第十五章其の伍 二択
「……っ!」
ハーモニーの声を聞いたヴァルトーは、瞬時に背中の毛が逆立つのを感じた。
彼女の吐いた声の響きにどす黒い澱のような怨念を感じ取り、本能的な恐怖を覚えたからだ。
マスクに覆われた彼女の顔を見る事は出来ないが、テラに対する深い恨みでひどく歪んでいるであろう事は容易に想像ができた。
「そ……れは――」
ヴァルトーは、自分を睨み据える彼女の身体から立ち上る圧に呑まれ、無意識に息を浅くしながらも、毅然とした態度で首を横に振る。
「それは――承服できぬ。ハヤテ殿は、我ら猫獣人の良き友人だ。そんな、我が身可愛さに友人を売るような真似は、猫獣人の誇りが赦さ――ッ」
ヴァルトーが決然と発した声は、唐突に途切れた。
ハーモニーが、無言のままでヴァルトーの首を鷲掴みにし、そのまま頭上高く吊り上げたからだ。
「か、は……ッ!」
首元を締め上げられたせいで呼吸を妨げられたヴァルトーは、酸素を求めて口を大きく開けながら、己の首に絡みついたハーモニーの指を何とか剥がそうと必死で藻掻く。
「が……ぐっ……!」
だが、ハーモニーの掌に突き立てようと伸ばした爪は、彼女の手甲の硬さの前にあえなくへし折れ、渾身の力を込めたつもりの蹴りも、宙吊りにされていては威力半減だった。
そうしている内に、ヴァルトーの動きがだんだんと鈍くなっていく。ヴァルトーの口の端に白い泡が浮き始め、その目も虚ろになっていく。
――と、ハーモニーが、自分たちの隊長を救おうと、麻痺した身体を必死で動かそうと足掻いている猫獣人兵たちを睨みつけた。
「……早くあたしの提案を呑まないと、あなた達の大切な仲間が死んじゃうわよ」
「……ッ!」
ハーモニーが投げかけた低く昏い声を聞いた猫獣人兵たちは、焦燥と逡巡を露わにしながら、互いの顔を見合わせる。
そんな彼らに、ハーモニーは更に言葉を継いだ。
「――あたしは、出来るだけ命を奪いたくないの。人間はもちろん……たとえ、敵であるあなた達でも」
「……」
「――だけどね、あいつだけは別! 同じ人間で、まだほんの小さな子どもだった健一くんを、躊躇なく殺したホムラハヤテだけは……!」
「ぐ……ぅ……ッ」
興奮したハーモニーが無意識に力を入れた事で、ヴァルトーの首が更にきつく締まる。ヴァルトーは、大きく開けた口の端から、青黒くなった舌をだらりと垂らした。
そして、ハーモニーの手首を掴んでいた両手も尻尾も、力無く垂れ下がる。
「た……隊長ぉッ!」
そんなヴァルトーの姿を見た猫獣人兵たちが、思わず色を失う。
と、
「早く決めてッ! あなた達の仲間をあたしに殺させるか、それとも、あたしにホムラハヤテを差し出して、仲間の命を救うか! ……簡単な選択でしょ?」
「う……ッ!」
猫獣人兵たちは、自分たちを急かすハーモニーの言葉を前に、再び顔を見合わせた。
「そ……それ……は……」
そして、困惑した様子で口ごもる。
「……ん?」
ハーモニーと猫獣人たちのやり取りを少し離れた所で見ていたニンジャは、そんな猫獣人たちの様子に、ふと違和感を覚えた。
そして、ハーモニーの背中に声をかける。
「――ねえ、ハーモニー?」
「……」
「おーい、聞こえてるか~?」
「……」
「なぁ……アマネちゃーん?」
「……何ですかッ!」
しつこく呼びかけるニンジャに業を煮やした様子のハーモニーは、声を荒げながら背後を振り返った。
「何なんですかッ! 邪魔しないで下さい!」
「おー、怖い怖い」
ハーモニーに怒鳴りつけられ、おどけた様子で首を竦めてみせたニンジャだったが、すっと指を伸ばして、へたり込んでいる猫獣人たちを指さして言った。
「いや……ちょっとピンと来たんだけどさ。ひょっとして……彼ら、君の前に焔良さんを出したくても出せない事情があるんじゃないかな?」
「そ……そうなのだ!」
冷静なニンジャの言葉に、得たりとばかりに頷いたのは、猫獣人兵のひとりだった。
「……どういう事?」
ニンジャの言葉と猫獣人兵の肯定の声を聞いたハーモニーは、胡乱げな様子で小さく首を傾げた。
そんな彼女に、猫獣人兵は懇願するように頭を深く下げながら、叫ぶように答える。
「そちらの男が言った通りだ! い、今現在――ホムラハヤテ殿は、我が討伐隊の中には居ないんだ!」
「そ……そうだ! ハヤテさんは、夕方前には既に隊から離れ、キヤフェに――!」
「バカッ! そこまで言うな……ッ!」
焦って口を滑らせた仲間を、別の猫獣人が制止しようとするが、もう遅かった。
「キヤフェ……?」
兵が口走った言葉を聞き逃さなかったハーモニーは、ヴァルトーを吊り上げたまま、兵の顔を睨みつける。
