そう言うと、ヴァルトーは大きな息を吐いた。
そして、霞む目を凝らしてテラの獅子面を見つめると、彼に向けて深々と頭を下げる。
「ヴァ……ヴァルトーさん……?」
「――むしろ、謝らねばならぬのは、私の方です。……申し訳ございませぬ」
「……え? そ、それは、一体――」
「私は……貴方の事を……疑ってしまったのです」
ヴァルトーは、その目にうっすらと涙を浮かべながら、かすれる声を懸命に絞り出して、言葉を継ぐ。
「先程……あの“森の悪魔”に、『ハヤテ殿の事を、本当はどう思っているのか?』と問われた時……一瞬、揺らいでしまったのです。貴方を信じようとする心が……」
「え……」
「それだけではない……。私は、あの悪魔の言う通り、『いざとなったら裏切られるのではないか?』と、貴方の真意を疑ってしまいました。いえ……最初から疑い続けていたのかもしれませぬ。オシスの砦で、貴方と最初に見えた時から……」
「……」
「……ですが」
そう言いかけて、ヴァルトーは激しく咳き込んだ。
咳と共に周囲に飛び散った鮮血が、テラの紅い装甲を更に朱く染める。
ぐったりとしたヴァルトーは、荒い息を吐きながら、それでも言葉を継ごうとした。
「で……ですが……、それでも貴方は、我々と共に戦ってくれた。――キヤフェの街路でも、ふたりの森の悪魔が現れた時でも、オシス砦にあやつが潜入してきた時でも……そして、今も!」
そこまで言うと、ヴァルトーは震える手を伸ばし、テラの腕を強く掴む。
そして、目から一筋の涙を流しながら、テラに向かって深々と頭を下げた。
「は……ハヤテ殿……そんな貴方の心を、一瞬でも疑ってしまった私を赦してほしいとは言いませぬ! ですが……くれぐれもお頼み申す。いつまでも、ドリューシュ殿下とフラニィ様のお味方でいてあげて下され! それだけは……何とぞ……!」
「……分かっています」
ヴァルトーの必死の訴えに、テラは大きく頷いた。
「ヴァルトーさん、誓います。俺は……いつまでも、絶対にふたりの味方です。だから……安心して下さい……!」
「……ありがとう」
力強いテラの返事を聞いたヴァルトーは、ニッコリと笑うと、深く長い息を吐く。そして、その身体から一気に力が抜け、再びドリューシュの腕に身を委ねた。
「ヴァルトー! おい! しっかりしろ!」
「……殿下」
必死で呼びかけるドリューシュの方に顔を向けたヴァルトーは、虚ろな目を彷徨わせながら言う。
「どうやら……そろそろ、永の御暇を頂くことになるようです。どうか……いつまでもお達者で……」
「おい! ダメだ……逝くのは許さない! お前は、これからも僕の傍にいるんだ!」
ドリューシュは激しく首を横に振りながら、冷たくなりつつあるヴァルトーの身体を揺さぶった。
そして、声を震わせながら懇願する。
「頼むよ……! これからも、僕の事を助けてくれよ。お願いだ……!」
「殿下……このヴァルトー、そのお言葉と涙だけで充分に報われました。もはや……心残りは御座いませぬ」
自分の顔に、温かい雫がぽたぽたと垂れるのを感じながら、ヴァルトーは弱々しい声で言った。
「貴方は……生きて下さい。生きて……フラニィ様――いや、フラニィ陛下をお助けして、ピシィナの民をお導き下さい……」
「ヴァ……ヴァルトー……ッ!」
「お頼み申します……。我らピシィナの民の……未来を……」
「……ああ、分かった!」
両目から滂沱と溢れる涙を手の甲で拭ったドリューシュは、ヴァルトーに向かって力強く頷いてみせる。
「お前の願いは……この、ドリューシュ・セカ・ファスナフォリックが、この命にかけて確と聞き届けた! だから……安心してくれ、ヴァルトー!」
「……ありがとうございます」
ドリューシュの言葉を聞いて、ヴァルトーは穏やかな笑みを浮かべた。
彼は、大きく息を吸うと、既に盲いた目を巡らせて、ドリューシュとテラの顔を見回し、最期の力を振り絞って、口と肺を動かす。
「殿下……ハヤテ殿……それでは、お先に失礼……いたします。あの……高い空の上から……皆様の事を……見守っております……」
そう言いながら、震える腕を上げて、星が瞬く夜空を指さし、
「いつまでも、いつま……で……も……」
そして――、
彼の挙げた腕が力を喪い、パタリと地面の草を打つと同時に――、
その命の灯も、
儚く、消えた。




