第二章其の参 良心
フラニィの首の皮膚を突き破って噴出した彼女の動脈血は、蛇が鎌首を擡げるように天井近くまで噴き上がると、急なカーブを描いて下に落ちる。
その落ちる先には、ジュエルが右手に持った壺があり、フラニィの血液は吸い込まれるようにその中に収まっていく。
壺の中に落ちた血液が撥ねたり溢れたりしないのは、ジュエルのブラッディダイヤモンドエディションの能力で血流を巧みに調整しているからだ。
「ああああああああぁぁ……!」
「や……止めろ!」
みるみる体内から血液を失っていくフラニィの絶叫が、だんだんと弱まっていく。ハヤテは何とかジュエルの行為を止めようと絶叫するが、当のジュエルはまるでその叫びが聞こえていないかのように、血液を壺に溜める作業に夢中になっている。
「止めろ! は……放せぇっ!」
ハヤテは自分を羽交い締めにしている薫に向かって怒声を上げたが、薫は冷笑を浮かべただけで、腕の拘束を解こうとはしなかった。
――フラニィの縦長の瞳孔が、徐々に虚ろになっていく。白い毛皮に覆われた顔の真ん中の鼻も、鮮やかな桃色から毛皮と変わらない白色に変わり始めた。
と――ジュエルが、唐突にフラニィの首を掴んでいた左手を放す。
それと同時に、彼女の首から噴き出していた血液の流れがピタリと止まった。
「……よし。この位取れれば充分だろう」
満足そうな声でそう言ったジュエルは、フラニィの血液で満ちた壺に栓をし、貯蔵庫の棚に戻す。
そして、ジュエルブレスに嵌めたブラッディダイヤモンドの魔石を外し、装甲を解いた。
「――牛島! お前ェ……ッ!」
ジュエルから牛島に戻った彼に向かって、ハヤテは歯を剥き出して吼えた。
そんなハヤテに、苦笑を浮かべながら牛島は言う。
「何だい、疾風くん? 随分と怖い顔をして。別に私は、彼女の命を奪った訳では無いよ」
そして、彼は傍らの棚に置いた壺を指さして、言葉を継いだ。
「――君が最初に目を醒ました時も言ったが、我々には彼女の存在は必要なものなのだ。利用価値がある間は、その命は徒や疎かには扱わないよ。……ただ、彼女に流れる“王家の血”の献血にご協力頂いただけさ」
「献血――だと?」
牛島の発した単語のひとつに、ハヤテは眉を上げる。
そんな彼を前にした牛島は、皮肉げに口元を吊り上げ、小さく頷いた。
「そう、献血。――と言っても、我々の輸血用って訳では無いよ。……猫の血液を人間の体内に入れるなんて心底ゾッとするし、第一、獣の血を人間の我々に輸血して大丈夫なものなのか、分かったものではないからね」
牛島はそう言うと、太縄で吊されたままグッタリとしているフラニィの顎に指を添える。
「――言っただろ? 『王都キヤフェを覆う結界は、王家の者、或いはその身体を流れる王家の血で通過する事が出来る』って。この血液があれば、彼女無しでの結界の通行が可能になるんだ。万が一の事態に備えて、結界の“通行手形”として彼女の血を保管しておこうと思ったまでさ」
「……牛島」
涼しい顔で喋る牛島の顔を睨みつけながら、ハヤテは低い声で彼の名を呼んだ。
それに対して、牛島はおどけた顔で肩を竦めながら応える。
「――何だい、疾風くん?」
「……お前は、良心が痛まないのか? 人ではないとは言っても、言葉を喋り、意思の疎通が可能な者を相手に、こんな非道い真似を――」
「良心が痛まないのか、だって?」
牛島は、ハヤテの問いに目を丸くし、
「本当に面白い事を言うね、君は」
――満面の笑みを浮かべながら言った。
「じゃあ、向こうの世界にいた時に、君は屠殺される牛豚相手に良心を痛めたのかい? 焼肉や牛丼やステーキを平らげながら、その度に罪悪感に苛まれていたのかい? ……違うだろう?」
