第十一章其の伍 要求
「け――警官殺し……?」
ハヤテは、少女の発した言葉に、思わず絶句する。
同時に、自分の立っている地面が音もなく崩れ、自分の身体が奈落の底に堕ちていくような錯覚を覚えた。
そうなるのも、無理はない。
――“仁科勝悟”が、“警官”を“殺した”。
少女――つまり、第三者の口から、ハヤテが見ていた夢の内容と合致する固有名詞と事実が出たのである。
すなわち、時折見る奇妙な夢が、文字通りの“夢”ではなく、この世界に堕とされた際に喪った、日本にいた頃のハヤテ――否、仁科勝悟の“記憶”の欠片だという事だ。
その、酷薄にして厳然とした事実を、ハヤテは否応なく確信させられた。
「……君は――」
ハヤテは、口の中がカラカラになるのを感じながら、かすれた声で少女に尋ねかけた。
途端に、少女の身体がびくりと跳ね上がる。
「い……いや……! は……話しかけないでよ、人殺しが!」
「……ッ」
少女の激しい拒絶に、ハヤテは思わず表情を強張らせる。
彼はギリッと唇を噛むと、気持ちを落ち着かせようと、鼻で細く息を吐いた。
そして、おもむろに手に持っていたコンセプト・ディスク・ドライブを地面に置くと、ゆっくりと両手を挙げ、口を開いた。
「……怖がらせてしまったのなら、申し訳ない。……だが、見ての通り、もう俺は何も持っていない。だから、安心してほしい――と言っても、難しいかもしれないけれど……」
「……」
その静かな声に、怯え切っていた少女の表情が、僅かに和らぐ。
少しだけ警戒を軟化させた少女の様子を見たハヤテは、小さく首を縦に振った。
「……ありがとう」
「……」
ハヤテの感謝の言葉に、微かに驚いた表情を浮かべた少女だったが、無言のまま、油断の無い視線をハヤテに向け続ける。
僅かに緩んだ彼女の警戒心を、再び励起させる事の無いように、ハヤテは努めて穏やかな声を出すように心がけながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「さぞかしビックリしているのだろうね。突然、こんな見た事もない世界に放り出されて……」
「あ……当たり前でしょ!」
ハヤテの言葉に、少女は声を荒げる。
「な……何なのよ、ここは! アキバで遊んで、電車に乗って帰る途中で急に眠くなって、座席でうたた寝してたはずなのに、気が付いたら大きな木の幹に寄りかかってて……。何が何やら分からなくて、とにかく森の中をウロウロしてたら、全身がウロコだらけの……大きなトカゲみたいのに襲われて――」
「ああ……アレか……」
ハヤテは、自分がこの世界に堕ちて、初めて遭遇したドラゴンのような生き物の事を思い出した。
――あの時、ハヤテは初めて装甲戦士テラとなり、そして、猫獣人の少女・フラニィと出会ったのだった……。
そんな彼を前に、少女はますます興奮しながら捲し立てる。
「ね……ねえ、この際、あなたでも構わないから、教えてよ! ここが一体どこで、何で私がこんな所にいるのか――を!」
「ああ、もちろん」
少女の懇願に、ハヤテは二つ返事で頷いた。
自分の要求が、あっさりと受け容れられた事に、少女は拍子抜けする。
「……いいの?」
「いいよ、別に。……と言っても、俺が知っている情報も、そんなに多くは無い。君の疑問が解消するほどの答えは、持ち合わせていないと思う」
そう答えて、ハヤテは苦笑いを浮かべた。
「でも、今現在、俺が知っている全ての情報を、君に教える事を約束するよ。その代わり――」
「や! やっぱり……そう来るのねっ!」
ハヤテの言葉を絶叫で遮って、少女は身を竦める。
「どうせ……『知ってる事を教えてやる代わりに、俺の命令を聞け』とか言って、私にアーンな事やこんな事をヤラせようって言うんでしょっ!」
そう叫ぶと、少女は舌を突き出した。
「絶対嫌よ! そんな事させられるくらいなら、いっそこの場で、舌噛み切って死んでやるんだから!」
「あ……いや! そ……そんな事をやらせる気は無いよ。落ち着いてくれ……頼む!」
舌を噛んだ上下の前歯に、今にも力を入れようとする少女を、慌てて制止するハヤテ。
「お……俺が言いたかったのは、君にこの世界の情報を教えるのと引き換えに、君が知っている“仁科勝悟”の情報を、俺に教えてほしい――って事だけなんだ」
「仁科勝悟の……情報?」
ハヤテの提案を聞いた少女は、ポカンとした表情を浮かべ、胡乱げに首を傾げた。
「……どういう意味? だって……仁科勝悟は、あなた自身でしょ? だったら――別に、私から自分の情報を聞き出そうとしなくたって――」
「実は……」
少女の問いかけに、ハヤテは表情を曇らせながら、小さな声で答える。
「実は、俺……この世界に堕とされる前の記憶を、殆ど失くしているんだ」
「え……?」
「最近は……以前の事が時々夢に出てくる事があって、それを見てぼんやりと思い出す事もあるんだけど……。まだ断片的で、『全ての記憶を取り戻した』とは、とても言えないのだけれど……」
「じゃあ……『警官殺し』の事は……?」
「……ついこの間、その時の情景が夢に出て来て、やっと思い出した……んだと思う」
そう、ハヤテは煮えた鉛を吐き出すような顔をして言うと、力無く首を左右に振った。
「正直……あれは、タダの夢なのだと思い込みたかったんだけど……。君が、俺の本名と、俺の見た夢の内容と同じ事を口にしたからには……事実なんだと認めざるを得ない……」
「人を殺したのに……それを忘れてるだなんて……信じらんない……」
「……」
少女の厳しい糾弾の声に、沈痛な表情を浮かべて俯くハヤテ。
そんな彼の様子を見ていた少女は、バツの悪そうな顔をすると、口をへの字に結んだ。
と、今度は首をぐるりと巡らせて、周囲を取り囲む猫獣人兵たちに警戒の視線を向ける。彼らの周囲を取り囲む猫獣人兵たちは、一様に厳しい表情のまま、ふたりのやり取りを固唾を呑んで見守っていた。
「……」
そして、少女は迷うように視線を中空に這わせたが、やがて諦めたように大きな溜息を吐く。
「はぁ……。こんな訳の分からない世界で、初めて出会えた人間が、よりにもよって殺人犯だったっていうのが、何とも私らしいっちゃらしいけど……」
「ご、ごめん……」
「……調子狂うなぁ」
少女は愚痴る様に言うと、苦笑いを浮かべた。
「一応、私の中では、仁科勝悟は血も涙もない殺人鬼ってイメージだったんだけど……。今のあなたからは、全然そんな怖い印象は受けないのよね。何か不思議だけれど……」
「……」
「――分かったわ」
少女は頷くと、ハヤテの顔を真っ直ぐ見つめながら、言葉を継いだ。
「あなたの要求を呑むわ。私が知っている限りの“仁科勝悟”の情報を、あなたに教えてあげるわ。その代わり――」
「ああ。俺が知り得た限りの“この世界”に関する情報を、君に伝えよう。――ええと……その、君は――」
「――碧」
おずおずと名前を尋ねたハヤテに、彼女は凛とした声で答えた。
「私は――香月碧よ。よろしく……仁科勝悟さん」