「キヤフェって……確か、あなた達の国の首都みたいな所よね? どうして? どうして、ホムラハヤテがあなた達の事を放って、わざわざそんな所に行く必要があるの?」
「そ……それは……」
「……」
言い淀む兵に苛立ったハーモニーが、無言でヴァルトーの首に回した指に力を込めた。
すでに虫の息のヴァルトーだったが、それでも苦しそうな呻き声を上げ、ビクビクと身体を痙攣させる。
「か……かは……っ」
「た、隊長ッ!」
苦しむ隊長の姿を目の当たりにした兵は、激しい葛藤に顔を歪めたが、すぐに唇をギュッと噛み締める。
そして、迷いながらおずおずと答えた。
「き……キヤフェの王宮に潜入して、軟禁されているフラニィ殿下を救出する為……だ」
「フラニィ? ……あぁ、牛島さんが焔良さんを捕らえた時に一緒に居たっていう、猫獣人のお姫様か」
兵の答えを聞いたニンジャは、うんうんと頷く。
「何で軟禁されているのか、事情は良く分からないけど、焔良さんはいたくお姫様の事を気にかけているらしいからな。彼女の為に王宮とやらに殴り込もうとするっていうのも、充分にありえそうな話だ」
「……」
「……どうしようかねぇ、ハーモニー?」
ニンジャは、沈黙しているハーモニーの背中に向けて尋ねた。
「彼らの言う通りなら、ここに留まっていても、焔良さんには会えな――」
「――ッ!」
ニンジャの声が唐突に途絶え、その代わりに、無数の風切り音が耳に届いたのを知覚した瞬間、ハーモニーは即座にヴァルトーの首を掴む手を放し、素早く身を翻す。
一方のニンジャも、即座に背中の忍一文字を抜き放ち、自分に向かって飛来してきたものを斬り払った。
「――黒塗りの矢!」
地面に転がった数本の黒い矢を目にしたニンジャが、緊張した声で呟く。
そして、矢が飛んできた方向に目を凝らした。
「……うわ、猫さんがめっちゃいる! あれが多分、敵の本隊だな……」
「――ッ!」
ニンジャの言葉に、ハーモニーはマスクの下の目をカッと見開き、生い茂った木々の向こうを透かし見る。
――確かに、暗闇に紛れて、無数の影が蠢いていた。
と、彼女の肩をニンジャが軽く叩く。
「……ハーモニー。さっきの話、多分本当だよ」
「! 何で分かるんですか?」
「そりゃ、簡単さ」
訊き返すハーモニーに苦笑しながら、ニンジャは答えた。
「あの本隊に焔良さんとアオイちゃんが居るんだったら、奇襲の初手はこんなちゃちい矢の一斉射なんかじゃなくて、装甲戦士の必殺技に決まってるからさ。――そうじゃなかったって事は、即ち、あの中にふたりは居ないって事だ」
「……!」
ニンジャの言葉に、ハーモニーは息を呑む。
そして、躊躇するかのように、ニンジャの顔と闇の向こうの影、そして、その更に向こうへ視線を彷徨わせた。
――そんな彼女の肩に手を置くと、ニンジャは顎をしゃくってみせる。
「――いいよ、行って来な」
「えッ……?」
「ここは、己ひとりで引き受ける」
ニンジャは、木々の向こうを指さしながら言った。
「だから、君はここから脱出して、焔良さんの事を追いかけるんだ」
「え……で、でも――」
「己の事は心配無用だぜ」
当惑の声を上げるハーモニーに力こぶを作ってみせながら、ニンジャは大きく頷いてみせる。
「己は、装甲戦士ニンジャ様だぜ? 野良猫の一匹や二匹や千匹ごとき、己の敵じゃないさ」
「でも……」
「いいから!」
なおも逡巡するハーモニーの背中を無理矢理手で押し出すと、ニンジャは「その代わり――」と言葉を継いだ。
「テラと戦う前に、彼とキチンと話をするんだ」
「は? ……何で?」
「そりゃあ……」
『焔良さんは、健坊を殺してなんかいないからだ』と言いかけたニンジャだったが、その言葉は喉の奥で引っかかる。
健一の仇討ちにすっかり心を囚われている今のハーモニーに、実際の顛末を直接知らない自分がそんな事を言ったところで、彼女の心までは届かない――いや、むしろ逆に、更に頑なにさせてしまうであろう事が容易に想像できたからだ。
そう考えた彼は、小さく頭を振ると、少しだけニュアンスを変えて言った。
「……もしかしたら、君が彼の事を色々と誤解してしまってるかもしれないからだよ。――そもそも、彼が健一を殺したという事自体が誤解なのかも……」
「そ……そんな事っ」
「己たちは“人間”だろ? アマネちゃん」
激しく頭を振るハーモニーに、優しく諭すように言うニンジャ。
そして、彼女の目を真っ直ぐに見据えながら、更に言葉を続けた。
「人間同士、まずは話し合え。自分の言い分を伝え、相手の言い分を良く聞くんだ。――憎み合うのは、焔良さんと直接話をしてからでも遅くないさ」
――そう口では言いつつ、ニンジャは心の中でハヤテに謝っていた。
(――悪い。あとは、自分でアマネちゃんの誤解を解いてくれ、焔良さん)