「それは……」
「私達が他の生き物の命を奪うのは、自分たちの命を生き長らえさせる為だ。――それと、今の私の行為に、どんな違いがある?」
そう威圧感を込めた声で言うと、牛島はハヤテの顔に自分の顔を近付ける。
そして、息がかかるまでに近付いたハヤテの顔を静かな瞳で睨めつけながら、静かに言葉を続けた。
「……違わないよ。これは、我々が生き延び、元の世界へ帰る為に必要な行為だ。――その事に異論を挟む事は……決して赦さない」
◆ ◆ ◆ ◆
夜が更け、天から降り注ぐ蒼い月の光が、木々の茂りの狭間から微かに地表に漏れている。
蒼月の寂光は、森の中に建つ山小屋も、等しく静かに照らし出していた。
――と、
ぎぃ……
微かな軋み音を立てながら、山小屋の扉がゆっくりと開く。
「……」
その扉の隙間から、恐る恐るといった様子で顔を覗かせたのは、ハヤテだった。
最低限の間隔だけ扉を開いたハヤテは、出来るだけ音を立てないように気をつけながら、身体を横にしてゆっくりと外に出る。
そして、軋む扉にヒヤヒヤしながら、慎重に扉を閉めにかかった。
閉める直前、彼はもう一度室内の様子を窺う。そして、床で雑魚寝しているみっつの影がピクリとも動かない事を確認したハヤテは、小さく安堵の息を吐くと、扉を完全に閉めた。
「……急がないと」
そう独り言ちた彼は、小走りで月の光が照らす下草を踏みしめながら目的地へと向かう。
その目的地とは――食糧貯蔵庫だった。
「……」
貯蔵庫の前に立ってから、もう一度だけ背後を窺って不審な影が見えない事を確認したハヤテは、引き戸に手をかけ、一気に開く。
暗い食糧貯蔵庫に、蒼い月の光が注ぎ込み、ぼんやりと白い影を照らし出した。
「……フラニィ!」
吊り下げられたまま固く目を瞑り、項垂れた白毛の猫獣人の顔を見たハヤテは、思わずその名を呼んだ。
……だが、フラニィはその呼びかけに応える様子は無い。
(……まさか――!)
最悪の事態が脳裏に浮かび、ハヤテは青ざめた。
彼は、貯蔵庫の中のフラニィに駈け寄る。
「――フラニィ! 大丈夫か? おい!」
「…………ん……」
「――良かった……」
フラニィが微かに呻いたのを見たハヤテは、ホッと胸を撫で下ろすが、彼に残された時間がそう多くない事を思い出し、ハヤテは顔を引き締めた。
彼は、まだ意識が朦朧としているフラニィの耳元で囁く。
「……フラニィ。今から縄を切る。もう少しで楽になるから、頑張れ」
彼女の返事を聞く暇ももどかしい様子で、ハヤテがカーゴパンツのポケットから取り出したのは、先が尖った土器の破片。
彼は、フラニィの手首を締めつけている太い縄に破片の尖った先を当てると、断ち切ろうと激しく動かし始めた。
いくら尖っているとはいえ、土器の破片で太縄を切るのは容易ではない。たちまち、土器を握るハヤテの掌に血が滲んだ。
だが、彼はその手を止めない。
――そして、
「……切れたッ!」
たっぷり三十分近くを費やして、ようやく太い縄を断ち切る事に成功した。
縛られていた太縄の拘束から解き放たれたフラニィの身体は、支えを失ってバランスを崩し、そのまま地に倒れようとする。
「ふ……んッ!」
頽れるフラニィを、ハヤテはしっかりと抱き抱えた。
彼の胸の中で、フラニィは呻き声を上げながらゆっくりと瞼を開き、虚ろな瞳でハヤテの顔を見上げる。
「は……ハヤテ……様……? ど……どうし……て……?」
「――決まってるだろう?」
ハヤテは、怯え顔のフラニィを安心させようと、優しく微笑みながら言った。
「もちろん――君を助けに来たんだよ」




